怒濤の三課
〜第1章 クズ社員〜
ベッドの中で壁の丸い時計を睨んでいる、そうしていると時間が止まるかのように睨んでいる。
(あと15分・・8時までは寝ていられる・・)
容赦なく15分が過ぎ、目覚まし時計が騒ぎ始めた。
(くそっ、起きるか・・)
目覚ましを止めると布団を跳ねのけ、パジャマを脱ぎすてた、バスタオルを掴むとバスルームに向かう。
少し熱めのシャワーを頭から浴びると少しずつ目が覚めていく。黒い大きな瞳と、通った鼻筋、口紅を塗った様なサクランボ形の唇が中性的な魅力を放っている、スリムだが空手で鍛えた身体は鋼のように締っている。
(月曜か・・嫌な日だ・・またうっとうしい一週間が始まる・・・)
頭を乾かしながら、熱い濃いめのコーヒーを口に運ぶ、煙草を1本吸えばそれが朝食である、時折灰がドライヤーの風に吹き飛ばされている。
無意識にネクタイを首に巻き、スーツを身につけると、無機質な表情でよく訓練された犬のように5分の道のりを会社に向かって歩いていく。
営業部の朝は早い。広いフロアでは営業担当達が早忙しく活動している。
彼は裏のドアからひっそりと入ると、末席?・・に置かれた三課のデスクに向かう、いつもは早い坂本課長の姿がまだ無い。
(珍しいな・・黒狸にでもつかまっているのかな?)
遠い上手の部長席に目をやると、黒狸はふんぞり返って新聞に目を通している。
(どこに行ったんだろう・・まっいいか・・)
もうすぐ朝礼が始まるというのに残りのメンバー達はまだ誰もこない、
(あいつらいつもギリだな・・まっいいか、三課だからな・・)
「係長おはようございます、」
「おはよう・・お前髪が濡てるぞ、」
「へへっ、朝シャンしたんですけど遅刻しそうだったんで乾かす時間なくて、」
「そんな頭、黒狸にみられたら大変だぞ、今すぐにトイレで直してこいよ、」
「ホーイ、」
入社8年目の小山 雄太はどんぐりのような目をクリクリさせながら頭をなでている、同期でまだ主任にも昇格していないのは彼だけであった。
「おはようございます・・」
「ああ・・おはよう、」
蚊の鳴くような声で入ってきたのは、3年前に総合職で入社した紅一点の広田 早苗、昨年花の1課から三課に転属してきた。無口な女性で良く見ると綺麗な顔をしているのにとにかく暗く、影が薄い。長い黒髪が顔を覆い、牛乳瓶のような眼鏡はいつも下を向いている、営業職にはとても向かない人材である。
「チースッ、あれっ、係長、課長休みっすか?」
「何がチースだ、お前挨拶くらいちゃんとしろ、まさか販売店でもそんな挨拶してないだろうな?」
「大丈夫すよ、現場ではちゃんとしてっすから、」
「だからその変な言葉使いをちゃんと直せ、じゃないと見習生からやり直させるぞ、」
「ヘーイ、」
入社5年目の山木 洋介、三課の頭痛の種である、有力販売店の三男坊でコネ入社との噂がある。
朝礼が始まった。
支社長の訓示の前に、うんざりするような黒狸こと佐々木営業部長の長い話しが始まった。いつもくだらないことわざの話が続く、
"パーン、ガチャーンッッ"
一斉に三課の方に視線が注がれた、
秋山 省吾が割れた牛乳瓶の、転がった床を固まったように凝視している。
「貴様っ、なんだっ、今何時だと思っているんだっ、朝礼中だぞっ、」
黒狸が顔を真っ赤にして怒鳴りだした、
秋山は小刻みに震え、涙ぐんでいる、
「美咲っ、美咲係長っ、そいつをつまみ出せっ、すぐにつまみ出せっ、三課のくそ社員がっ、」
(くそ・・くそだと・・・)
彼の神経が切れそうになった瞬間、坂本課長の声が聞こえた、
(美咲君、切れてはだめだ、切れればそれが君自身を傷つける、我慢することは大切だよ、)
「分かりました、皆さんご迷惑をおかけしました、」
痙攣するように震えている秋山の肩に手を置くとフロアをあとにした。
「すみません、係長・・遅刻しそうだったんで急いで入ろうとしたとき牛乳瓶を落としてしまいました・・」
ビルの屋上は風は冷たいが春に向かう日差しがやさしく注いでいる。
美咲は煙草をとりだすと、秋山にもすすめた、彼の手はまだ震えている、生来気の弱い性格らしい。
「秋山は牛乳が好きだな、紙パックのを買ったらどうだ、割れないだろう、」
「いえ、係長、瓶でないと僕は嫌なんですよ、」
「そうか、じゃ、慌てなくていいようにもう少し早く起きて出社しないとな、君だって月曜の朝から怒鳴られるのは嫌だろう、」
「はい・・そうします、」
遠慮がちに煙を吐きながら彼は女性のような長いまつ毛をしばたいている、その様子が気弱さと頼りなさを助長している。
「よし、佐々木部長に謝りに行こう、一緒に行ってやるから、」
「はい・・すみません・・・」
黒狸は無駄に大きなデスクにふんぞり返っている、
「あの・・部長先程は秋山が大変失礼を致しました、本人が十分反省の上、謝罪したいとのことで連れてまいりました、」
「あ・あ・あ・・・あの部長・・先程は大変申し訳・・ございませんで・・した・・・」
「はぁー、なんだお前謝罪もろくに出来ないのか、小学生以下だな、もういいから下がれ、以後牛乳の持ち込みは禁止だ、朝からフロアが牛乳臭くてしかたない、」
「は・・はい・・・」
「美咲君、君には少し話がある、応接室にきてくれ、」
「あ、はい・・」
豪華な応接室に入れるのは幹部と取引先だけである、美咲も滅多に入ったことはない。総務の村上 百合がコーヒーを運んで来てくれた、綺麗な白い手に思わず目線が奪われてしまう。
「ああ、百合ちゃんありがとう、君が入れてくれるコーヒーは絶品だよ、君みたいな女性と暮らしてみたいもんだね、私でもまだチャンスはあるかね?」
佐々木は部下には決してみせない満面の嫌らしい笑みをこぼしながらセクハラ言葉を吐いてる、村上は流すように軽くお辞儀をすると、心地良い甘い香りを漂わせて退室して行った、時折 美咲のことを見つめているような気がした。
(はは、俺もおめでたいな、37歳で万年係長の俺を若い彼女が相手にするはずがない・・)
「どうだね三課は?」
「は、どうと言われますと?」
「あそこはクズの集まりだ、嫌、いらないクズを集めて作った課だ、君も知っているだろう、」
「あ・・いえ・・」
「まっ、君は昨年転勤してきたばかりだからまだ事情は分からないだろうがね、私は君を三課から早くだしたいと思っている、しかし何故だか支社長が反対でね・・君何か心あたりがあるかね、」
「いえ・・ありませんが・・」
「そうか、支社長も君のことは気にかけているからね、不思議なんだよね、ああそうだ、坂本課長が昨日入院した、しばらくは出てこれないだろう、あいつは私に逆らってばかりでね、幹部会でも数字の話しになると土下座しては出来ませんの一点ばりだ、プライドと言うものがないんだね、まぁどうでもいいんだが、しばらくは美咲君、君が課長代行をしてもらう、いいね、」
「あ・・はい・・」
「君、幾つになった?」
「37です、」
「37か、私は君の年には課長Aになっていたよ、あっと言う間に40だ、このまま万年係長と言うわけにはいかんだろう、これからは私についてきなさい、本来ならこの機に課長に昇進させたかったのだが、3課の今の業績ではね、
まぁ、これからの頑張りしだいだな、いいかね上に上がりたかったら常に上に目を向けるんだ、そうすれば引き立ててもらえる、部下はね踏み台にしか過ぎないんだよ、上手にやることだ、」
「はい・・」
美生堂は、130年の歴史を持つ業界トップの大手総合化粧品メーカーである。従業員数20000人、国内はもとより海外にも多くの販売拠点を有している。国内は都道府県ごとにいくつかの地区本部が設置され、それぞれの支社を管轄している。美咲 裕は昨年4月の人事異動で坂本課長とともに、本社から遠く離れたこの南のM支社に転勤してきた。各支社は営業部を中心に構成されている、M支社では1課が市内中心部の商業激戦地を4人の係長を中心とする20名の営業担当達が守っている、2課は大手ストア流通とドラッグストア流通を3名の係長を中心に15名の営業担当達が守備し、そして三課はローカルエリアの販売店と一部セルフ販売店を担当していた。
(※セルフ販売店:一部の商品だけでセルフ販売されている形態)
メンバーは坂本と美咲をはじめ僅か4名の営業担当達の課であった。坂本課長と美咲 裕はそれぞれの過去を背負ってここに赴任し、早1年が経とうとしていた。
〜第2章 屈辱〜
「皆んな聞いてくれ、昨日 坂本課長が入院された。退院するまでしばらくかかるようだ、そこで今日から私が課長代行を勤めることになったんで宜しくな、」
「やった、係長ご昇進ですか?」
山木はポマードでテカテカの頭を櫛で撫でながらにやついている。
「昇進じゃないさ、職階は係長のままだ、いいか皆んな、俺は課長とは違う、やさしくもないし情もない、正直君達の面倒をみるのはまっぴらだ、とにかくだ、問題を起こさないでくれ、いい仕事をしろなんて言わないさ、どうせ君等には無理だからな、問題を起こさないことそれだけだ、それだけ頼むよ、以上だ、」
「坂本課長入院したんだって?」
「うん、そうなんだよ、おかげで今日から課長代行様だよ、まったく3課の連中の面倒をみるなんてまっぴらごめんさ、天下の美生堂になんであんな連中が入社できたのか不思議でしかたないよ、」
“さち”の絶品の肉じゃがを頬張りながら、美咲はいつものカウンターのいつもの席でビールを飲んでいる。
「そんなこと言うもんじゃないわ、坂本課長が不在の間はゆうちゃんが皆んなを守ってあげないと、特に現場の美容社員達は営業担当とゆうちゃん、だけが頼りなんだから、」
「まぁ、分ってはいるんだけどさ・・」
「まぁ、仕事の話しはやめましょう、それより私達の将来の話しでもしようよ、」
「はぁー、なんだい将来の話しって・・」
「だからね、ゆうちゃんはサラリーマン生活に嫌気がさしている訳だし、この際スッパリと辞めてさ、この店を一緒にしようって話しよ、」
「なんで?」
「そしたら何時も一緒にいられるでしょう、素敵じゃない、」
彼女は揚げたての天麩羅の盛り合わせを運んでくると、隣に座った。
「さっちゃんもさ、早く再婚しなよ、いいひといないのかい?」
「だからゆうちゃんと再婚してあげるわよ、ゆうちゃんも37でしょ、あっと言う間に40よ、あっと言う間に老後がくるのよ、誰がお世話するの、」
「嫌なこと言うなよ、一人ってね気楽でいいんだよな、」
南 幸子は5年前に結婚し、腕の良い板前であったご主人とともに、この小さな居酒屋を開業した。3年前にご主人を病気で亡くしてからは一人でこの店を切り盛りしている。三課の美容係長、 山口 愛のもと同期でもあった。
外ではなごり雪がシンシンと降っていた。
(まったくなんだよ、この提出依頼は・・)
坂本課長のパソコンには各部署からの提出物依頼メールが溢れている、一つ一つ確認しては添付ファイルを開き保存をかけていく、
(課長はどうやってこのくだらない提出物を処理していたんだろう・・滅多にデスクには居ず、販売店廻りばかりしていたが・・とてもじゃないが店廻りなんてできないぜ・・)
通常、係長職階までは営業担当の一人として若干の販売店を担当するのだが、坂本課長は美咲には一切販売店を担当させなかった。
「いいかね、美咲係長、三課全店が君の担当店だ、各店を訪店してそれぞれの販売店の状況を把握するんだ、買場がどうなっているか、販売店と営業担当との関係はどうか、美容社員達が快適に仕事ができているか、しっかりと現場の状況を掴み、そして営業担当達をマネジメントしていく、それが君の仕事だよ。
ただね、あくまで主役は営業担当達だからね、君が出過ぎてはいけない、裏でしっかりと支えていくんだ、いいね、」
坂本の言葉が脳裏に浮かんだが、まずは課長代行としてのこのやっかいな提出物を処理してしまわなければならない、苦手なパソコンとの格闘が始まった。
「美咲課長代行、大変そうですね、」
パソコンから顔をあげると、村上 百合の白い笑顔があった、大きな黒い瞳が真珠のように輝いている。
「はい、お茶です、お客様用にだす玉露ですから美味しいですよ、」
「ああ、ありがとう、」
熱めのそれを口に運ぶとほろにがく美味い、
「あー美味いな、気分がリフレッシュするよ、ありがとう、」
「営業担当さん達の属性調査ですね、それ私にメールで飛ばしてください、調べるの大変でしょう、私が必要事項を入力して美咲課長代行に返信しますから、」
「えっ、本当・・助かるよ、」
「お礼はディナーでいいですよ、」
「えっ、ディナー・・・」
彼女は小さく手を振りながらデスクに戻って行った。
(あー、今日はここまでにするか・・)
時計は17時を廻っていた。
「美咲課長代行、お電話です・・」
村上 百合が普段みせない暗い声でささやくように告げている、
「えっ、どこから?」
「警察です・・」
「えっ、警察・・・」
「3番です・・」
「あっ、はい・・」
受話器を取ると、3番のボタンを押した、
「お電話代わりました、美咲でございます、」
「こちらはM警察署の交通課の者です、小山 雄太さんの上司の美咲さんですか?」
「はい、そうです、何か・・」
「実は小山さんが車から道路に荷物を落下されまして現在 国号4号が大渋滞を起こしています、出来ましたら何人か応援を連れてすぐに来ていただけませんか?」
「はい・・分かりました、すぐに伺います・・」
警察官から告げられた場所をメモに書きなぐると、急いで上着に袖をとおした、
「なにかあったんですか?」
村上 百合が不安な表情で聞いている、
「うん、小山が4号線に荷物を落として大変な事になっているらしいんだ、すぐに行って来ます。あ・・それと村上さんこのことはまだ誰にも話さないでいて欲しいんだけど・・」
「分かりました、誰にも言いません、気をつけて行ってくださいね・・」
「うん、ありがとう・・」
「チース、係長ただ今帰りました、あー、村上さんと何、ひそ話ししてんすか、怪しいなー、」
「おお山木、いいところに帰ってきた、すぐに俺と一緒に来てくれ、」
「えー、どこに行くんすか?」
「車の中で話すよ、」
「チース、」
「係長、ただ今戻りました、」
「おお、秋山、ナイスタイミングだ、これから俺と一緒に来てくれ、」
「はい、どこに行くんです?」
「車の中で話すよ、」
山木が、おどけて美咲の真似をしている、
「なんすかね、係長、この大渋滞は、」
山木はハンドルをトントン叩いては貧乏ゆすりをしている、
「係長、この場所って健美堂さんのある場所ですよ、」
秋山が後の座席で、スマホの地図を確認している、
「そうだよな、健美堂さんのある場所だ、小山の一番店だ、」
美咲は嫌な予感がした、
大渋滞の先に赤色灯が見えてきた、パトカーが3台も止まっている、そしてその横に美生堂の営業車が止まっている、うす暗い中 車のドアに美生堂のロゴマークが微かに見える。
「あーっ、小山さんすっよ、」
山木が指さす先に警察官に事情を聞かれているらしい、小山の姿があった、うなだれて肩を落としている、廻りでは多くの人達が道路に散乱した商品の欠片を拾ったり、掃除したりしている。
「山木、これじゃ近づけない、一旦裏道に入って健美堂さんの駐車場に車を停めてくれ、」
「チース、」
(これは大変な事になったぞ・・もしけが人でもでていたら小山は・・・)
「申し訳ございません、小山の上司の美咲と申します、」
小山に事情を聞いているらしい警察官のもとに走ると、まずは深く頭を下げた、
「ああ、上司の美咲さんですね、いやね、小山さんが走行中に商品の入った段ボールを5ケース道路に落とされてしまいましてね、後ろのドアがちゃんと閉まってなかったんですな、瓶ものの商品が全て割れて道路に広範囲に散乱している状況です、幸いけが人等は出ていませんが、国道4号がこの通りの大渋滞となっているんですよ、」
「本当に申し訳ございません、」
美咲は再度 頭を下げている、
「それでは一緒に道路を片づけていただけますか、終わりしだい小山さんと署に来ていただいて再度事情徴集や書類を書いていただきますので、」
「はい・・分かりました、」
小山は隣でただ、なだれている、死人のような顔をしている。
「まぁ、今回はけが人や事故も起きませんでしたので、これで解放させていただきます。今後はとにかく荷物の積載には十分に注意をしてください、特に荷物を積み込んだ後、後ろのドアがロックされているかの確認は大切ですし、過積載は厳禁ですよ、もう二度とこのような事がない様にお願いしますよ、」
「あの・・僕は逮捕とかされないんでしょうか? 罰金はどのくらいになるんでしょうか?」
「逮捕も罰金もありません、ただ一生懸命に片づけを手伝ってくれた販売店の皆さんや、こうして頭を下げてくれる上司の方に感謝してください、貴男も本当に大変な一日だったでしょう、この件は会社には連絡しません、元気をだして明日から仕事を頑張ってください、」
警察官は優しい微笑みで告げている、
「ありがとうございます、本当にありがとうございます、」
小山は何度も頭を下げると涙を流している、
