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手に入れた日記

 発達した積乱雲が、照りつける真夏の日差しを遮る。アスファルトの上に、雲の形をした影がゆっくりと伸びてゆく。湿り気を帯びた風が、街路樹の緑を次々としならせながら通り過ぎてゆく。

 住宅街の街路樹の下を歩く僕の前には、女の子が二人並んで歩いている。茜と綾乃さんだ。


「ねぇ、翔太、これから美咲の日記を確認しようと思うんだけど、つきあってくれるわよね?」


 茜は、歩きながらこちらに顔を向ける。


「ん、いいけど。中にどんな事が書いてあるか気になるし。だけど、日記はあったの? 貸していたノートはあったらしいけど」


 茜は、説明するのも面倒くさいといった感じで、美しい眉間に皺を寄せた。


「なに言ってるのよ。美咲にノートなんか貸してないわよ」


 そして小さく首をかしげる。


「え? でもさっき……」


 今度は綾乃さんが、風になびいた髪を押さえながら振り向いた。


「ノートは茜が家から持ってきたものなの。あらかじめ言わなくてごめんなさいね。全部夕べたてた計画どおりなの」


 いや、そんなことは聞いていないし。


「計画って……?」

「ノートは口実よ。まさか、美咲のお母さんに『美咲の日記を取りにきました』なんて言えないでしょ?」

「ノートを貸していたって嘘だったの? とすると、日記は?」

「私が持ってる」


 綾乃さんは肩からぶらさげたポーチを指差す。


「私はこれから習い事があるから、今日はこれで失礼するけれど。日記は茜に渡しておくわね」


 綾乃さんはポーチから厚めの小さな本のような物を取り出すと、茜に手渡した。


「ありがとう、綾乃。それなら、今日は日記の中を見るのはやめておこうか。明日、みんなで中を確認しましょうね」


 茜は綾乃さんから日記帳を受け取ると、制服のスカートのポケットにねじ込んだ。

 制服のスカートにポケットがついている事を始めて知った僕。まぁ、そんな事はどうでもいいのだが、それよりも僕が気になったのはその前の茜の言葉だ。


  『みんなで中を確認しましょうね』


 僕は明日も付き合わなくてはならないのだろうか? 貴重な夏休みの一日を、またこのメンバーに。美咲さんのお母さんの一件は終わったのだから、僕の役目は終了しているはずだ。明日の事を一応、確認しておかないといけないだろうと思った。