「本当にお手数をおかけしてお詫びの言葉もありません、以後は私が責任を持って指導してまいります、本当に申し訳ございませんでした、そしてありがとうございました、」
警察署を出たのは20時を過ぎていた、
二人は小さな屋台に腰を下ろしている、
「係長、本当にすみませんでした・・僕首ですよね・・・」
「解雇はないだろうが、何らかの処分はあるだろうな、」
「係長には上に報告義務があるでしょう、」
「まぁな・・」
「僕はいいですよ守ってくれなくて、どうせ3課のクズ社員だし、将来もないし、実家に帰って酒屋を継ぎますから・・」
「俺は課長みたいに情はない、課長だったら身を犠牲にしてお前を守るだろうけどな・・まっ飲もうぜ・・」
屋台で立ち昇るおでんの湯気を見つめながら、美咲はどうでもよい気分になっていた。
坂本課長が入院して1週間が過ぎた、集中治療室から解放され、面会が許されるとの連絡を受けた美咲はさっそく病院に向かった。
複雑な病棟の中を迷いながら、ようやく病室にたどり着いた。坂本 太助の名札のドアを開けると、坂本がベットに寝ている。
美咲に気がつくと、嬉しそうに手を振っている、
「いやー美咲君、すまん、すまん、迷惑をかけてしまって、」
「課長、お加減はいかがですか?」
「うん、大丈夫だよ、なんか頭に腫瘍があるらしくてね、どうりで頭痛が続くと思っていたんだが、良性みたいでね、しばらくは様子見だそうだ、」
(見るからに痩せてしまっている・・大丈夫なのか・・・)
美咲は手短に三課の状況を報告した、
「結局、小山の件は報告しなかったんだね、」
「ええ、翌日新聞に出れば、朝一番で報告しようと思いました、」
「出なかったのかい?」
「いえ、ほんの小さく出ていました、ただ姓名も会社名も掲載されていなかったので報告するのを止めました・・」
「ありがとう、いい判断だ・・小山が終わるところだったよ、さすがに解雇はないだろうが営業担当からは外される、あとは佐々木に適当に処分されるところだったよ・・」
「はい・・それと課長、提出物の件ですが、どうやって処理されていましたか? 私は1日中かかっても処理できなくて・・」
「ははっ、すまんな、課長の提出物って多いだろう、処理するのは簡単さ、いい加減に書いて提出すればいい、」
「ええっ、いい加減で大丈夫なんですか?」
「大丈夫さ、あんな物は本社のお偉さん達が、さも自分達が調べたことのように適当に会議で使うしろものだ、現場の事を知らない連中が見ても何も分からないさ、」
「そんなものですか?・・」
「そんなものだ、」
「くだらん意味のない仕事は適当にやればいい、君がすべきは販売店、営業担当、美容社員達を守り、少しでも幸せに仕事ができる様にフォローすることだ、いいね頼んだよ、」
3月の本決算を控え、M支社も販売店も忙しくなっていた。そんな時、 朝一番に紅屋の店長から業務用形態に電話が掛ってきた、山木が営業担当を勤める1番店である。
「美咲さん、ちょっと相談に乗って欲しいことがあってね、」
「あっ、はい・・何かありましたか?」
「いやね、美生堂さんだけ在庫があわないんだ、それも下代(卸価)50万もね・・本決算だからね、社長にも報告できなくて困っているんですよ・・」
「下代50万って異常ですよね、分かりました午前中にお伺いします、」
「再棚はされましたか?」
「うん、スタッフと一緒にすぐにしたんだが、やはり50万合わないんだ、どこかに商品がないか店内も隅々までチエックしたんだが無いんだよね、」
「山木は何て言ってます?」
「いやー彼に言っても無駄だからね、無責任であてにならないんでね・・美容社員の上田さんも美咲さんに相談して下さいと言うもんだから・・」
「分かりました、すみません・・ちょっと山木と連絡を取ってみます、」
『チース、係長、山木っす、』
「山木、これから紅屋さんに来れるか? うん、丁度向かっている、分かった待っているよ、」
「店長、とにかく山木に聞いてみましょう、それとこの件は解決するまで社長には・・」
「分かっているよ、親父はうるさいからね、私も責められるのは嫌だし、今だに怖いんだよね・・」
美咲の脳裏に、厳格な3代目、紅社長の顔が浮かんでいた。
「あれっ、係長来てたんすか?」
「さっそくだが山木、棚卸で在庫が50万合わない件知っているよな?」
「あー、なんか美容社員の上田さんが言ってたけど、別に相談もないので・・」
「お前、何か心当たりないか?返品の未計上とかないか?」
「未計上って言うか、預かり商品はありますよ、えーと、」
ゴソゴソと汚い鞄を探ると、返品伝票の控えを出してきた、
「見せてみろ、」
美咲は急いで電卓でそれを計算した、
「これだ、ぴったり下代で50万、お前これ計上したのか?」
「いえ、店長がとにかく邪魔になるから持って帰れって言うんで、倉庫で預かっているだけです・・」
「この伝票の控えは店長にお渡ししたのか?」
「いえ・・」
「馬鹿野郎っ、お前何やってんだ一歩間違えば泥棒だぞ、」
「泥棒って、毎月少しづつちゃんと計上してるから泥棒じゃないす・・」
「いかなる理由があれ、預かり商品は厳禁だ、分かっているだろうっ、お前がこのことを店長や上田さんにキチンと伝えておけばこんな迷惑をかけることはなかったんだぞ、店長と上田さんに謝罪しろ、上田さんは自分の責任じゃないかって泣いてたんだぞ、お前には営業担当の資格はない、いいかこの伝票は俺が計上して処理する、お前には任せられない、」
山木はただ不貞腐れていた、
二年前の4月、都内高級ホテルの大ホールで恒例の営業部門特別表彰式が開催されていた、その壇上に美咲は居た。100名の表彰者を代表して好事例の発表をしている。会長はじめ、社長、本社の幹部達が彼のスピーチに聞き入っている。終了後鳴りやまぬ拍手が彼を包んでいた。
その後、大ホールで会食会が始まった、贅をつくした料理がフルコースで振舞われ、栄冠を手にした営業担当達の笑顔が弾んでいる。
とろけるようなステーキを口にしながら、次々と本社の幹部達が酌をしてくれる、彼は今勝利と絶頂感を手にしていた。
「美咲君、ちょっと相談があるんだが・・いいかね、」
3月決算期の初旬、幹部会から戻ってきた課長の松坂が遠慮がちに話しかけてきた、
「あっ、はい松阪課長何か・・」
「いやー、なにね、2課でアクシデントがあってね数字が大きく狂いそうなんだ、そこで支社長からなんとか我々1課で数字をカバーしてくれないかと言うんだよ、」
「しかし課長、1課も・・私の係も決算に向けそうとうの無理を販売店さんにしてもらっています、これ以上の上乗せをすると来期の数字が大変なことになりますよ、」
「分かってるよ、我々1課は十分数字の責任は果たしているからね、私も不要な無理はしたくないんだが、支社長の地区本部長への昇進がかかっているらしくてね、なんとしても今期の達成が必要だと言うんだよ、」
「いくら上乗せすればいいんですか?」
「500万、下代で500万だ・・」
「500万・・」
「2係、3係、4係で100万ずつ、君の1係で200万を上乗せしてもらえないだろうか・・」
「200万ですか・・課長断れないんですか?」
「すまん、業務命令なんだ・・」
「分かりました・・考えてみます、」
「美咲君、その替わりと言ってはなんだけどね、支社長から内示をもらっているんだよ、君は次の人事で課長C,Bを飛ばして課長Aに昇進する、私もね、ようやく部長の席につけそうなんだ、無理した分だけ報酬の用意もされていると言う訳だよ、頼んだよ、」
「はい・・」
(さすがに係のメンバーに数字の上乗せは指示できない、俺の担当店に頼むしかないな・・)
「なんだね、美咲君頼みって」
「社長、実は決算の数字が足りなくて、少し仕入れをお願いしたいんです・・」
「ほー、いつもの事だね、いくら欲しいんだね?」
「200万です、卸価で200万です・・」
「卸価の200万、上代(販売価格)の200万ならなんとかなるが、下代200か・・、大きいな・・」
「すみません、重々分かっています、その替わりと言ってはなんですが、来年のコーナー改装費は社長のご希望どおりの金額を応援させていただきますのでなんとかお願いします、」
「うーん、そうかい・・まぁね、君の頼みとあれば断る訳にもいかんしな、うん・・いいよ発注はこちらからするから・・・」
「ありがとうございます、本当に助かりました、」
(なんだろう、いつもと違って簡単にOKをだしてくれたな・・)
少し違和感を感じながらも、彼の1番店である華美堂との信頼関係の賜物と過信していた。
1課のふんばりで支社はもとより、地区本部の達成にも寄与し、美咲は地区本部長の推薦で営業部門特別表彰を受賞したのである。
授賞式の翌々日、華美堂のセクション美容社員、井上 由美から業務用携帯に連絡が入ってきた。
『係長、お店が開いてないんですよ、今日って店休とか聞いていますか?』
「いや、華美堂に店休日はないよ、」
『そうですよね、他メーカーの美容社員達も待っているんですが、スタッフの方達誰も来なくて、』
美咲はふと、嫌な予感がした、
「井上さん、いまからすぐに行くから、何かあったらすぐに携帯に連絡を入れてください、」
『はい・・』
華美堂に向かう車中の中、何度か井上から電話が入ってきた、
『係長、なんだか怖い人達がお店の前に集まって来て、怒鳴っているんですよ、私怖くて・・』
「どんな人達だい?」
『スーツを着ていますが、柄が悪くて、逃げやがったとか、大屋を呼べとか叫んでいます、』
「分かった、井上さんそこは危険だからとりあえず店から離れてください、そちらに着いたら携帯に電話するから、」
『あっ、はい・・』
店の前にはいかにもそれらしい連中が集まっている、シャッターを蹴ったり、店に向かって怒鳴ったりしている、
「あのー、店どうかしたんですか?」
一番まともそうな男に声をかけてみた、
「あー、あんたも債権者かい?」
「はぁ、まぁそうなります・・」
「夜逃げだよ、夜逃げ、借金踏み倒して逃げやがったんだよ、せめて店内の物を差し押さえないとな、」
(夜逃げ・・まさか・・・)
『おせえぞこのやろう、早く店をあけやがれっ、』
ほうほうの体でかけつけた大屋さんが店を合鍵で開けている、
なだれ込む男達の後から美咲も店内に入った、そこには美容椅子一つ残っていなかった、
(ま・まさか・・本当に夜逃げしたんだ・・・)
「美咲君、在庫は幾らあったのかね?」
「下代で700万です、いえ、一昨日200万仕入れてもらっているので900万です・・・」
「今月の支払い予定は幾らだったのかね?」
「300万です・・」
「君、合わせて1200万じゃないか・・大変な損失だよ・・どうするんだね・・」
「どうしょうもありません・・社長を見つけたとしてもあれだけの債権者が関わっていては・・とても・・・」
「金額だけではない、大切な商品が乱売屋にでも売られてみろ、大変なことになるぞ、」
「すみません、責任は私にあります・・」
「当たり前だ美咲君、これだけの損失を会社に与えたとあれば君も私もただでは済まないよ、せめて責任を感じるならば200万の件は君の判断で頼んだことにしてくれ、私が指示したことではないことにしておいてくれたまえ、」
松阪課長は美咲と対策を考えるどころか、自らの保身だけを考えている。
その後、分かった情報では華美堂の専務である社長の息子が不動産に手をだし、2億もの借金を背負っていたことが判明した。
営業部門表彰で好事例のスピーチをしたはずの美咲は、いつしか首都圏地区本部管轄の中で、昇進の為に店を食い物にした恥ずべき営業担当と言うレッテルを貼られてしまった。全ての責任を一身に背負った彼は、係長Bへの降格と、やる気の失せた湿った心でM支社に転勤となったのである。
〜第3章 謎の見習生〜
3月の決算が終了し、営業担当達につかの間の休息が訪れていた。
しかし、今日と言う日は人生が変わると言ってもよい日、4月1日。辞令交付の日である。
広いオフィスは静寂と緊張に包まれている。時折、誰かが咳払いをしたりする声が聞こえるが、話しをする者は誰一人いない。その目は支社長と総務部長にまんべんなく注がれている。
辞令交付は朝礼前に実施され、転勤者は朝礼で挨拶をするのが慣例である。さすがの三課も全員が早めに出社し、自己に関わる一大イベントを固唾を飲んで待っている。
(へっ、こいつらも一応心配なんだ、俺は去年転勤して来たばかりだから、全く関係ない・・昇進も3課の業績じゃ絶対にないし・・)
“ザワッ”、と空気が動いた。
総務部長が支社長のデスクに向かい、なにかを告げた、支社長はおもむろに立ち上がると上着を身に着け始めた。
全ての社員がその動きを目で追っている。やがて二人は応接室のドアに消えて行った。
「係長、始まりますよ・・あーどうしょう・・オレ転勤すかね・・」
山木がひどい貧乏ゆすりを繰り返しながら尋ねている、
「あのな、転勤て言うのは受け取り手がないと成立しないんだ、お前を必要とする支社なんてまず無いだろうな、心配するな、あっと待てよ・・そう言えば昨年できたビューティ関連事業部があったな、人が足りないらしいから、山木お前可能性あるかもな、」
「えー、係長確か健康食品とか女性の補正下着を訪問販売する部署ですよね、人気が無くて誰も希望者が無いんですよね・・」
「うん、今のところ再雇用された年配の社員ばかりで、若い人材を欲しがっているらしいからね、あーお前可能性高いぞ、」
「ひぇー嫌ですよオレ、絶対にいやすよ・・」
ドアの開く音とともに、総務部長が出て来た、
「1課の上野係長、応接室にお願いします、」
上野係長は素早く立ち上がると、ぎこちない足取りで応接室に向かう、顔が蒼白である、誰もが一斉に彼に視線を浴びせかけている。
15分程で交付式は終わり、朝礼の中で転勤者達が順番に挨拶をしている。転勤辞令を受け取った者、昇進辞令を受け取った者、一枚の紙切れがそれぞれの人生に与える影響は大きかった。
美咲はふと1年前を思い出していた。受け取った辞令にはM支社への転勤と、何より係長Bへの降格の知らせが記載されていた。頭が真っ白になったのを今も覚えている、廻りの全ての人達があざ笑っているようで、心は湿った灰のように死んでいた。
朝礼後、
「美咲係長、応接室にお願いします、支社長がお待ちです、」
総務部長が笑顔で声をかけてきた、
3課のメンバーが一斉に美咲に目を注いだ、
「あっ、はい・・」
(なんだ・・辞令は終わったよな・・・)
「美咲係長、支社長から辞令を交付していただきます、」
(辞令・・)
「朝礼前に渡したかったんだが、先程 本社から届いたものだから、今から交付します、」
(いきなりパンチを食らったかの様に美咲の心が動揺に包まれた、)
「営業第三課 美咲係長B、本日付をもって営業三課 係長Aを命ず、」
「あ・・はい・・・」
ガチガチの体で受け取ると、穴の開くほど辞令を見つめる、そこには恐れた転勤の文字も降格の文字もなかった。
「おめでとうは言わないよ、本来なら君は昨年課長に昇進し、今回は部長に昇進できたかもしれない、あの事件さえ無ければね・・」
「いえ・・支社長ありがとうございます・・・」
「松阪君だがね、依願退職したそうだ、」
「えっ、A支社の松阪課長ですか?」
「ああ、君のもと上司の松阪君だ、華美堂の専務の件は知っているよね、」
「はい、不動産で失敗して多額の借金を作ってしまったと聞いています、」
「実はね、専務に不動産売買の話しをもちかけたのは松阪君だったらしい、悪徳業者からリベートを貰う為にね、華美堂の担当美容社員だった井上さんが店のスタッフから聞いてね、総務部長にリークしたそうだ、」
「まさか・・本当ですか?」
「実はA支社の総務部長は支社長の同期でね、すぐに支社長に連絡してきて下さったんだ、華美堂の夜逃げの件も松阪課長は知っていたらしい、全ての責任を君に押しつけて自分の身を守ろうとしたんだね。A支社の総務部長は君のことをずっと気にかけていたらしくてね、支社長とA支社の支社長が共同で、本社の人事に君の降格の取り消しをお願いして下さったんだよ、」
辞令を乗せた黒いおぼんを持った総務部長が静かに二人の会話に入ってきた、
「そうですか・・」
転勤と言うのに誰一人見送りも来ない空港に、総務部長はたった一人で来てくれた、
「美咲君、"人間到る処青山あり"だ。元気でやるんだよ、向こうで嫁さんみつけろよ、すまんな何もしてやれなくて・・」
彼は微笑みながら空弁を手渡してくれた、目には涙が光っていた。
美咲はふいに目頭が熱くなるのを感じた、
「まっ、嫌な話しはこれくらいにして、加藤部長辞令を、」
「美咲係長、もう一つ辞令がありますので支社長から交付していただきます、」
(また辞令・・)
総務部長が黒いおぼんを支社長にさしだしている、
「美咲係長、本日付をもって見習生の養成担当を命ず、」
支社長はおもむろに白い辞令をさしだした、
「あ・・はい・・」
「見習生と言っても美生堂の社員じゃないんだ、身分は言えないんだがね、1年間見習生としてこの業界を勉強したいとの要望でね、本社から依頼されたんだよ、社外の人間だが社内情報の秘密厳守等の契約が交わされているそうなんでね、普通の見習生として君に教育して欲しいんだよ、」
「あっ、はい・・」
「明日から出社するので宜しく頼むよ、」
支社長は明るく微笑んでいる、
「美咲係長、係長Aに復職したので管理統括手当が15000円、養成担当手当が5000円、計20000円が今月の給料から上乗せされますよ、いやー羨ましいな、」
いつもは厳格な総務部長が上機嫌で笑っている、
「よかったね、ゆうちゃんご昇進おめでとう、」
いつものカウンターのいつもの席で幸子がビールを注いでくれている、今日はいやに胸の開いたピンクのセーターと、いやに短い赤いスカートを身につけている、」
「さっちゃん、少し露出が激しくないか・・」
「えっ、なになに、気になる?」
「たまに変な奴が来るって言ってただろう、危険だぜ、」
「いやーん、じゃ、ゆうちゃんが守って、ずっとここにいてよ、」
彼女は白いエプロンを外すと隣に座り、膝に手を置いてきた、短すぎるスカートから白い綺麗な足が惜しげもなく覗いている、彼は外れそうになる男の理性をビールとともに飲みこんでいる、
その時、"ガラッ"と 扉が開いた、
「幸子、元気ー」
勢いよく、3課の兼任美容係長、山口 愛が入ってきた、酔っている。
「あー、なんかお邪魔だった?」
「な、なに言ってんのよ、そんなんじゃないよ、」
幸子は慌ててカウンターから立ちあがると、またエプロンを身につけ始めた、
「なんか酔ってるね、」
「うん、地区本部でね美容管理者会議があって、その後交流会があったの・・」
「そう、なんか飲む?」
「日本酒ちょうだい、」
「冷?」
「もちろん冷、それと美咲課長代行様が召し上がっている肉じゃがもちょうだい、」
山口 愛は普段はしとやかな女性であるが、酒が入ると人格が変わる、もと同期の幸子はいつも介抱役であった。
「美咲課長代行どの、」
「あ・・なに・・」
彼は彼女が苦手である、綺麗な顔に似合わず言いたいことをはっきりと言ってくる、三課のクズメンバーの件でいつも怒られている、
「美咲課長代行どの、三課ってどうにかならないんですか、私はねもともと1課の美容係長で三課は兼任なの、三課って美容社員は5名しかいないのに皆んなバラバラで、営業担当と全くコミュニケーションがとれてないし、1課はね30名もいるけど皆んな一丸となってるわよ、なーんにも手がかからない・・私はたった5名の三課の美容社員達のフォローでいっつも頭抱えているの、お肌に悪いわよ、お肌に、このまま嫁にいけなかったら美咲課長代行どのが責任をとって私を嫁にしてくれなくちゃね、ね、そうでしょう?」
「だめよー、ゆうちゃんの嫁は私がなるんだから、」
幸子が肉じゃがを温めながら奥で叫んでいる、
「あー、まぁー、あんまり飲まない方が良いと思うよ・・」
山口 愛はコップ酒を一息に飲み干すと、さらに一升瓶をグラスに注いでいる、
(頭が痛い、)
昨日は山口 愛にさんざん付き合わされて完璧な二日酔いである、
(今日、見習生が来るんだったな、少し早目に行くとするか・・)
ヤカンのまま飲む水が胃に染みるように旨い、
「美咲係長、見習生を紹介するので応接室までお願いします、」
朝礼前に総務部長が声をかけてきた、
「はい、」
応接室では支社長が品のある紳士と話しをしている、
「おお、美咲君、紹介するよ、今日から見習生になる松木 優孝さんだ、宜しく頼むよ、」
「営業三課の美咲と申します、宜しくお願いします、」
「松木と申します、こちらこそ宜しくお願い致します、」
「松木さん、今日から美咲係長が貴方の養成担当となります、彼の指示に従ってしっかりと学んでください、」
「はい、ありがとうございます、美咲係長頑張りますので宜しくお願いします、」
「はい、一緒に頑張りましょう、」
朝礼後、美咲は三課のメンバーに松木を紹介している、
「そう言うことで、今日から松木さんは三課で見習業務に就かれることになった、今週一杯は各部署の業務内容説明を受け、来週からは皆んなに同行してもらう、同行スケジュールは追って連絡するので宜しくお願いします、特に営業車が汚い山木と秋山、車内を片づけておけよ、松木さんが座る席がないぞ、」
「チース、」
「はい・・」
「皆さん、今日からお世話になります松木です、ご覧のとおりの年寄ですが体力はありますので、どんどん使ってください、宜しくお願いします、」
「チース、松木さんって幾つすか?」
「57です、」
「えー、57すか、もうすぐ還暦すね、」
「こら、山木失礼じゃないか、」
「いえ、いえ、皆さんのお父さんと変わらない年ですよね、年寄りの見習生ですが、宜しくお願いします、」
穏やかに微笑むこの紳士からはとても不思議な、高貴とも言うべきオーラが漂っている、
(この人は一体何者なんだろう・・・)
美咲はこの人物が、彼の今後の人生に大きな影響を与えることを今はまだ知るよしもなかった。
〜第4章 別れ〜
「海が綺麗ですね、」
「チース、ここは何もないすけど自然は一杯すよ、まぁ単に田舎なんすけど、」
「山木さんはここの出身ですか?」
「いえ、自分は四国す、3年前に転勤でこの街にき
たんす、」
「そうですか、」
「松木さんはなんで、見習生になったんすか?」
「まぁ、勉強ですよ、」
「勉強すか・・」
美咲から、松木さんの事は色々聞くなと言われていた、
「自分と同行してもなんにも勉強にはならないすよ、今日も散々恰好悪いとこばっか見せたすよね、」
午前中に3店の販売店を訪店したが、どこに行ってもクレームばかりを言われ、美容社員も松木に挨拶はしても山木には話しをしようともしなかった。
「いえ、現場は厳しいものです、勉強になりますよ、」
「自分、四国の美生堂販売店の三男坊なんすよ、4代続いている薬局で地元では有名す、上の兄貴二人は大学卒業して店を継いでますが、自分は社長をしている親父のコネで美生堂に入れて貰ったす、」
「そうですか、コネも立派な能力の一つですよ、」
「いや、皆んな馬鹿にしてるす、自分三流私大しかでてないし、見た目もこんなだし、人に好かれないんすよね、」
山木は人懐っこい笑顔で寂しそうに笑っている、
「山木さんは優しい男なんですよ、わざと自分をおどけて見せている、その話し方も実はわざとなんでしょう、でもね私は自然でいいと思うな、肩の力を抜いた自然な山木さんは魅力的な男性だと思いますよ、」
松木の言葉には心を温める様な何か熱いメッセージ力がある、
「自分変われますか?」
「変われますよ、人は自分がイメージしたとおりの人に必ずなれます、無理をせずあるがままの素敵に生きている山木さんをイメージしてみてはいかがですか、」
「はいす、いえ・・はい、」
松木の朝は早かった、警備室で鍵を受け取るとまずは給湯室でコーヒーを煎れ始める、そして三課のデスクを一つ一つ拭いていく、次にパソコンが得意な彼は美咲に申し出て、坂本課長宛てのメールの整理を始める、デスクトップにフォルダを作成し、鮮やかなスキルで項目ごとにその整理をしていく、その後は新聞に目を通しながら、絶品のこだわりコーヒーをゆったりと味あうのである。
「美味いなー、松木さんの煎れてくれたコーヒーは絶品ですよ、」
朝、松木の煎れてくれるコーヒーを飲むのが美咲の楽しみの一つになっている、
「松木さん、どうでした昨日の山木との同行は?」
「いやー、勉強になりましたよ、」
「本当ですか、あいつ販売店さんに怒られてばかりだったでしょう、」
「まぁ、色々大変な仕事なんですね、」
「今日は広田さんとの同行ですね、」
「はい、楽しみです、」
「松木さん、今日の夜一杯行きませんか、私のマンションの一階に"さち"と言う居酒屋がありましてね、若いママが一人で営んでいるんですが、田舎料理が得意で肉じゃがなんか絶品なんですよ、」
「えっ、肉じゃがっ、行きます、係長是非連れて行ってください、私肉じゃがが大好物でして、いやー楽しみだな、」
「じゃ、7時に出ましょうか、」
「7時ですね、了解しました、」
佐々木部長はあだ名通りのタヌキの様な表情で、声をひそめて話している、
「と、言う訳でね、美咲君、天下の美生堂にも今や効率化が求められている、営業部としてもこの際、3課制を2課制にしようと計画しているんだ、」
「2課制と言うことは・・三課がなくなるんですか?・・」
「そう言うことだ、君、フィールドスタッフの件は知っているだろう、半年前から導入したんだがね、販売店さんの評判が良くてね、三課はセルフ店も多いから主力の4店だけは1課で引き受けてもらって、あとはフィールドスタッフに任せようと思うんだ、山木や秋山のような評判の悪い営業担当より遥かに販売店の役にたつと思うんだよ、」
(※フィールドスタッフ:販売店を訪店し、売場のメンテナンスを主に行うスタッフ。)
「三課の・・三課の営業担当達はどうなるんですか?」
「広田君はとにかく商品開発に行きたがっているからね、まぁなんとかしてやろうと思うんだ、小山、山木、秋山についてはビューティ関連事業部に転属させる、彼等もこのままクズ社員として化粧品事業部に居るよりはましだろう、」
「しかし・・」
「美咲君、君には営業2課の課長を任せようと考えている、いやね、2課長はどうも私とそりが合わないみたいでね、この際出そうと思っているんだ、」
「部長、この話しはいつ実行されるんですか・・」
「うん、あとは幹部会しだいでね、来期からは新体制をスタートしたいと思っている、」
「半年後と言うことですか・・」
「うん、来期の10月にはスタートしたいと考えている、」
「どうだね、君にとってはこのうえないチャンスだよ、今から心しておいてくれたまえ、」
「はい・・・」
「美咲係長、なんだか元気がありませんね、何かありましたか?」
「あっ、いえ大丈夫です・・松木さんここですよ、」
「へぇー近いんですね、ここが係長のマンションですか、」
「ええ、朝が弱いんで、総務部長に頼んでなるべく会社から近いところを借りてもらったんです、歩いて5分ですよ、」
「そうなんですね、"さち"か、可愛いお店ですね、」
「マンションの1階にあるんで、赴任以来いつもここで夕食を食べているんですよ、」
「そうですか、」
「ただいまー、」
「あっ、ゆうちゃんお帰り、」
「さっちゃん、紹介するよ松木さんだ、今三課で見習生をされているんだ、」
「南 幸子です、宜しくお願いします、」
めずらしく緊張している、
「ああ、お店の名前は幸子さんの名前だったんですね、」
「ええ・・」
「松木さん、カウンターでいいですか、」
「はい、」
美咲はいつもの席に座り、隣に松木が腰をおろした、
「さっちゃん、とりあえずビールと肉じゃが、松木さんが楽しみにしてたんだ、」
「松木さん、何か食べたいものありますか、」
「いえ、私はなんでもいただきますので、」
「じゃ、あとはさっちゃんのお任せで頼むよ、」
「松木さんここは海が近いから魚が旨いんですよ、」
「あー、いいですね、私は大の魚好きでして、」
「そうですか、じゃさっちゃん、魚中心でね、」
「OK、今日いいお魚が入ってるのよ、お刺身にするね、」
「さっちゃんはもと美生堂 M支社の美容主任だったんですよ、3年前に板前をしていたご主人を亡くされて以来、一人でこの店を営んでいるんですよ、」
「どおりで、お綺麗な方だと思いました、」
「だってさ、さっちゃん、」
彼女は少女の様に頬を染めている、
「今日の広田さんとの同行はどうでしたか?」
「ええ、まぁ・・」
「何かありましたか?」
「まぁ・・少し販売店で泣かれてしまいまして・・」
「泣いた・・どうしてですか?」
「どうやら美容社員さんが発注ミスをしてしまったようで、店長から在庫になるんで返品してくれと依頼があったんですが、どうやらそれが返品ができない商品らしくて、」
「返品不可商品ですね、返品しても計上できないんですよ、」
「はい、それで広田さんも必死に店長に説明したんですが、話しがつかなくて、ついに店頭で泣きだしてしまわれたんです・・」
「広田さんは頭はいいんですが、商談が苦手なんです、分かりました明日私が販売店に話しに行ってきます、」
「係長、このことは・・」
「分かってますよ、松木さんから聞いたなんで決して言いませんから、几帳面で神経質な性格ですから、明日の朝一番で報告してくると思います、」
「広田さんは営業担当の仕事が辛いと言ってました、商品開発の仕事がしたいんですね、」
「ええ、いつも言ってます、自己申告書も出していますが、会社は組織ですからね、本人の希望通りにはいきませんよ、」
「そうですよね・・」
外では春一番がざわめきはじめていた。
空が蒼い。
皐月の海がダイヤモンドを粉々にして、ちりばめた様にきらめいている。
美咲は営業車を海岸に停めると防波堤に腰掛け、缶コーヒーを飲んでいる。
(この街も悪くないな・・同期で課長にもなっていないのは俺だけだけど、まぁいいか・・のんびり生きるのも悪くないさ・・)
「さてと・・」
(坂本課長に指示された各店の不良在庫は今月で全て処理できたな・・変わった課長だぜ、普通は注文を取ってこいと言うのが、返品を取って来いだもんな、おかげで三課の業績は散々だ、今期も僅か2ヶ月で300万の未達だ・・)
その後、2課制の話しは進行し、社内でも噂としてささやかれるようになっていた、
(ビユーティ関連事業部か・・知るか、あいつ等がどこに移動させられようと・・俺は、2課長になれるんだ、三課とはさよならだ・・)
月に1回開催される、定例の営業部親睦会が始まっていた。ここでも三課は下座に位置し、上座では1課と2課、黒狸がふんぞりかえっている、総務の女性達がそれぞれに酌をしている、営業部が日頃世話になっているからと総務部の女子社員達も無理やり招待されているのである。
1課や2課が盛り上がるのを尻目に、三課のメンバーはただ静かに飲んでいる。
松木だけが、笑顔で皆んなに酌をしてくれている、すっかり三課に馴染んだ彼は日だまりの様な存在になっていた。
宴は盛り上がり、かくし芸大会が始まった。1課、2課がそれぞれの十八番を披露し、喝采に包まれている、
「おーい、次は三課の番だぞ、業績が悪い分せめて芸でも頑張ってくれないとな、」
黒狸が上座から吠えている、
「チース、係長、俺がやるっす、」
「えっ、山木やめとけよ、何やるつもりだよ・・」
「大丈夫す、」
彼は上着を脱ぎ棄てると上座に向かった、
「自分、阿波踊りをやります、」
『おおー、やれやれー』
馬鹿にした様な喝采がとんでいる、
彼は踊りはじめた、なかなかのものである、しかし酔った足は踊りの動きに耐えられず、体ごと黒狸のお膳に倒れて行った、
器が粉々に割れ、黒狸は濡れ狸になっている、
「馬鹿やろー、貴様ーっ、何やっていやがる、もういいから下がれーっ、」
黒狸は赤狸になって怒鳴っている、1課、2課のメンバーが一斉に集まると器を拾ったり、黒狸を拭いたりしている、
「困ったもんだね、三課は、数字だけでなくこんな時にも迷惑をかけるとはせっかくの宴会がだいなしじゃないか、謝りたまえ、もう三課は参加して欲しくないね、」
見下した様に1課長が叫ぶと、嘲笑が沸き起こった、
『そうだ、そうだ、謝れー、お前ら全員で土下座しろっ、』
酔った連中が三課に詰め寄ってきた、
「謝らないよ、替わりに俺が芸をする、」
美咲はすくっと立ち上がると、倒れてうずくまっている山木を席に戻した、替わりに腺の空いていないビール瓶を掴むと黒狸の前に置いた、
「それでは部長、三課を代表して私が芸をさせていただきます、」
縦膝を着くと、目も止まらぬ速さの手刀が一閃した、ビール瓶の口が吹っ飛び泡が激しく噴き出している、
「三課を土下座させたかったら俺が相手になるぜ、」
美咲は宴場を睨みまわした、女性の様な綺麗な顔が怒りに変わると迫力がある、
座はシーンと静まり反っている、
「さっ、係長、我々はこれで退散させていただきましょう、皆さん失礼しました三課はすぐに退散します、なんちゃって・・」
松木に促され美咲は静かにうなずいた、
「さっ、皆さん飲み直しましょう、私の知り合いの店が近くにありましてね、さっ、行きましょう、行きましょう、」
全員ただ、死人の様に松木の後について行く、広田 早苗がシクシクと泣き始めた、
松木は彼女にハンカチを渡すと背中をさすってあげている、
「さぁ、ここですよ、」
「えっ、松木さんここって、」
美咲は足がたじろいだ、
「ここは有名な超高級料亭ですよ、」
「大丈夫ですよ、ここの女将と知り合いなんで、」
「えっ、松木さんちょっと待ってください、」
美咲は給料日前の財布を覗き込んでいる、千円札が二枚と百円玉が二つ、後ろで三課のメンバーがその様子を見つめている、
「松木さんカードとか使えますかね?」
「はは、係長、私に恥をかかせないでください、お誘いした以上ここは私に任せてください、」
「いえ・・そんな訳には・・給料日にお返しすると言うことでいいですか・・・」