「ところで、その『みんな』の中には僕も入っているのか? 茜」

「あたりまえでしょ? なに言ってるのよ、いまさら。そろそろ諦めなさいよ。ここまで首を突っ込んでおいて、無責任じゃない」


 茜は眉をひそめながら振り向いた。


「いや、今日も大した働きをしていないし、僕なんて必要ないんじゃないかと思って」


 とは言いながら、それでもここまで深入りすると、その先まで知りたくなるのが人の心理というものだ。


「まぁ、この先に何かで役立てるというのなら付き合うけれど」


 普通では知り合う事ができないような美少女三人とも、これでお別れでは名残惜しい気もする。


「役立とうとする気だけはあるのね。そこまで言うのならもう少し付き合わせてあげるわよ。付いてきなさい。この下僕」


 下僕! 茜さん、今度は下僕扱いですか……。言い返す力さえもなくし、がっくりと肩を落とした僕は、一瞬立ち止まって茜の後ろ姿を眺めた。

 その瞬間、振り向きざまに見えた綾乃さんの口元が、一瞬小さく緩むのを僕は見逃さなかった。

ぼ……僕が『下僕』と呼ばれた事を楽しんでいる? まさか、あなたもですか、綾乃さん。


 振り返った綾乃さんのツインテールが、突然の強風と絡まり合い、僕に向かってさらさらとなびいた。


「ところで翔太さん、美咲の家に行く前にお願いした件だけど、美咲のおかあさん、美咲の事本当に心配していた感じだった?」


 風に流された髪を押さえながら、綾乃さんは僕に尋ねた。


「う……ん。僕の目からすると、かなり落ち込んでいる様に見えたけど。やっぱり心配そうだった」

「そう」

「うん。交友関係の事も少し話していたけれど……たしか、真直ぐ家に帰らないとか、遅くなると車で家まで送ってくれた人がいるとか」

「普通、親なら注意するんじゃないの? そういうのって。明らかにお母さんにも責任があるじゃない」


 やにわに茜が振り返る。


「うん。それも言っていた。事情があって注意できなかったって、責任を感じていたみたいだったよ」

「責任を感じるだけ?」

「責任は、感じている様に見えた」


 綾乃さんが茜の肩に手を置く。


「ほら、複雑な家庭の事情があるのよ。仕方ないのかも知れないから」


 そう言ったあと、綾乃さんは遠くを見る目でつぶやいた。


「お母さんが心配そうにしていたっていうことは、今は家庭での問題はなかったと思っていいのよね。美咲は家出をするほど過ごしにくい環境ではなかった。……美咲、本当に自分の意志で家を出たのかしら?」


僕は美咲さんの家に到着する少し前に綾乃さんと話した会話を思い出す。


——『美咲が分かっていてお母さんを受け入れられないだけだとしたら……家庭の不和が美咲のいなくなった原因ではないとすると、自らの意思で私たちの前から消えたのではない。……家出ではないかもしれないから』


——『それは、犯罪に巻き込まれている可能性があるってこと?』


——『まだ、『可能性』の範囲だけどね。私の想像だし。これから、それを確かめに行かないと』


 沈黙が、流れた。


 僕たちは、それから坂の下まで黙々と、ひと言も言葉を交わさずに歩き続けた。それぞれ違った事を考えていたのかもしれないけれど、少なくとも僕は美咲さんの事を案じていた。たぶん……おそらく茜と、綾乃さんも僕と同じ様に美咲さんの事を考えていたのだろう。そんな沈黙だった。


 住宅地の坂を下りきり、笑顔で手を振る綾乃さんと別れた後、僕と茜は同じ方向に歩いていた。


「茜はこれから、どうするの?」


 僕の右隣に当然の様に並んで歩いている茜に、僕は尋ねた。


「どうするって……家に帰るに決まっているじゃない」


 僕の視界の端で、茜は僕の肩の高さから答える。見下ろすと、長く黒い睫毛が白い頬に映えている。

 こいつも黙っていればかわいいのに……と思った瞬間、見上げた茜と目が合った。

 一瞬、見つめ合ったあと、お互いあわてて目を反らす。


「茜の家って、こっちなんだ?」


 茜と目が合わない様に、まっすぐ前を見ながら僕は問いかける。


「同じ方向ね」


 視界の端にいる茜も、僕から目を反らしたまま答える。


「そうなんだ?」


 意外だった。僕の家がある界隈はいわゆる下町で、綾乃さんや、美咲さんの家があるような場所とはちょっと違った雰囲気を醸している。茜が通っているお嬢様学校とは不釣り合いだと思った。


「『そうなんだ』って? 意外?」


「意外っていうか、その制服、この近辺だと名門女子校としてかなり有名な学校でしょ?」

「それって、どういう意味よ?」


 茜は一瞬立ち止まり、僕をみつめた。

 まずい、これは僕の失言だ

「いや、なんでも……途中まで一緒に帰ろうか」

「もう、そうしているじゃない」


 確かにそうだ。そう思うと、僕は女の子と二人きりで歩いている事に急に気づく。

 なんだか、気まずいような、気恥ずかしいような、経験した事のない気持ちが込み上げてくる。これじゃ、まるでデートの帰りじゃないか。


「あ、雨」


 茜が胸の位置で手のひらを上に向ける。


「本当だ」


 大粒のしずくが僕の額に当たった。


「さっきから風も強くなっていたし、雲も厚くなってきているし、降るわね。これから」


 茜が僕の顔を見上げる。


「今日は確か、午後からゲリラ豪雨の予報が出ていた気がする」


 僕は、昨日の夜にテレビで見た天気予報を思い出しながらそう言った。


 空が鳴った。雨粒が地面に当たる音が徐々に大きくなってゆく。


「僕の家、すぐそこだから走って行こう。着いてきてくれる?」

「すぐそこって、本当に近いのよね? まぁ、いいわ。近いのなら雨宿りに利用してあげる」


 茜は僕の目をまっすぐ見つめると、微かに口元を緩めてから目を優しく細めた。

 そういう会話の間にも雲は厚みを増し、大粒の雨がアスファルトを黒く染めてゆく。土臭い雨の匂いが漂う。

 頭上にまた、一瞬白い光が走ったかと思うと、遠くで雷の音がした。




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