「はは、とにかく入りましょう、さっ、皆さん行きますよ、思い切り美味しい物食べましょう、ねっ、広田さん、」
彼女は乾いた涙顔で微笑んでいる、
「まっちゃん、お久しぶり、随分ごぶたさじゃない、」
女将は当然のように彼等を特別室に案内した、普段は政治家や企業の役員達が利用する部屋である、美咲はもう気が気でなかった。そして次から次へと高級料理が運ばれてくる、お頭付の伊勢海老が何匹も並んでいる、バターで焼かれた鮑が殻の上でムクムク動いている、
(あー、もう知らんぞ・・)
美咲は茫然と上機嫌な松木の横顔を見つめていた、
迷路のような病院も迷わずに病室にたどりつけるようになっていた。
「そうか、在庫整理はすんだか・・、長かったね、美咲君、」
「はい・・」
「今月の業績はどうかね、」
「2ヵ月で300万のショートです、」
「うん、計算とおりだ、例の商品勉強会と美咲塾は続いているかい?」
「はい、皆んな最初は嫌がっていたんですが、最近は熱心にやってくれています、」
「そうか、」
美咲が赴任してすぐに、三課の商品勉強会と企画立案方法、商談の進め方、計画書作成スキルを伝授する美咲塾が毎週丸1日を費やして実施されていた、
「課長実は・・」
彼は2課制の件と自らの2課長昇進の件を話した、
「いい話じゃないか、君にもチャンスがやって来たと言う訳だ、私は何も言わない、君が決めることだ、美咲君、我々は1年間畑を耕し種をまいてきた、しかし、替わりに三課の業績は地を這い皆んな屈辱を味わってきた、さぁ、これからだよ美咲君、反撃開始だ、"打ち方始め"だよ、」
「打ち方始め・・」
坂本はこけた頬で微笑んでいる、これが坂本の顔を見る最後であることを、知るよしもない美咲であった。翌日、M支社に坂本の訃報が届いたのである。
季節は初夏に向かっていた。
〜第5章 打ち方始め〜
M市は坂本課長の故郷であり、旧家で行われた葬儀は盛大なものであった。主力販売店の殆どの経営者が参列し、別れを惜しんだ。三課のメンバーは総務とともに受付等の応対に追われた、
「美咲さん、今日はありがとうございました、主人は三課の皆さんのことを亡くなるまで気にしていました、これは主人からの手紙です、死期を悟っていたんでしょうね、少しづつ書いていたようです、自分が死んだら美咲さんに渡してくれって言ってました、」
坂本課長の奥さんは憔悴しきった表情で大きめの封筒をさしだした、
「確かに受け取りました・・」
「美咲君、お疲れ様でした、」
「部長こそ大変お疲れ様でした、」
「いや総務なんてね、こういう時しか活躍できないからね、しかし盛大な葬儀だったね、」
「ええ・・」
葬儀が終了した後、総務部長に誘われて小さな居酒屋に腰を降ろしていた、
「実は坂本課長は首都圏地区本部長に昇進するところだったんだが、ある事件が起きてね、」
「ある事件・・」
「うん、部下が自殺したんだよ、」
「自殺?・・」
「木村君って言ってね、坂本君が目をかけて育てていた優秀な営業担当がいたんだがね、ある日自宅で睡眠薬を飲んで自殺してしまったんだよ、」
「木村・・あっ、覚えていますよ、確か16期連続達成をしていた人ですよね、営業部門表彰の時に紹介されていました、自殺なんて・・まさか・・」
「うん、このことは不問にされていてね、自殺の確たる原因は不明だったし、マスコミ等に漏れるとやっかいな事になるからね、」
「原因は判明したんですか?」
「いや、いまだに分からない、ただ家族には仕事に疲れたと漏らしていたそうだ・・」
「坂本課長は余程ショックを受けた様でね、しばらくは休職し、その後辞表を提出したんだが受理されずにね、その替わりに療養も兼ねて故郷であるこのM市に転勤させられたと言う訳なんだ、」
「そうだったんですか・・」
(そう言えば、時々遠くを見るような寂しげな表情をしていたな・・)
マンションの部屋で大きな封筒を開いている、中には6通の手紙が入っていた、三課のメンバー1人1人と、三課全員に宛てた手紙である。美咲は自分宛ての手紙を開いている、
『美咲君、私はある事件があってね、美生堂を退職するつもりだったんだが、辞表が受理されず、この故郷であるM市に転勤してきました。三課の各販売店は不良在庫のかたまりだったね、君と二人でずいぶん苦労しましたね。私はね、自分で言うのもなんだけれど、若い頃から優秀な社員だった。常に達成し、表彰された。販売店も美容社員も自分の為にあると過信していた。でもね、仕事と言うものは自分の為ではなく、誰かの為にあると、三課に来てそう思うようになったんだ。私は三課に教えられたんだよ、君と初めて会った時、暗い目をしていましたね、三課のメンバーも最初は君を避けていましたね、ところが私が提案した美咲塾を初めてから少しづつ君は変わっていきましたね、三課のメンバーも君の持っている様々なノウハウに魅了され、少しづつ心を開いていったね。君は本当は感性の豊かな優しい男です、いつまでも過去に拘っていてはいけない。ああ、私はもう少し生きたかった、君と一緒に反撃の狼煙をあげたかった。美咲君、三課を頼みます、三課の皆んなを頼みます。彼等はクズではない、廻りがそう仕向け、自分達もそう思い込んでいるだけです。
三課を頼みます、皆んなを頼みます、美咲君、反撃開始だ、"打ち方始め"だ、私はあの世でしっかりと君と三課を見守ります。最後に美咲君、ありがとう、君に会えてよかったよ、ありがとう。"打ち方始め" 怒涛の三課頼みます。』
病苦の中、必死に書いたであろう筆跡は、ところどころが乱れ、涙で滲んでいた、
(坂本課長・・坂本さん・・・)
美咲は子供の様に声をあげて泣いていた、
「美咲君、昨日はお疲れさんだったね、総務部長から聞いたが盛大な葬儀だったそうだね、私は接待ゴルフで行けずに失礼したね、」
「あ、いえ・・」
(何が接待ゴルフだ、経費の無駄遣いしやがって・・)
朝礼後、すぐに黒狸に応接室に呼ばれていた、
「いやね、君にして欲しい事があってね、」
「はい・・」
「人事考課を修正して欲しいんだ、」
黒狸は美生堂の大きな社封筒から二通の考課表を取りだした、
「小山と山木の人事考課をこの点数で修正して欲しいんだよ、坂本君が亡くなったからね、君が三課の責任者として修正して欲しいんだ、」
「えっ、部長これは・・」
「うんD評価にね、」
「D評価って解雇の評価では?・・」
「まぁ、普通はありえない評価だな、なにか事件か犯罪でも犯さないかぎりはつかない評価だよ。君、秋山から聞いたよ、小山は国道4号線を止め、山木は店の商品を勝手に持ち出したそうじゃないか、これはね犯罪行為に近いよ、何故報告しなかったんだね、」
「あっ、いえ・・部長・・坂本課長が入院中でしたので、部長の耳に入れてしまうと部長にまで責任が及ぶと考えまして、あえてご報告を控えさせていただきました・・」
美咲はとっさの言い訳をしている、
「ああ、そうかね、うん・・まぁそう言うことなら仕方ないな、私も煩わしい処理に巻きこまれずに助かったよ、」
佐々木はコーヒーを口に運びながら、浅黒い表情で微笑んでいる、
「彼等は組合員だからね、解雇はできない、ただこれでビューティー関連事業部に移動させる理由付けができる、いやね、2課制の話しが大詰にさしかかったところで支社長が二人を移動させる理由がないと言いだしてね、まっ、この件を報告すれば支社長も納得するだろうからね、急ぐんでね、今日提出できるかね?」
「部長、すみません・・実印を持ってきていなくて・・」
「うん・・しかたないね、まぁ私も今から出張なんで、明後日の朝一番に提出してくれたまえ、いいね、」
「はい・・」
応接室から出てきた美咲は三課全員をミーティングルームに集めた、
「皆んな、昨日はお疲れ様でした。昨日、坂本課長の奥さんから手紙を預かってね、課長からの手紙だ、それぞれに一通づつと、三課全員に宛てた分が一通ある、」
美咲は一人一人に坂本からの手紙を手渡した、
「じゃ、代表して三課全員宛の手紙を読むので聞いてくれ、」
美咲は白い封筒を開くと読み始めた、
『三課の諸君、元気でやってますか、私の命はそろそろ残り少なくなってきたようです。短い間でしたが、皆んなに会えて良かったよ、ずいぶん辛い思いばかりさせてきたね、申し訳なく思っています。私は君達と出会えて本当に大切なことを学ぶことができました。販売店さんや美容社員の皆さん、なによりエンドユーザーであるお客様に感謝の気持ちを持って仕事に励んでください、私達はね、単に化粧品を売っているんじゃないんだよ、お客様に"美と言う幸せ”を提供しているんだ、本当の誇りとはそうしたものです。
さて、各店の不良在庫は一掃されました、君達も美咲塾や商品勉強会で力をつけているはずです、さぁこれからだ、反撃の狼煙を上げるんだ、うずくまっているだけの人生はつまらない、自信をもちなさい、君達は自分が思っているより遥かに優秀な人達です。顔をあげて、笑顔で戦うんだ。"打ち方始め"だ、怒涛の三課が私の夢でした、あぁ、もう少し生きて皆んなと一緒に仕事がしたかった、これからは天に帰って必ず君達を守ります、怒涛の三課頼みます。
さようなら、そしてありがとう。"打ち方始め"、反撃開始だ!』
読みながら美咲は溢れる涙を止めることができなかった、全員が泣いている小山が山木が秋山が、松木さんが、そして広田は激しく肩を震わせながら泣いていた。坂本課長から一人一人に贈られた手紙は、彼等にとって生涯の宝物となったのである。
「ゆうちゃん、どうしたの?」
幸子がけげんそうな表情で顔を覗きこんでいる、顔が近すぎる、
「あ・・いや、ちょっと・・」
「係長は寂しいんですよ、坂本課長がお亡くなりになったから、」
いやにエプロン姿が似合う松木が心配そうに告げている、すっかりこの店が気にいった彼は毎日夕食に訪れ、ついには幸子の手伝いを始めるようになっていた、仲の良い親子という感じである、
「松木さん・・ちょっと相談したいことがあるんですが、後で私の部屋に来ていただけませんか?」
「相談? 光栄ですね、係長が相談なんて、今からでも大丈夫ですよ、」
「ははっ、典型的な独身男性の部屋ですね、」
松木はとっ散らかった美咲の部屋を嬉しそうに眺めている、
「すみません、自炊とかはしないので変なばい菌はいないと思うので・・」
実は一週間前、幸子に急襲され片づけさせられたのであるが、また元に戻りつつあった、
美咲は佐々木部長との一件を手短に話した、
「そうですか・・係長にとっては良い話しです、広田さんも商品開発に行けるんですよね、問題は小山さんと秋山さん、山木さんですね・・」
「はい・・そして何より三課が無くなれば、坂本課長の夢も無くなるんです、」
「そうですね、坂本課長の意思を継げるのは美咲係長と三課の皆さんだけだからですね、本音で係長のお気持ちはどうなんですか?」
「本音を言えば2課長になりたいです、サラリーマンですからね、出世したいです。でも、どうしても心が落ち着かないんですよ、苦しいと言うか・・」
「迷うと言うことは係長の本音は、三課の存続を願っていると言うことじゃないでしょうか、係長の人生ですから、係長が決めることです、」
「松木さんならどうします?」
「私ですか、私だったら博打を打ちます、」
「博打?」
「例えば・・佐々木部長に三課存続の為の条件をだします、そう例えば・・今期を達成したら三課を存続させて欲しいとか・・」
「今期の達成・・松木さん三課は私が赴任して以来、月度達成したこともないんですよ、しかも今期も僅か二ヶ月で300万の未達です、今期達成なんて・・大博打ですよ、大博打・・」
「だからですよ係長、その大博打に勝てば三課は存続できるかも知れません、ただ、係長の昇進も無くなる恐れがありますが・・」
時は雨の季節を迎えようとしていた。
肩の凝るつまらない幹部会議が終了した、朝からの雨がようやくやんでいる、
「おい、秋山、まだ店に行かないのか?」
三課のデスクにただ一人、秋山が座っている、
「係長・・お話しがあるんですが・・」
「うん、なんだい?」
様子が変である、
「屋上に行こうか、煙草でも吸いながら聞くよ、」
缶コーヒーを片手に屋上のベンチに並んで腰かけている、空に薄い虹がかかっている、
「係長、実は僕・・佐々木部長に小山さんと山木さんのことを話してしまったんです・・」
「知ってるよ、部長から聞いた、」
「すみません、そんなつもりではなかったんです、突然飲みに誘われて・・部長の尋問に乗せられて・・僕だけ1課に移動させてくれると言うもんですから、全てを話してしまいました、本当にすみません・・」
「いいさ、秋山は嘘を言った訳ではないだろう、事実を言っただけだ、俺だって同じ立場ならそうするさ、自分が大事だもんな、」
「僕、ビューティ関連事業部に移動願いを出します、希望すれば誰でも行けるって聞きました、小山さんや山木さんと一緒に頑張ります、自分だけ1課に行けても仕方ないです、きっと後悔すると思うんです・・」
「そうか、秋山は勇気があるな、正直に話してくれた、でもどうだい、三課が存続すれば全てが解決するぜ、俺達は坂本課長の意思を継ぐ義務がある、いや権利があるんだ、」
「三課の存続ってそんなこと出来るんですか?」
「さあな・・まっ、やってみようと考えている、全く俺も変わったよ、坂本課長と出会って随分不器用な人間になってしまったらしい、三課なんか存続してもなんの得にもならないのにな、」
「係長は2課長に昇進するんでしょう、もっぱらの評判ですよ、部長は内示を取ったって言ってましたよ、」
「うん、もういいんだ、今さら課長になってもな、同期の連中の尻を追っかけるだけだよ・・もういいんだ・・秋山、佐々木部長との件は誰にも言うんじゃないぞ、お前は正直に話してくれた、これで終わりだ、全て忘れるんだいいな、」
「はい・・・」
「ああ、美咲君探していたんだよ、例の人事考課表をすぐに提出してくれ、支社長の印鑑をいただいてすぐに本社に郵送しないと間に合わないんだ、」
佐々木部長は少し焦った様子で三課のデスクにやってきた、
「部長、お話しがあります、」
「うん、なんだね、」
「三課を三課を存続させてください、この通りです、」
美咲は椅子から立ち上がるとフロアで土下座をしている、
「君・・美咲君何をしているんだね、坂本課長の真似かね、やめたまえみっともない、」
「女子事務員達が驚いてその光景を見つめている、」
「部長、ただではとは申しません、今期、今期・・達成できたら三課を残してください、存続させてください、もし駄目だったら私もビューティ関連事業部に行きます、小山や山木、秋山と一緒に、ですから最後に一度だけチャンスをください、お願いします、」
「君、美咲君、馬鹿かね君は、2課長の内示はもう取ってあるんだ、なにが悲しくてクズ三課の存続を願うんだね、君の人生になんの得もないことだよ、」
「いえ、大切なことなんです、大切なことなんです、何卒チャンスをください、」
「まったく困ったことだ、分かったよチャンスをやろう、三課の今期達成なんて不可能なことだからね、それが分かって言っているんだったらチャンスをやろう、ただ駄目だったら君の2課長の話しはなしだ、それでいいね、本当にビューティ関連事業部に行ってもらうことになるよ、いいんだね、」
「はい、かまいません、」
佐々木は美咲から未修正の人事考課表を受け取ると呆れたように部長席に戻って行った。
また雨が降り始めた、何もかも洗い流すようにただ降っている、
〜第6章 怒涛の三課〜
チャレンジに向け、三課は忙殺されていた。いやこの表現は正しくない。
三課の存亡をかけ、坂本課長の志を引継いだ彼等の魂は固い塊のように団結している。瞳は常に上をみつめ、笑顔に輝いている。この最後の戦いを心から楽しもうとしているかの様にすらみえる。
「松木さん本当にいいんですか? シャルル森ってグラビアでよく紹介されている高級有名美容室で予約もなかなか取れないんですよ、芸能人がわざわざ首都圏からくる程のお店で、私なんかが行けるようなところじゃないんですよ、」
「ええ、店長と知り合いでしてね、なんでも広田さんの様なオフィスレディのモデルさんを探していたらしいんですよ、モデル料は出ませんが、料金はもちろん無料ですから、明日の日曜日、10時にお願いしますね、」
「はい・・」
月曜の朝である。
広田 早苗が出勤したとたんに、社内に小さなざわめきが沸き起こった。
黒く重かった長髪は、セミロングの明るいブラウンに変わり、軽いカールが前髪で可愛げに揺れている、スカイブルーのスーツ、短めのスカートからは綺麗で健康な脚が眩しげにのぞいている。牛乳瓶のような暗い眼鏡はコンタクトに変わり、黒い真珠のような大きな瞳がキラキラと輝いている、その美しさは、まさにグラビアから抜け出してきたモデルそのものである。
「係長、おはようございます、」
「ああ、おはよう・・」
照れ屋の彼が彼女を思わず見つめている、
「あっ、広田さん行ってきましたね、」
給湯室からコーヒーを運んで来た松木が嬉しそうに眺めている。
「聞いてください、松木さん、誰がカットしてくれたと思います、シャルル森さんがカットしてくれたんですよ、いつもグラビア雑誌で紹介されているカリスマ美容師が自らカットして下さったんです、私もう緊張しちゃって、で、眼鏡は似あわないよって言われてコンタクトにしてみたんです、」
「よかったですね、綺麗ですよ広田さん、本当に綺麗だ、ねぇ係長、」
「あ、はい・・」
美咲はなぜか照れている。
いつの間にか全員が朝8時には揃うようになり、松木の炒れてくれたコーヒーを片手に活発な情報交換が行われている。
「皆んな、いよいよ明後日からチャレンジがスタートする、準備は万端整った、時間が無くて無理を言ったけど全員の力でなんとかなったよ、本当にお礼を言うよ、」
美咲は笑顔で皆んなに頭を下げている。
「係長、なんかワクワクしますね、ヘアサロンにはシャルル森さんが来てくれるって言うし、楽しみだわ、」
「うん、松木さんの知りあいらしくてね、松木さんって何者なんだろうな、」
「ひょっとしたらとても偉い人かも知れませんよ、」
広田が弾けるような笑顔を見せている、淡いピンクのスーツが素敵に似合い、美しさに磨きがかかっている。
「係長、天気が気になりますね、生憎初日は雨みたいですが・・」
ポマード頭がすっかり綺麗な横わけになった山木は、話しかたすら綺麗になっている。
「雨なら雨で、係長のレイニーディ企画がありますからね、かえってお客様が来てくれますよ、」
最近よく笑うようになった秋山が頼もしげに語っている。
「係長、チャレンジの初日はそれぞれの担当店の開店準備を手伝ってはどうでしょうか、シャッターを開けるところから手伝ってはと思うんです、」
最近、三課のNO.2の意識を持ち始めた小山がおもむろに口を開いた。
「うん、いい考えだ。よし、皆んな当日は早出して、それぞれの担当店の開店準備を手伝うか、」
「係長、私は広田さんの美粧堂さんに行ってもいいですか?」
すっかり三課の一員になった松木が手を挙げている。
「はい、お願いします。じゃあ俺は朝礼でチャレンジの決起報告をした後、それぞれの店を訪店するよ、どうせなら社内全員にこの戦いを知ってほしいからな、」
「松木さん、今日一緒に帰っていただけませんか?」
「えっ、光栄ですけど何かありましたか?」
夕方、訪店活動から帰社したばかりの広田が少し青い顔で松木に頼んでいる、
「実は・・・」
「えっと・・広田さん屋上のベンチで話しを聞きましょう・・」
広田の表情にただならぬ自体を察した彼は誰もいない屋上で話しを聞くことにした。
「いやー、すっかり夏ですね、」
綿のような入道雲がもくもくと空にそびえている。
松木は冷たい缶コーヒーを広田に手渡すと並んでベンチに腰掛けた。
「なにかありましたか、遠慮せずに言ってください、他言は決してしませんから、」
「松木さん・・私・・実は佐々木部長にセクハラを受けているんです・・」
「えっ、セクハラ・・どういうことですか、詳しく話してください、」
彼女の話しによると、佐々木は広田を商品開発室に移動させる打合せと称して、度々食事に誘って来ると言う、しかも料亭の個室や最近では温泉宿の部屋にまで呼び出され、酔った佐々木にいきなり押し倒されたと言うのである。必死に逃げだし、それ以降は一切の誘いを断っていたものの、最近では彼女の帰りを待ち伏せるストーカー行為まで始めていると言う。
「そうですか・・分かりました許せない行為です、広田さん、もう心配しなくても大丈夫ですよ、私に任せてください、」
「はい・・」
その夜、松木は美咲に広田の件を話していた。
「本人には他言しないと言ってますが、事が事だけに係長にだけは報告をしました、決して誰にも言わないでくださいね。」
「もちろんですよ、さっちゃんもこのことは内緒にね、」
「分かったわ、佐々木ってね、昔から手癖が悪くて、私も慰安旅行の時に部屋に連れ込まれそうになったことがあるのよ、なんとか逃げ出したけど、被害者はけっこういるみたいよ、」
「でも、広田さんはなんで俺には相談してくれなかったんだろう、松木さんの方が頼りになると思ったんだよな、」
美咲が寂しそうに呟いている、
「ははっ、違いますよ係長、こういう事は好意をもっている男性には話せないものなんですよ、女心と言うものです、」
「好意って、なによそれ、なになに、広田さんがゆうちゃんのことを好きだってこと、えー、」
「なに言ってんだよ、広田さんと俺は幾つ違うと思ってるんだよ、ありえないよ、」
「いえ、係長、恋愛に年の差は関係ないですよ、あ・・まぁ今はそのことはいいとして、広田さんを守る対策を考えなくてはなりません、」
「総務部長にリークしちゃえば、」
急に機嫌の悪くなった幸子がお玉を片手に叫んでいる、なにやら料理の焦げる匂いがしている。
「幸子さん、肉じゃが焦げてませんか?」
「いやーん、忘れてたわ、」
幸子が厨房の奥に消えたところで、松木は美咲に小声で話し始めた。
「こういう問題は難しいんですよ、佐々木部長は二年前に離婚していますからね、現在は独身です、自由恋愛と言われればストーカーの立証は難しくなります、」
「そうですよね・・」
「とにかくセクハラの証拠を掴む必要があります、」
「広田さんは温泉宿で押し倒されそうになったので、それは証拠にはなりませんか?」
「難しいです、連れ込まれたならまだしも、広田さんは自分の意思で部屋に行ったので・・もちろん会社の上司だから信頼して行った訳ですが、普通は逆に非難さらかねませんし、広田さんが傷つく状況になってしまいます、」
「そうか・・・」
「係長、この問題は私に任せてください、チャレンジが始まるので係長は忙しくなりますからね、都度状況は報告しますので安心してください、」
「分かりました、お願いします、それと松木さんこの件が解決するまでは広田さんに同行をお願いできませんか、なんか心配で・・」
「承知しました、佐々木部長には指一本ださせませんよ、私に任せてください、」
「宜しくお願いします・・」
チャレンジ当日、朝から雨が地面を叩いている。3課のメンバーは全員早出してそれぞれの店の開店準備に向かっていた。
朝礼が始まった。
「本日は三課の美咲係長から、今日から始まる倍額チャレンジの決意表明がある、そこで私の訓示の時間を美咲係長に譲ることにしました、それでは美咲係長、お願いしますよ、」
支社長は上機嫌で美咲を指名している。
「はい、ありがとうございます、」
「・・・と言う訳で我々三課は本日から倍額チャレンジを仕掛けます、”美という幸せを提供する”、これがこの戦いのキャッチフレーズです、これは亡くなられた坂本課長が仕事をする上での誇りとして我々に教えてくださったものです。
こちらをご覧ください、」
総務部の事務員さん達が、支社長席の後ろにある大きな掲示板に掛けられた幕を外してくれている、彼女達は三課倍額チャレンジの応援隊を結成し、準備段階から常に三課の応援をしてくれている。応援隊長は村上 百合が勤めている。
「これは・・これは美咲係長なにかね・・対目標進捗率と対前年同日比は分かるが、各店の日別目標に記載されている数字は・・売上目標ではないように見えるが?」
支社長は、倍額チャレンジの大きな管理表を眼鏡を外しては覗き込んでいる。
「はい、それは接客目標です、このチャレンジでは日別の売上目標を設定せずに接客目標のみを設定しました、各店の平均客単価から綿密に計算したものです。
「接客目標かね?」
「はい、従来のチャレンジのように、日別目標を設定すると、販売店も美容社員もその数字を意識して売上だけを追いかけます、」
「当たり前じゃないか、」
1課長が馬鹿にしたように吐き捨てている、
「当たり前です、そしてそれが間違いです。日別目標を意識すれば客単価をあげる結果につながります、お客様は不要な商品を買うことになり、それは鏡台在庫になるだけです。そんなチャレンジに意味はありません。ですから今回のチャレンジはいかにお客様に来店していただけるか、来店して下さったお客様にいかに満足していただける絶対の接客サービスを提供できるか、この一点に絞り様々な企画を用意しました、お客様の満足なくして販売店さんの繁栄もありませんし、美生堂の繁栄もありません。これは綺麗ごとではなく、本質論です。
どうか三課の最後の戦いをご覧ください、本日は貴重な時間をいただきありがとうございました。」
総務部から沸き起こった拍手はしだいに支社を包んでいった。
「店長、雨止みそうにありませんね、」
「ああ、良かったよ小山君、ヘアサロンやDJワゴンの日でなくてね、それより初日だからね、もう一度朝礼で全員に徹底しておこう、あくまでもこのチャレンジは接客目標を追いかけること、なにより皆んなで決めた絶対の接客サービスを実行すると言うことをね、」
「はい、」
「山木君、大丈夫かねずぶ濡れだよ、大丈夫ですよ店長、レイニーディの告知旗6本、しっかりと駐車場に立ててきましたからね、」
「はい、山木さんこれで拭いて、風邪ひいたら大変だから、」
「あ・ありがとう、」
美容社員の上田が優しい笑顔でタオルを渡してくれている、以前は挨拶もろくにしてくれなかった彼女も彼の変化とともに変わっていった。
「秋山君、傘立てを増やそうと思うんだ、手伝ってくれるかい、」
「はい、店長、」
「倉庫に組み立て式のが3個あるので一緒に組み立てよう、」
「はい、店長3個位なら僕一人で大丈夫です、店長は開店準備で忙しいでしょう、僕に任せてください、」
「そうかい、ありがとう、秋山君、君なんか変わったね、明るくなったって言うか、逞しくなったよ、」
「へへ、そうですか、」
「広田さん、エプロンなんか着けてどうしたんです?」
「私、今日は美粧堂さんで美容社員さん達のお手伝いをしょうと思うんです、」
「接客するんですか?」
「基本は雑用して、でも実際の接客もしてみたいな、松木さん、私ね、商品開発を希望してますけど、お客様や本当の現場のことを知らずに商品を創ろうなんて間違っているって気づいたんですよ、」
「そうですか、立派ですよ広田さん、」
初日が終了し、4店全てが接客目標を達成し、結果売上目標も達成した。美咲の提案したレイニーディ企画も好評であった。その後も好調な推移のまま一週間が経過しようとしていた。
朝一番のミーティングルームで美咲と松木は話している。
「・・・と言う訳なんですよ係長、」
「信じられません、本当ですか松木さん、いくらなんでもそこまでしますかね・・」
「私も最初は広田さんの勘違いではないかと思ったんですが、どうやら間違いない様です、マンションの警備会社の防犯ビデオにも確かに佐々木部長の姿が残っていたんです、」
「しかし・・あっ、」
美咲は急いで坂本課長のデスクに走ると、右上の小さい引出しの奥から鍵の束を取り出した。
(ない・・広田さんの部屋の合鍵だけがない・・・)
美生堂では条件を満たした独身社員は、会社が寮として管理しているマンションに住むことができる。光熱費以外は会社が負担してくれる為、多くの独身者がそれぞれのマンションで生活している。ただし、3ヶ月に一度、総務課長と所属長が本人立会いの上、部屋のチエックを受けることになっている。その合鍵は各課長が厳重に保管しているのである。
「松木さん、これを見てください、」
息を切らしながら戻ってきた美咲は鍵の束を見せている、
「鍵ですか? 」
「各独身寮の合鍵です、広田さんの鍵だけが無いんです、」
「えっ、係長・・」
「そう言えば1週間程前、佐々木部長が課長の机でしきりとなにかを探していたんですよ、帰社した私が声をかけると驚いた様子で、以前坂本課長に貸した資料を探していたと言い、逃げるように席に戻っていきました、」
「そうですか、間違いないようですね、」
「しかし、部屋に忍び込むとは・・完全な犯罪ですよ、」
「はい、広田さんの話によると下着が何枚か無くなっているそうです、」
「もはや変質者ですね・・」
「とにかく係長、手を打ちます、ただし方法は全て私に任せてください、何かあった場合は私が責任をとります、広田さんは絶対に守るので安心してください、係長は三課の為になくてはならない人です、とにかく私に任せてください、」
「しかし、松木さん、僕にできることはありませんか?」
「係長はこのチャレンジの総指揮官です、私は広田さんを守ります、係長は三課を守ってください、」
「はい・・」
「松木です、元気かね、」
「会長、お久しぶりです、今どこにいらっしゃるんですか?」
「M市だよ、いい所でね、ちょっと君にここで依頼したい仕事があるんだがね、スケジュールは空いているかね?」
「会長のご依頼とあれば、その他のスケジュールなんて全てキャンセルしますわ、」
「すまんね、もはやゼネラル統括マネージャーの君に依頼する様な仕事ではないんだが、大切な仲間を守って欲しくてね、どうしても君にお願いしたいんだ、」
「分かりました、明日と言わず今日お伺いしますわ、夕方の便でまいります、」
「そうかね、相変わらず韋駄天だね、空港に着いたら携帯に電話をください、すぐに迎へにいくから、」
「かしこまりました、」
夕方、青い顔をして秋山が帰ってきた、慌てて机の引き出しをゴソゴソと捜している、
「ああっ、しまった・・」
「どうした、秋山、なにかあったのか?」
「係長、実は明後日のヘアサロンのご来店賞が届いてないんです、」
「なに? 景品業者には確認したのか?」
「はい、流石に届くのが遅いので夕方電話してみたんですが、注文書が来ていないと言うんです、それが・・原因は僕の発注ミスでした、」
彼は、景品業者への注文書を差し出している、そこに美咲の確認印と発注ズミの記載はなかった、注文のFAXを流す前に必ず上司の確認印をもらうのがルールになっていたのである。
「係長の印鑑をもらっていなかったので、取りあえず引き出しに入れていたのを忘れていました、」
「馬鹿野郎、いつも確認、確認って言ってるじゃないか、とにかく景品をなんとかすることを考えよう、景品業者に再発注はしたのか、」
「それが、特別な景品で、もう在庫はないそうです・・」
「物はなんだ?」
「美山の夫婦箸です・・珍しく販売店会議に顔をみせた社長が景品カタログを見て、決められたんです・・」
「美山の夫婦箸か・・やっかいだな・・」
美咲の脳裏には小難しい健康堂の社長の顔が浮かんでいた。
美粧堂さんを出てすぐに携帯が鳴った、
「はい、松木です、ああ水上君着いたかね、うんすぐに向かう、今近くだからね、10分位で着くよ、」
「広田さん、空港に向かってくれますか、広田さんに紹介したい人がいるんです、」
「私にですか・・」
「ええ、強い味方ですよ、」
「はい・・」
「会長―っ、」
到着ロービーで40代前半の女性がしきりと手を振っている、すっと背が高く、長い髪がシルクのように揺れている、
「おー、水上君っ、来てくれたか、紹介するよ三課の広田さんだ、広田さん、こちらは警備会社のゼネラル統括マネージャーの水上さんです、」
「水上です、宜しくお願いします、」
「広田です、宜しくお願いします、偉い方なんですね・・」
「いえ、たいしたことありませんわ、それより広田さんはお綺麗ですね、会長のタイプだわ、」
「な、なにを言ってるんだね、まあとりあえず夕食でも摂りながら打合わせをするとしましょう、」
「松木さん、私できたら”さち”がいいと思うんですけど・・」
「そうだね、”さち”なら落ち着いて話せるし、都合がいいよね、じゃ”さち”に行こう。」
「皆んな疲れているところ申し訳ない、手分けして全ての景品業者に電話して欲しいんだ、少々単価が高くても、送料がかかってもかまわない、秋山のピンチだ、助けてやってくれ、」
三課のメンバーは山のように景品カタログを集めると片っ端から電話をかけて
いる、
「あらためて紹介します、こちらは私の古い知り合いで、水上 愛さん、ある大手警備会社のゼネラル統括マネージャーをしています、もと凄腕の女性刑事でね、空手五段、剣道七段、普通の男が五、六人かかっても彼女にはかなわないよ、」
「はじめまして、水上と申します、昔会長に声をかけていただいて、グループの傘下である警備会社の管理職をさせていただいています、宜しくお願いします、」
「グループ・・会長って、松木さんが?」
「あ、いや幸子さん、あだ名ですよ、あだ名、はは・・」
「水上君、こちらはこの店のオーナーで幸子さん、料理が絶品なんですよ、特に肉じゃがなんか、」
「えーっ、肉じゃがっ、私大好物です、楽しみだわ、私料理が苦手で、幸子さんみたいな人尊敬しますわ、」
「係長、これまでです、もう景品業者も全て閉まりました、」
小山が壁の時計を見ながら告げている、針は20時を過ぎていた。
「よし、皆んな今日は取りあえず解散だ、明日もあるしな、秋山も心配するな、なんとか手を考えるさ、まだ明日一日あるからな、」
「ただいまー、」
「あらっ、ゆうちゃん遅かったわね、」
「うーん、ちょっとハプニングがあってね、」
彼はいつものカウンターのいつもの席に腰をおろした、
「はい、係長、とりあえずビールです、」
「あれっ、広田さんどうしたの?」
白いエプロン姿の広田が微笑んでいる、若奥様のような艶やかさである、
「私、しばらく幸子さんの部屋に居候させていただくことになったんです、」
「昔、主人が使っていた部屋が空いているから、例の件が解決するまで私が匿うことにしたのよ、」
「なるほど、名案だ、昼は松木さん、夜はさっちゃんが守ってくれれば鬼に金棒だよ、」
水上の件は、とりあえず今は美咲には伏せておくように全員で口裏を合わせている、その頃、水上 愛はさっそく行動を開始していた。
「ところで係長、ハプニンングってなんですか?」
松木がエプロンを外しながら尋ねてきた、
「いや実はですね、健康堂さんの明後日のヘアサロンで使うご来店賞を秋山が発注するのを忘れていたんですよ、」
「物はなんですか?」
「美山の夫婦箸です、」
「美山の・・よくそんなプレミヤ品が景品カタログに載っていましたね、」
「なんでもその景品業者の創業50周年記念とかで、限定で出していたらしいんです、」
「美山か・・やっかいですね・・」
「そうなんですよ、しかも決めたのが健康堂の社長とのことで頭が痛いですよ、」
「分かりました、係長、私少し、知り合いをあたってみます、」
「本当ですか?」
「ええ、やるだけの事はやってみますよ、」
チャレンジは中盤戦を迎えようとしていた、しかし各店のマイナス数字は少しづつ広がっている、前年比は平均170%と脅威的な伸びを示しているが、彼等の目標はあくまで倍額、前年売上の200%である。
「会長、残念ながら広田さんの部屋からは佐々木の指紋はでませんでした、おそらく手袋でもつけて侵入したんだと思います、」
「そうかね・・指紋がでれば決定的証拠になったんだがね、」
「大丈夫ですわ、予定通り部屋で張り込んで侵入してきたところを現行犯で押さえますから、」
「うん、ただ水上君、気をつけてくれよ、係長から聞いた話しでは佐々木は学生時代、柔道をやっていてね、黒帯だそうだから、」
「ははっ、大丈夫ですわ会長、まだまだ腕は落ちていませんから、思いっきりやってもかまいませんか?」
「かまわない、死なない程度に思いっきりこらしめてくれ、」
「はい、かしこまりました、」
(さてと、次は美山か・・)
松木は心当たりに手当たりしだい電話を続けたものの、どこも駄目であった。
(しかたない、奥の手を使うか・・)
意を決したように携帯に登録している発信ボタンを押した、
「ああ、君島か私だ、すまんがね明日中に美山の夫婦箸を50膳揃えて欲しいんだ、金はいくらかかってもかまわない、グループ各社の責任者に頼んでくれ、私の名前を使ってもかまわない、頼むよ、」
「あっ、はい・・会長お元気でお過ごしでしょうか、私は心配でしかたないのですが、」
「ははっ、大丈夫だ、君島こそ、いい歳だから健康に注意してくれよ、じゃ頼んだよ、連絡を待っているよ、」
(使いたくない手だったが、しかたない・・三課の為だ・・)
「美咲君、皆んな頑張っているね、」
「あっ、支社長おはようございます、」
早朝、例の倍額チャレンジボードに実績を記入していた美咲は支社長の声に振り返った、
「あ、はい・・しかしマイナスが少しづつ広がっている状況です、」
「しかし君、前年比170%とはすごい成果じゃないか、最近は各課のメンバー達も驚きの表情でこのボードを眺めているよ、」
「はい、なんとか挽回をしていきます・・」
「美咲君、お中元なんてのはどうだろうか、私が若い頃はよく数字の挽回の為に店頭で展開したものだが、いや・・もう古いかな、」
「お中元・・支社長ありがとうございます、やってみます、そうかその手がありました、ありがとうございます、」
「そうかね、それでは商品部に連絡して4店分の中元見本とカタログを至急送らせるよ、中元商品は返品できないからね、見本で受注をとってもらうと各店も在庫をもつ必要がないからね、」
「はい、ありがとうございます、さっそく朝のミーティングで皆んなに連絡します、」
「・・ということで、皆んなそれぞれのチャレンジ店さんに中元売場の確保をお願いして欲しいんだ、事は急ぐぞ、」
「でも係長中元とかは、市内のデパートととかでないと難しいんじゃないですか?」
秋山は腕を組んだまま口をとがらせている、
「売場か・・紅屋で別売場を確保するのは大変ですよ、第一場所が空いてないですもんね、」
山木も腕を組んだまま天井を睨んでいる、
「私は2階の美容室に置いてもらう様に交渉してみます、中元商品って別にメインの売場でなくてもいいと思うんです、いえ、逆にお客様がゆっくりと選べる場所の方がいいんではないでしょうか、」
広田は綺麗な髪に手をやりながら話している、
「そうか、メイン売場を狙う必要はないんだ、健美堂さんは店内にお客様の休憩場所があるからそこを交渉してみよう、」
小山は一人頷いている、
「広田さんの言うとおりだ、メインの売場を無理して交渉する必要はない、逆にお客様にゆっくりと選んでいただく場所を確保するんだ、秋山が言うように確かに中元って言えばお客様は市内の有名デパートに出かけるかもしれない、でもどうだい、中には時間がなくて市内に行けないお客様もいらっしゃるだろうし、特にご高齢のお客様にとっては近くの店で中元を手配することが出来れば助かると思うんだ、」
「なるほど、有名デパートで買おうが、近くの店で買おうが、美生堂の商品に変わりはないですものね、係長、美生堂の包装紙を各店さんに無償でご提供してはどうでしょうか、中元って包装紙も大切ですから、美生堂のロゴが入った包装紙で包まれた商品であればお客様も満足すると思うんです、」
「なるほど松木さん、いいアイデアです。よし皆んな、包装紙は販促費を使って各店に無償で提供する、それと大量の注文が入った場合の包装は支社で請け負うと説明してくれ、総務の村上さん達が包装を手伝ってくれるそうだから、よし、じゃあそれでいくぞ、それから秋山、松木さんに感謝しろよ、今日の夕方、美山の夫婦箸が支社に届く、良かったな、明日のヘアサロン成功させないとな、」
「はい、松木さん本当にありがとうございました、絶対に成功させます、」
秋山は満面の笑みで微笑んでいる、すっかり笑顔が似合う男になっている、
「すまんな水上君、毎日缶詰状態で、」
「いえ、会長、刑事時代に比べたら楽な張り込みですわ、毎日豪華な出前を届けて下さってすみません、太っちゃいそうですわ、」
「ははっ、そうかね、」
「会長、今夜あたり来そうな気がするんです、もと刑事の勘ですが、」
「うん、くれぐれも気をつけてくれ、」
「任せてください、」
彼女は広田の部屋に張り込んで4日目の夜を迎えようとしていた、
(今夜くる・・)
刑事時代の勘が確信に変わっていた、
ベットの中でひたすら待った、時計が24時に近づいた頃、玄関のカギを静かに回す音がした、
(来た・・・)
黒い影が近づいてくる、
「広田君、寝ているのかね・・」
「・・・・」
「いやね、君を商品開発室に転属させる件でね、相談に来たんだよ・・君がなかなか会ってくれないからね、少しは感謝して欲しいな、」
汚い手をベットの中に差し入れると、上半身をまさぐり始めた、それを掴むと捻りあげようとしたが、上に乗られ締め技をかけられてしまった、もの凄い力ではずせない、
「広田君、分かっているだろう、子供じゃないんだから、君が好きなんだよ、」
「うん・・君少し太ったかね?」
「やかましい下郎っ、」
渾身の蹴りを股間に叩きこむ、
「グワーッ、」
佐々木はもんどり打ってベットから転げ落ち、ゴキブリのように蠢いている、胸倉をつかみあげると、みぞおちに渾身の突きを叩きこんだ、佐々木はそのまま悶絶した。
「会長、佐々木を確保しました、」
水上は息をきらしながら松木に電話している、
「そうか、大丈夫かね、はい・・思ったより手強かったですわ、私も年ですかね、」
「いや、すまん危険な目に合わせたね、佐々木は今どうしてる?」
「はい、手錠をかけてますがどうしましょうか、このまま警察に通報しましょうか?」
「手錠って、まだ持っているのかい?」
「ネットで買ったんですよ、なんか懐かしくて、」
「そう・・警察は待ってくれ、これからすぐにそちらに向かうよ、」
「はい、」
佐々木は意識を取り戻していた、
「お前は三課の松木だなこれは一体どういうことだ、部長の私に向かってこのような事をしてただですむと思うのかね、」
「ストーカー行為、住居不法侵入、窃盗、婦女暴行未遂。立派な犯罪ですわ、貴男こそただではすまないわよ、」
「佐々木部長、いや佐々木、どうするかね、このまま警察に行くかね、お前の罪は重いぞ、お前の部屋を家宅捜査してやろうか、広田さんの下着がでてくるんじゃないか、いいかこのまま放してやるからすぐにこの街から消えろ、二度と広田さんに近づいたら今度は本当にただではすまんぞ、分かったかっ、」
いつもは穏やかな松木が般若の形相に変わっている、
佐々木は震えている、直感的に松木がただの男ではないことを感じているらしかった。
「会長、良かったんですか、逃がしたりして、」
「うん、いいんだ、あれでも天下の美生堂の部長だ、会社の名前に傷をつけたくないしね、臆病な男だから今日中にでもこの街から逃げ出し、二度と現れることはないだろうさ、」
健康堂のヘアサロンはシャルル森の登場で大盛況に終わり、続く3店のヘアサロンも無事成功し、少しだけ挽回を図ることができた、チャレンジは終盤を迎えようとしていた。
「皆んないよいよ終盤だ、正直各店苦戦している、しかし絶対にあきらめないぞ、俺達には坂本課長がついているんだ、三課の最後の戦いを存分に楽しもうじゃないか、土日のDJワゴンが最後のイベントとなる、各DJは腕ききのスタッフを頼んでいる、商品の手配、景品の準備等くれぐれも確認を怠るなよ、当日の設営応援だが、松木さんは広田さんの美粧堂さんをお願いします、山木の紅屋さんには俺が行く、秋山の健康堂さんだが、支社長が行かれる、」
「えーっ、なんでですか係長、支社長なんて僕恐れ多くて困りますよ、」
「うん、俺もお断りしたんだが、どうしてもって言われるんでね、頼むよ、」
「えー・・」
「それから小山の健美堂さんには総務部長が行かれる、」
「えー、総務部長が・・」
「うん、どうしても手伝いたいって言われてね、頼むよ、たぶんこれから世話になることになりそうだしさ・・」
「ですね・・・」
DJワゴン初日、空は曇っている。
(頼む降らないでくれ、坂本課長、助けてください・・・)
美咲は空を睨みながら山木とともにワゴンを設営している。
「美咲さん、朝早くからありがとう、」
「あっ、店長おはようございます、」
「降らなければいいけどね、」
「はい、祈るばかりです、」
「今日はね、急遽ポイント5倍にしたよ、珍しく親父がOKしてくれてね、社長もこのチャレンジの成功を祈っているんだ、坂本課長と仲が良かったからね、」
「そうですか、ありがたいです、」
各スタッフ、美容社員達も早目に出勤してくると準備を手伝い始めた、他メーカー担当のスタッフ達も手伝ってくれている。
「美咲係長、スタッフの女性達に人気ですからね、皆んな手伝ってくれているんですよ、」
「えー、こんな叔父さんがか?」
「いーえ、全然いけてますよ、私21になったばかりですけど、係長なら彼氏にしてあげてもいいですよ、あーでも南先輩に殺されるかも、」
美容社員の上田はまだ少女のような笑顔で商品を並べている、
「美咲さん、美咲係長、」
「おー、木下君か、」
「お久しぶりです、首都圏支社では随分お世話になりました、随分空気の良い所ですね、」
「ははっ、左遷も悪くはないだろう、」
「いえ、美咲係長が転勤されて美容社員やお店の方達も随分気落ちされていましたよ、信頼されていたんですね、」
「いやー・・10時から朝礼が始まるので宜しく頼むよ、」
木下は首都圏支社時代に美咲がよく依頼をした腕ききのDJである、彼が一声発するだけで人が集まってくる不思議な魅力をもっていた。
「秋山君、遠慮なく使ってくれよ、これでも若い頃は腕ききの営業担当だったんだからね、あー、いいね現場は昔を思いだすよ、」
「あっ、はい・・支社長・・それでは商品をワゴンに並べていただいても良いでしょうか・・」
「ほいきた、任せたまえ、」
支社長は慣れない手つきで商品の箱を開けると陳列を始めている、
「秋山君、どういうことだね、支社長自ら手伝いに来られるなんて、」
「ええ・・手伝いをされたいと言うものですから・・」
「困ったね、社長に連絡した方がいいかな、天下の美生堂の支社長にワゴンの準備をさせたりしたら、私が叱られるよ、」
「店長、大丈夫ですよ、美咲係長が存分に手伝って貰えって言ってましたから、その方が支社長は嬉しいはずだからって・・」
「そうかい・・美咲さんがそう言うなら・・」
「部長、無理されないでください、基礎化粧品の入った段ボールは僕が運びますから、部長は軽いメイク商品をお願いします、」
「なに言ってる、このくらい、私も30代までは一線の営業担当だったんだ、君等若いものにはまだまだ負けないよ、」
と言いながらも、総務部長の腰はよろついている、正直部長の腰よりも商品の方が心配な小山であった、
「松木さんってなんでも出来るんですね、ワゴンの陳列見事ですわ、」
「昔、親父に仕込まれましてね、」
「松木さんのご実家はご商売をされていたんですか?」
「まぁー・・そんなとこです、」
佐々木がいなくなってすっかり明るさを取り戻した広田は松木を父のように慕っている、
午前11時、各店のDJワゴンは一斉にスタートした、客はまだまばらである。
木下がワゴンの後ろのお立ち台に、すっと立った。右手にはプラスチックのメガホン、トレードマークの赤い鉢巻をキリリと締めている。
「みなさーん、おはようございまーす、さあ本日は当店のスペシャルワゴンサービスの日です、お得、お得、お得の限りに挑戦します!早い者がちですよー、」
まばらな客達の眼がワゴンの方に注がれ始めた、引きつけられるように集まって来る、1重、2重、3重とその輪が増えている、
(さすがだな、木下君、相変わらずのいい腕だ、)
美咲はその様子を頼もしげに眺めている、
レジは煩雑を極めてきた、
「山木君、簡易レジを増やそうと思うんだ、すまんが倉庫に取りに行ってくれないか、」
「分かりました、店長、大至急行ってきます、」
山木のフットワークは早い、
美咲も接客に加わっていた、おばちゃん達に受けがいい、飛ぶように商品が売れていく、午後1時前、ようやく客足が引きそれぞれが交代で休憩に入った、
「美咲さん、中間集計でましたよ、」
店長が売上数字をメモで渡してくれた、
「45万、凄いですね、今日の目標は60万ですから、貯金が狙えますよ、」
「そうですね、雨がいつ降り出すか分からないし、油断せずに頑張りますよ、」
「はい、」
午後の2時を過ぎた頃、突然空が黒く覆われてきた、そして大粒の雨が激しく降り出したのである、
「急いでワゴンを店内に移動させるぞ、」
美咲は山木やスタッフとともに急いでワゴンを店内に移動した、
(くそー、なんてことだ・・)
彼は恨めしげに空を睨んでいる、三課のメンバーからは次々とワゴン中止の報告が携帯に入ってくる、
「美咲さん、どうしますか?」
「ああ、木下君、とにかく止むのを待つしかないな、」
「店内、ワゴンをやってみますよ、少しでも売上がとれるかもしれません、」
「うん、すまんな・・」
結局、各店の閉店まで雨が止むことはなかった、そして翌日の日曜日も雨は容赦なく降り注ぎ、各店の2日間の目標は大きなマイナスを生じてしまったのである。
月曜日の朝、美咲は三課のデスクに一人いた。他のメンバーには休日出勤の代休を取らせている。
(さぁ、どうするか・・DJワゴンは今回のチャレンジの柱だったからな、俺の作戦ミスだ・・天気さえ良ければ・・くそ・・・)
「美咲課長代行、元気をだしてください、悪い事の後には良いことが待ってるものですよ、」
村上が熱いココアを運んできてくれた、
「疲れが取れますよ、ずっと休んでないでしょう、無理しないでくださいね、」
「ああ、ありがとう、皮肉なもんだよ、昨日までの雨が今日は快晴だもんな、でもね、あきらめないさ、最後まで皆んなで頑張ってみるよ、」
「私達、必死に応援していますからね、それと・・これお弁当です、美味しくないかもしれないけど、一生懸命作ったので食べてください、」
彼女は大きなバッグからピンクの風呂敷包みをさしだしている、
「えっ、ありがとう・・お弁当か嬉しいな、喜んでいただきます、」
「栄養満点ですよ、ビタミン愛が入っているんだから・・」
「えっ、ビタミン愛・・」
彼女は頬を染めながら急ぎ足でデスクに戻って行った、
ふいに業務用携帯が震え始めた。着信に「木下君」とでている。
「もしもし美咲です、」
「おはようございます、木下です、昨日までお世話になりました、今日も出勤されているんですか?」
「はは、なんか休む気になれなくてね、」
「すみません、散々なワゴンに終わってしまって、」
「木下君のせいじゃないさ、むしろあの雨の中よく頑張ってもらって助かったよ、さすがは木下君のオフィスのメンバーだね、」
木下は昨年独立して自分のオフィスを立ち上げていた。
「美咲さん、チャレンジの最終日にもう一度ワゴンをやらせていただけませんか、どうしてもリベンジしたくて、他のメンバーも悔いが残るってうるさいんですよ、」
「うーん、ありがたいけど、すまん・・もう予算がなくって・・」
「ギャラはいりません、リベンジですから、今回のワゴンのマイナス分をなんとしても取り返したいんです、最終日の日曜は、たまたまオフィスの日帰り旅行を計画していたもので全員手が空いているんですよ、」
「いや、でもただ働きをさせる訳には・・木下君、少し時間をくれるか、検討してみるよ、」
「はい、よろしくお願いします、」
「美咲課長代行、どうしたね、難しい顔をして、」
三課の販促予算簿を睨んでいた彼に支社長が微笑みかけている、
「はい・・販促予算が底をついてしまって、何か方法はないかと考えていたのですが・・」
「いくら必要なのかね?」
「はい、ワゴン費用なんですが、1店7万として28万必要となります、」
「例のDJワゴンだね、今回は雨で残念だったからね、リベンジだね、」
「はい・・」
「美咲君、ちょっと来てくれ、」
「あっ、はい・・」
支社長は部長席のデスクから帳簿を取り出すと美咲にさしだした、
「これを使いなさい、30万残っている、」
「これは・・」
「営業部の販促予算だ、私の一任で全て使っていいよ、佐々木君はもういないからね、君の印鑑だけで経理にもとおるように指示しておくよ、」
「支社長・・いいんですか・・三課は未達していますし、本来は課の販促費を全額使用する権利さえないのですが、」
「たしかに三課は今期も未達している、でもね今回のチャレンジで君達は社内に大きな改革を見せてくれようとしている、これはその感謝費だよ、」
「ありがとうございます、」
美咲は深く頭を下げていた。
屋上のベンチに腰を下ろすと、かわいいピンクの風呂敷を開いている、中から三段に分かれた四角い弁当箱が現れた。1段目には唐揚げ、卵焼き、肉じゃが、きんぴらごぼう、煮物、鮭の塩焼き、牛肉の肉巻きなどが入っている、どれも判を押したような美咲の大好物である。
二段目には大きなお握りが窮屈そうに入っている、梅、鮭、昆布、雲丹とバラエティにとんでいる。そして三段目には色とりどりのフルーツと野菜サラダがたっぷりと詰められいる、
彼の健康に配慮した究極の愛情弁当であった。
火曜日の朝である。
「・・・と言う訳でみんな、今日中に各店と打ち合わせをしてくれ、店にも事情があるからな、」
「係長、お金は・・販促費ってもうないんでしょう?」
広田が心配そうに聞いている、
「うん、三課の販促費は残り100円だ、ははっ、でも心配するな、支社長から特別にいただいたんだ営業部のをね、だから皆んな1課や2課には内緒にしておいてくれよ。
あと、チャレンジも残り1週間だ、マイナスは広がっているけど絶対にあきらめないぞ、それと何より大切なことはこのチャレンジのキャッチフレーズ、“お客様に美と言う幸せを提供する”、これを忘れずに戦うことだ、
坂本課長の魂だぜ、売上目標を追ってはいけない、客数を追うんだ、お客様に対する絶対のサービス、これを追求するんだ、いいな皆んな、戦いを楽しもうぜ、」
『はいっ、』
「うーん、困ったね、山木君、31日の日曜はB社の美容会が入っているんだよ、ワゴンの店内での準備場所がないんだよ、」
「店長、なんとかなりませんか、準備場所なんてどこでもいいですから、
「うーん、ありがたい話しだからね協力したいんだけど、社長がなんて言うか、」
「B社の美容会の予約は今何名とれているんだ、」
「あっ、親父・・いや社長・・」
紅社長の長身の姿が現れていた、
「4名です、」
「4名?、あと1週間ないんだぞ、美容会の別会場は中止だ、山木さんのワゴンを優先しなさい、そのかわり山木さん、その日は美生堂さんのお手入れ室をB社に貸してやってくれ、それでいいかね、」
「はい、もちろんです、」
山木は床に頭がつく程頭を下げている、
(社長が、紅社長が始めて俺の名前を呼んでくれた・・)
夕方を待たず全員からワゴンOKの返事が入ってきた。
「木下君、美咲です、例の件お願いするよ、ギャラはいつも通り交通費、宿泊費も含めてお支払いします。よろしく頼みます、」
「はい、ありがとうございます、皆んな喜びますよ、木下オフィスの真価を必ずお見せしますよ、」
「松木さん、佐々木の件ではお世話になりました、水上さんって言う人に会ってお礼を言いたかったですよ、」
「ははっ、凄い女性ですよ、頭もいいし、腕もたつ、おまけに美人ときていますからね、係長のお嫁さんによかったかもしれませんね、ただし浮気でもしたら殺されますよ、」
「ははっ、佐々木はどうしているんですかね?」
「さぁ、総務部長が散々探したらしいんですが、辞表だけが郵送で送られて来たそうです、ひょっとしたら国外にでも逃げたのかもしれませんね、」
「もう忘れましょう、係長、あんな男のことは、」
「そうですね・・」
美咲はいつもの席でビールを飲んでいる、松木はすっかり”さち”の顔になり、お客さんからも慕われている。その後、広田は総務のはからいで美咲と同じマンションに引っ越してきた、802号室、美咲の隣の部屋である、お陰で出勤時はいつもチャイムを鳴らされ、同伴出勤である。広田は幸子の複雑な心境もおかまいなしに、いつも幸子にくっついている、まるで仲の良い姉妹に見える。
「早苗ちゃん、隣だからって、係長の部屋に行ったりしては駄目よ、男はね、皆んな狼なんだから、危険なんだからね、」
「えーっ、係長も狼になるんですかね、だったら私、食べられてもいいかも、」
「ブーッツ、」
美咲は厨房から聞こえてくる二人の会話にむせている、
「声がでかいんだよな、」
「本当ですね、でも係長、好きな人はいないんですか?」
松木が彼の顔をのぞきこんでいる、
「えっ・・まぁ・・」
ふと村上 百合の顔が浮かんだ、彼女を想うと胸が中学生の様にせつなく痛む、
(年が離れすぎているよな・・)
各店のマイナス数字は40万から50万、達成には厳しい状況にあった。
(1店でもいいから達成させたい、今一番マイナスが少ないのは秋山の健康堂か・・)
そして最終日、7月31日が訪れた。
朝から抜けるような快晴である、またしても支社長と総務部長が朝から手伝いに訪れてくれている、そしてなんと総務の女性達もかけつけそれぞれの店の手伝いをしてくれていた。
(よし、最終日だ、坂本課長、最後まで戦いぬきますよ、)
木下の提案で1時間早い10時から各店のDJワゴンがスタートした、木下と木下オフィスのメンバー達の意気込みは凄い、汗に包まれながら魂の呼び込みが続く、客足は途絶えることなく、休憩をとる時間もないほどである、
「木下君、昼の休憩をとってくれ、」
「いえ、美咲さんやらせてください、数字を稼ぐだけ稼いでおきたいんです、」
「そうかい・・」
美咲はスポーツドリンクを手渡すと接客の輪に戻って行った、
午後2時、若干客足が落ち着いたところで交代で休憩をとっている、美咲の携帯には各店の売上速報が続々と入ってきた、
(健美堂、35万チャレンジ達成まで残り40万、美粧堂、30万、残り30万、健康堂20万、今日は苦戦してるな、残り30万か、そして紅屋が現在、40万、残り45万か・・)
「係長、おにぎりです、何も食べてないでしょう、」
美容社員の上田さんが大きなおにぎりを手渡してくれた、
「おお、ありがとう、上田さんが握ったのかい?」
「そうですよ、係長の為に愛情をこめて握ったから美味しいですよ、」
「うん、ありがとういただくよ、」
塩の効いたそれは空っぽの胃に染みるように美味かった、
閉店まで残り1時間、各店は最後の追い込みにかかっていた、
「美咲さん、残り12万でチャレンジ目標達成だよ、この時間ではさすがにお客様も少ないからね、社販をしようと思うんだ、」
「社販?」
「うん、従業員も喜ぶんでね、特別価格で社販をすればなんとかなると思うんだよ、」
「店長、ありがとうございます、でもそれはチャレンジの趣旨に反します、お心だけいただいておきます、」
「そうかい・・」
時計の針は容赦なく、閉店迄の時間を刻み始めた、全員なにかに憑かれたかのようにただ戦っている、
山木は木下の手伝いをしながら、もはや枯れはてた声をふりしぼって、懸命に呼び込みを続けている。その後ろ姿に美咲はふと目頭が熱くなった、
閉店まで残り10分になった、
「松木さん、残り10分です、」
「あといくらですか? 」
「6万です・・・」
「6万・・まだあきらめませんよ、広田さん、」
「はい・・」
広田は大きな瞳に涙を一杯にためて、松木とともに呼び込みを続けている、
「小山君、残り10分だね、」
「はい、店長・・あと5万です、」
「本当によく頑張ったよ、」
「でもまだ10分ありますから、」
「そうだね、よし最後の呼び込みを一緒にやろう、」
店長の目には涙が光っていた、
「はい、」
彼は思わず拳を握りしめていた、
「秋山君、あと2万だよ、」
「はい店長、なんとかしたいです、あと10分ありますから、」
「うん・・」
しかし、客足は途絶え、店内には2名のお客様しかいなくなった、しきりに薬の説明を聞いている、
(残り5分か・・達成したい、達成したい・・)
「おお、しょうちゃん、まだ買えるかね、」
「あっ、お時さんどうしたの?」
ふいに優しい笑顔の老婆が現れた、
「いやね、息子に中元を頼まれたのじゃが、ほら以前にしょうちゃんがくれたいい香りの石鹸があったじゃろう、」
「ああ、パールホワイトだね、あるよ、何個?」
「そおさね、この2000円のを200個貰おうか、」
お時さんはギフトコーナーのそれを小さな指で差している、
「200個っ、」
「店長ーっ、パールホワイト2000円の詰め合わせ200個ありますかっ、」
「えーっ、200・・ちょっとまってくれ、」
店長は急いで倉庫に向かった、
「あー、しょうちゃん、急がなくてもいいんじゃ、来週でいいよ、取りあえずお金だけ払っておくから、チャレンジとかって、やっておるんじゃろう、少しでも役にたてればと思って来たんじゃ、」
「すまん、秋山君、30個しかなかった、」
「大丈夫です、店長、来週の木曜日まで待ってくれるそうですから、入金だけ先にいただけました、」
「それじゃ・・」
「はい、達成です、チャレンジ達成です・・・」
「皆んなっ、やったぞチャレンジ達成だっ、」
店長の叫び声にスタッフから一斉に拍手が沸き起こった。
お時さんは秋山のマンションの近くで、”ふるさと”と言う小さな定食屋を営んでいる、カウンター6席だけの小さなお店であるが、料理は逸品で、彼は毎日そこで夕食を摂っている、お時さんは彼を孫のように可愛がっていた。
お時さんは手に一杯の景品と、スタッフ全員に見送られて閉店を告げるBGMを背に、何度も頭を下げながら帰って行った。
「そうか、おめでとう秋山、よく頑張ったな、これからそちらに向かうよ、店長やスタッフの方達にお礼を言わないとな、」
美咲は急いで健康堂に向かった、
「あれっ、支社長どうされたんですか?」
「ああ、美咲君、終礼が始まったんだよ、」
美咲が到着した頃、健康堂の店内では全スタッフ、各社の美容社員達までが参加してチャレンジの終礼が始まっていた、
「いやね、私がいたら店長は挨拶をお願いしてくるだろうからね、美生堂の支社長がしゃしゃりでて挨拶でもしたら、他メーカーの皆さんはしらけるだけだからね、ここでこっそり観ているんだよ、」
「そうか・・そうですよね、私もここで終わるまでこっそりと観ることにします、」
「うん、そうしたまえ、」
「それでは実績の発表をします、」
店長は売上集計表を静かに開いている、
「チャレンジ目標500万、実績504万 達成率100.8% 前年比はなんと201.6%です、」
一斉に拍手が沸き起こった、
「私は美生堂の美咲さんからこのチャレンジの提案を受けた時、正直乗り気ではありませんでした。前年比200%なんて無謀な目標提示だと思ったし、客数を目標とするとか、絶対のサービスとか綺麗ごとにしか思えなかった、でもね教えて貰いました、この1ヶ月で私の考え方が変わりました、綺麗ごとではなくそれが商売の本質であることを、そして何より人の輪の力を知りました。今もこうして、美生堂さんのチャレンジの終礼なのに、他メーカーの美容社員の皆さん、担当スタッフ達全員が最後迄片づけを手伝ってくれ、こうして集まってくれています、すべての垣根をこえて全員で店が一丸となれた、そうしたチャレンジでした、私は店長として心から皆さんに感謝します、本当にありがとうございました、そしてお疲れ様でした、」
暖かい拍手が沸き起こっていた、
「それでは美生堂を代表して秋山君、一言お願いします、」
「えっ、店長・・僕ですか・・」
「うん、頼むよ、」
「は・はい・・」
秋山は緊張で染まった頬を膨らませて、ロボットの様に全員の前に立った。
「あ、ああ・・あの皆さん大変お疲れ様でした・・、お陰さまでチャレンジを無事達成することができました・・店長始めスタッフの皆様本当にお世話になりました、ありがとうございました。そして他メーカーの美容社員の皆様本当にご協力ありがとうございました・・僕は・・僕は営業担当の仕事が苦手でした、成績もよくなくって、毎日が楽しくはなくって・・でもチャレンジが始まってからは夢中になれました、1日、1日の大切さを知りました。僕は今も亡くなった坂本課長の手紙をお守りにして持っています・・何かを信じることが僕を少しだけ変えてくれました、今回のチャレンジの経験は僕にもう一つの、まだほんの少しだけですが、自分を信じる力を与えてえてくれました、本当にありがとうございました。」
鳴りやまぬ喝采に彼は包まれていた、
(秋山、いい挨拶だったぞ、お前本当に成長したな・・)
美咲は目頭に熱いものが溢れるのを感じていた、隣では支社長がしきりと涙をぬぐっている、
翌朝、支社のチャレンジ実績ボードの前には人だかりができていた、
『凄いな、目標1800万で実績が1783万か、前年比198%だぞ・・』
そこには三課のチャレンジ最終実績が報告されていた。
残念ながら達成できたのは秋山の健康堂1店だけであったがここに三課の死力を尽くした最後の戦いは終了した。
「皆んな、お疲れ様でした、朝礼で報告したとおりだ、達成できなかったけど本当に意味のあるチャレンジだった、心からお礼を言うよ、」
三課は始めて全員が月度達成、そして課としても達成どころか挽回を図ることができたのである。その後、8月、9月と連続達成をしたものの、通期達成には及ばず運命の期は終了したのである。
「係長、明日10月1日は辞令日ですね、いよいよビューティ関連事業部ですね、」
山木が寂しそうに笑っている、早くも机の整理を始めている、
「ああ、しかしな、考えようだぜ、あそこはまだ出来たばっかりの事業部だからな、ポストはガラ空きだそうだ、山木だっていきなり主任や係長になれるかもしれないぞ、俺は事業部長でも狙ってやろうかな、」
「それ、いいですね、そうかチャンスかもしれないですよね、」
「美咲君、明日辞令がでます、君始め三課のメンバーは早出しないように待機しておいてください、」
「はい・・」
加藤総務部長はそれだけ告げるとデスクに戻って行った、チャレンジの応援で腰を痛め、歩き方がぎこちない、
(ははっ、ダイレクトなお告げだな・・)
辞令日のいつもの空気に社内は包まれていた。総務部長が支社長になにかをささやくと二人は応接室に消えて行った、
三課のメンバーは上着を身につけ、もはや覚悟の様子である、
「美咲係長、応接室へ、」
総務部長の低い声が響いた、なんとなく緊張している、
「はい、」
三課全員の眼が凝視するように美咲の背中を追っている、
「美咲係長、10月1日付辞令を支社長から交付していただきます、」
黒いお盆に乗った、辞令を取り上げると総務部長はそれを支社長に手渡した、
「営業部、営業第三課、美咲係長A、本日付をもってM支社、営業部 営業部長A、兼販売三課長を命ず、」
支社長は満面の笑みでそれを手渡している、
「えっ、ぶ、部長ですか・・ビューティ関連事業部に移動では・・三課はなくなるんではないですか?」
「ははっ、あんなものは佐々木君が勝手に進めていただけだ、」
「それじゃ、三課は三課は残していただけるんですか?」
「残すどころか、これから活躍してもらわなけらばならない事情があるんだよ、また話すがね、」
「えっ・・そうですか・・」
「後任の三課長が来るまではしばらく三課長も兼任してもらうので宜しくお願いするよ、」
「あ、はい・・」
(部長・・俺が部長・・しかも部長A・・・)
美咲は幽霊のような足取りでデスクに戻ってきた、全員その姿に思わず目を伏せている、
「小山君、お願いします、」
総部部長が次を指名している、
「は・・はい・・・」
辞令交付後、美咲は支社長に呼ばれていた。
「美咲部長、おめでとう。驚いたかね?」
「はい、今だに信じられません、私が部長なんて、」
「はは、あるべき姿だと私は思うよ。小山君も広田さんも、そして山木君も昇進させた、三課の業績では普通はありえない辞令だがね、私が直接本社の人事部に掛け合ったんだよ、」
「そうですか・・」
「美咲部長、三課が中心になって営業部を改革して欲しいんだ、知ってのとおり今期は1課も2課も未達に終わった、当然だ、原因があって結果がある、佐々木君の間違った採配のなれのはてだよ、3課も未達だったが内容に大きな差があった、今回の辞令はその期待を込めてのものでもあるんだ、」
「はい・・」
「美咲部長、部長A職は次期支社長になる職階だ、私の任期はあと1年だからね、君に支社長の席を譲りたいと考えている、この1年で支社長見習いの仕事もしてもらうよ、いいね、」
「私がですか・・大任すぎますが・・」
「何を言っている、君は将来美生堂を背負って行く男になる、支社長などほんの通り道だよ、」
「いえ・・とても・・・」
ミーティングルームに全員が集まっている、狸にだまされたかのようにただお互いを見つめている、
「小山、良かったな係長Bに昇進か、広田さんと、山木は主任になったし、」
「係長、いえ、部長、僕も職級が上がったんですよ、S級になったんです、」
「そうだな、秋山、S級なら次は主任に昇進できるぞ、おめでとう、」
「なんだな・・夢じゃないよな・・三課が無くなるどころか、皆んなご褒美を貰ったな、」
「係長、いや部長、また一緒ですね、」
山木主任が笑っている、
「良かった、明日も係長、いえ部長と出勤できるんですね、」
広田主任が涙ぐんでいる、
「あれっ、松木さんは今日はどうしたんですか?」
秋山が心配そうに尋ねている、
「うん、なんだか実家の所用でね、しばらく休みだそうだ、」
「えー、そうなんですか、」
広田主任が寂しそうに首をかしげている、
「皆んな、今日一杯行くか、”さち”にでも行かないか? 俺の奢りだぜ、」
『賛成―、行きましょう、』
翌朝、いつもの席についた美咲に総務部長が駈け寄ってきた、
「美咲部長、そこは小山係長の席だよ、部長席は向うですよ、」
遥か、上座の大きなデスクを指さしている、
「えっ、はい・・」
どうにも座りごごちに違和感がある、
(これが部長席か・・)
遠い三課の席から広田さんが手をふっている、
「美咲部長どうですか、部長席の座りごごちは?」
「あ・・いえ、なんかどうも慣れなくて、」
「椅子もデスクも新品に替えましたからね、佐々木部長の使いふるしに君を座らせたくないと言う支社長の配慮でね、」
「はい・・ありがとうございます、」
その後、1課、2課のメンバーがそれぞれ挨拶に訪れてきた、彼をいつも見下したいた1課長が深く頭を下げている、気持ちが良いよりも責任の重さを感じずにはいられなかった。
「ゆうちゃん、なにぼんやりしているの?」
看板の電気を落とした幸子が、エプロンで手をふきながら隣に腰掛けてきた、
「うん・・ちょっとね、」
「松木さん、何時帰ってくるのかしら、」
「うん、なんか実家の所用が長引いているみたいだよ、」
「今回の件を知ったらきっと喜んでくれるのにね、」
「ああ、ほんとだね、松木さんは三課の救世主だよ、早く戻ってきてほしいよね、」
「キャーッ、」
テレビを観ていた広田が突然叫んだ、
「なんだ・・」
「なになに早苗ちゃん、ゴキブリでもでたの?」
「ゆうちゃん部長、幸子さん観て観て、」
右手にジュースを持ったまま、彼女は目を丸くして画面を指差している、
「ええっー」
美咲と幸子も同時に叫んでいた、画面の中で松木がインタビューを受けている、
『松木会長、今回の新会社設立目的はどこにありますか?』
「はい、松木グループも創業150年を迎えましたが、今後は女性がさらに活躍される時代になっていくと思います、そこで私達は”美と言う幸せ”を多くの女性にご提供させていただきたく、新会社ビーナスを創設することに決定致しました。」
『美生堂とのコラボレーションもあると聞いていますが?』
「はい、現在協議中でして、詳しいことはお話しできませんが、美生堂さんには三課と言う素晴らしい社員さん達がいます、力を貸していただければと考えています、」
『三課ですか?・・会長、それはどのような?』
「はは、その件は話しが長くなりますので、またの機会に・・」
『そうですか・・今回の件は、松木グループ総帥である松木会長自らが計画し、採配をとられていると聞いていますが、』
「いえ、私はもう引退の身ですよ、今回の件は社長が任せてくれると言うので、楽しみながらやらせていただこうと思っています、」
『ビーナスの誕生を私達マスコミも楽しみにしていますよ、』
「ありがとうございます、必ず期待に添える様に頑張りますよ、」
「あーっ、しまった・・どこかで見た顔だとは思っていたんだけど、松木さんって、松木グループの総帥、松木会長だったんだ・・しかし・・まさか・・・」
美咲は肉じゃがを両手で持ったまま茫然と画面を凝視ししている、
「松木グループって、130の会社を傘下にする巨大グループですよね、えー、信じられない・・私、いつも松木さん、松木さんって気軽に声をかけていたなんて、」
広田が美咲と幸子の顔を交互にみつめている、
「私なんて、松木さんにエプロンさせて、じゃがいも剥いてなんて、ため口ばかり言っていたのよ、ゆうちゃんどうしょう・・」
幸子がため息をついている、
三人はしばらく松木の消えた画面を見つめていた、
「ただいまー、」
「うわーっ、」
「キャーッ、」
「おおーっ、びっくりした、どうしたんですか皆さん?」
「ま・ま・松木さん・・いえ、松木会長・・」
「はは、部長この度はご昇進おめでとうございます、広田さんからメールをいただきましてね、本当におめでとうございます、今晩は美咲部長と広田主任の昇進祝いをしましょうよ、高級ワインとね、おつまみを買ってきたんですよ、」
「松木さん、いえ・・松木会長、お名前は存じていましたが、お顔まではよく存じずに・・失礼を致しました・・・」
「はは、部長、私はマスコミが苦手で滅多にメディアには顔をだしてないものですから、こちらこそ失礼しました。支社長は大学の同級生でしてね、美生堂の本社にお願いして、M支社で勉強させていただける様に頼んだんですよ、特別扱いしていただいてはご迷惑をおかけするので、身分は伏せていました、こちらこそ失礼しました、」
「松木会長、さっきTVで会長のインタビューを皆んなで観ていたんですよ・・」
広田さんが距離をおいて話しかけている、
「いやー、そうでしたか、社長が勝手に取材を受けてしまって、渋々出演したんですよ、部長、新会社は美生堂さんとのコラボもお願いしています、詳細はまた打ち合わせさせていただきますので宜しくお願いします、」
「いえ・・こちらこそ・・・」
「幸子さん、ご無沙汰しました、とりあえず乾杯の前に明日の仕込み終わらせましょう、」
「いえ・・その、会長に仕込みなんて・・」
松木はもうすでに白いエプロンを付け、陽気にじゃがいもを洗い始めた、
三人はその姿を茫然と眺めている、
新会社ビーナスはトータル美容を提供する会社として設立された、美生堂と協同でオリジナルブランドの化粧品も開発し、直営店も展開する。テストケースとしてM支社管轄に3店舗がオープンする予定である、松木の希望を受け、美咲は3店舗すべてを三課で担当するよう小山係長に指示した。
1年が経過した。
ビーナスの新店舗のオープン効果と、既存店もすっかり活性化した三課は、自然体で着実に業績を伸ばしている、常に1課、2課の未達分をカバーし、M支社の達成に大きく貢献していた、その後、小山は三課長に昇進し、山木と広田は係長に、秋山も主任に昇進、新たに2名の新メンバーも加わわり、いつしか彼等は”怒涛の三課”と呼ばれるようになっていった。
15年の歳月が流れた。
夢を観ている。
懐かしい時の中にいる。
《ゴトトーンッ》
車輪が空港に降り立った、軽い振動に目が覚めた。
(ん・・着いたのか・・)
小さな窓からは抜けるような紺碧の空が広がっている、まだ春というのに日差しが眩しい。
(これが南の果てか・・)
「やあ、美咲係長ですね、総務の加藤です、」
ゲートを出ると、恰幅のいい紳士が手をあげている、襟に美生堂の銀バッチが光っている、
「美咲です、これから宜しくお願いします、」
「こちらこそ、何度か社内の広報誌で顔を拝見していたからね、すぐに分かりましたよ、」
「はぁ、いえ・・」
「さっそくまずは支社に行きましょう、それからマンションに案内しますからね、」
「はい、」
「美咲係長はこの街は始めてですか?」
「はい、始めてです、」
加藤は慣れたハンドルさばきでハイウェイを快適に飛ばしている、あちらこちらにヤシの実のような植物が立っている、
「住めば都と言いますけどね、なかなかいい街ですよ、魚は美味いし、空気は美味い、それと水もいいんですよ、あと美人も多い、美咲係長もこの地で身を固めてくださいよ、」
「ははっ、まぁ・・」
支社は想像以上に大きく、立派である。チョコレートブラウンの洒落た外観に、銀色の美生堂の文字が輝いている。
「どうです、なかなかのもんでしょ、都会地では殆んがテナントビルですがね、M支社は自社ビルなんですよ、」
「いやー、凄いですね5階建の自社ビルなんて、」
「1階が駐車場、2階が倉庫、3階と4階が事務所で5階が多目的ホールになっているんですよ、」
「へー、立派ですね、」
加藤に案内されるまま、3階にある営業部に向かった、まだ午後3時なので営業担当達は誰もいない、奥の総務部に社員が数名いるだけである、
加藤は総務部に彼を紹介すると、三課のデスクに案内してくれた、
「ここが美咲係長のデスクです、三課長は支社長、部長とともに、販売店さんの表賞旅行に行ってましてね、明日帰りますから、紹介は明日させていただきますね、」
「はい、」
その時、突然暗い顔をした女性が下を向いたまま裏口から入って来た、
「あっ、広田さん早いね、今日赴任された美咲係長だ、直属の上司になるんで宜しくね、」
「美咲と申します、宜しくお願いします、」
「広田です・・あの・加藤部長・・私なんだか具合が悪くて、早びけさせていただいても宜しいですか?」
「風邪でもひいたかね?」
「なんか気分が悪くて・・」
「分かった、それではすぐに帰りなさい、悪いようだったら病院に行くんだよ、」
「はい・・」
長く、重い黒髪が顔を覆い、時折牛乳瓶のような眼鏡が冷たく覗いている、彼女はそそくさとバッグを手にすると、また裏口から消えて行った。
「いい娘なんだけどね、どうも営業が苦手なようでね、美咲係長宜しく頼みますね、」
「あっ、はい・・」
(あれでも営業担当か・・赴任前噂には聞いていたが、三課ってどんな課なんだ・・)
「お疲れさま、ありがとう、よかったらこれ、」
美咲は引越し業者の元気のいい若者三人に、大きな冷たいスポーツドリンクをそれぞれに手渡している、
『ありがとうございます、もう喉がカラカラで、遠慮なくいただきます、』
三人とも汗びっしょりな浅黒い笑顔で微笑んでいる、
彼等を見送ったあとマンションの大きなベランダに腰かけている。まじかに海が観える。ダイヤモンドを蒔いたかの様にキラキラと光っている。緑が多く、聞いたこともない鳥のさえずりがあたりを静かに包んでいる、
(綺麗だな・・左遷も悪くないか・・)
「美咲係長、このマンションはね、独身寮と言っても幹部用に借りているんだよ、三年前に出来たばかりでね、この街では有名な高級マンションだよ、きれいに使ってくださいね、」
「はい、すみません、こんな良いマンションを、」
「君の希望の支社から歩いて5分となると、ここしかなくてね、たまたま空いていていてね、なぜか支社長が即、OKをだしてくれたもんだからね、ラッキーだったね、」
「はい、本当にありがとうございます、」
最低限の荷物を開いたところで外を散策してみることにした。病院やスーパー
クリーニング店、コンビニ等近くに揃っている、
(田舎でも中心部だからな、便利だな、)
時計は午後7時を廻っていた、
(腹減ったな、飲食店はあまり無いんだよな、そういえばマンションの1階に小さな居酒屋があったな・・行ってみるか、どうせ赤い顔をした親父がやっているんだろうな、)
「いらっしゃい、一人ですか?」
「はい、」
「じゃ、カウンターでもいいです?」
「うん、」
カウンター以外は座敷になっていて、満席状態である、
(アルバイトの女性かな? 綺麗な人だな・・)
「えっと、とりあえず生の大をお願いします、」
「はーい、」
慣れた手つきでジョッキに注いでくれている、クリーミィーな泡が綺麗に立っている、
「はい、どうぞ、」
「ああ、ありがとう、」
一挙に喉に流し込む、胃に染みるように旨い、
その様子をじっと彼女が見つめている、
「あ・あの・・このおまかせ定食をお願いします、ご飯は大盛りで・・」
「はーい、うちはご飯は食べ放題よ、一杯食べてね、」
二杯目を飲み干した頃、定食が現れた、
肉じゃが、刺身、天麩羅、酢の物、野菜サラダ、そして豚汁が付いている、豪勢だ、どれも大好物である、
「あのー、これ、おまかせ定食ですよね・・900円の・・」
「そうよ、900円のよ、」
「豪勢ですね、都会なら3000円はとれますよ、」
「お客さんに栄養のある物をって、作ってたらこうなっちゃうのよ、このマンションは単身赴任の人が多いから、」
「そうですか、本当に美味しいです、」
「お客さん、この街の人じゃないでしょ?」
「ええ、転勤で今日引っ越してきました、」
「都会から来たんでしょう、なんか言葉が洗練されてるもの、」
「そうですか・・このマンションの8階に住んでます、」
「へー、そう、このマンションってね、お医者様とか会社の役員さんとか、けっこう偉い人が多いのよ、三年前テナントで入るの大変だったんだから、主人の友達が不動産屋でね、格安で仲介してくれたの、」
「そうですか、今、ご主人は?」
「三年前に病気で亡くなったわ、」
「そうですか・・すみません・・」
「気にしないで、もう三年も前の話しよ、じゃぁ、お客さんも偉い人?」
「はは、全然偉くないです、たまたま幹部用のマンションが空いていて、入れてもらっただけですよ、」
「幹部用・・どこの会社?」
「美生堂です、」
「へえー美生堂っ、私ね、元美生堂の美容主任だったのよ、今度会うと思うけど1課の美容係長で、今は3課も兼任している山口 愛の同期なの、」
「へー、そうですか、僕、三課の係長として赴任してきたんです、」
「そう、なんか奇遇ね、愛には注意してよ酒癖悪いんだから、あっ、そしたらこれから夕食はこの店で食べてね、毎日栄養を考えて作ってあげるから、」
「はい・・よろしく、」
「私は南 幸子、さっちゃんと呼んで、」
「僕は美咲 裕です、」
「じゃ、ゆうちゃんね、」
「はは、まぁ・・」
支払を済ませて店を出た時、”さっちゃん”が追いかけてきた、
「ゆうちゃん、独身?」
「ええ、独身です・・」
「そう、良かった、明日も必ず来てね、」
小さな白い手を何度も振っている、
「うん・・」
(会ったばかりなのに、南国の人は明るいな・・)
彼の湿った心が少し癒されていた。
「美咲係長、どうだねM市は?」
「はい、いいところですね、」
「ははっ、気のない返事だね、ここは私の故郷でね、私も君と同じく今回の人事で赴任してきたばかりだよ、昨日まで販売店さんの表賞旅行の随行があってね、君より少し早く着任して来たって訳さ、」
「そうですか・・」
「さぁー、美咲係長、まずはなにより現場だ、販売店の状況を挨拶を兼ねてじっくりと把握しよう、」
「はい・・」
「三課のエリアはね、ご覧のとおりのローカルだ、前任の課長と係長が散々な評判でね、販売店の返品未計上や、販促費を使いこんだりしてね、結局は逃げるようにして辞めていったらしい、だから君も私も引継ぎはなしだよ、各店の業績は低迷しているし、美生堂に対する信用も地におちている、まずは君と二人で信用回復をして、業績を回復しないとね、」
「分かりました・・」
「美咲係長、君はなんの為に仕事をしているんだい?」
「はっ・・なんの為ですか?」
「まさか給料をもらう為なんて言わないよな、」
「ええ・・まぁ・・」
(そんなこと考えたこともないさ・・一流企業だから美生堂を選んだだけだし、あとはとにかく出世だよな、それ以外何があると言うんだ・・)
「私はね、化粧品を販売することによって”美と言う幸せ”を提供しているんだ、化粧品をね、ただ売っている訳じゃない。仕事にね優劣はない、それぞれが自分の役割を果して、この世に貢献している、誇りとはそうしたものだよ。」
「はい・・」
(なに言ってんだ、いい歳をして、綺麗ごとを言う人だな、馬鹿なのかな・・)
彼は、坂本の少年のような横顔を見つめていた。
「社長、美咲社長起きてください、お時間です、」
「ああ・・うん、分かった、」
「社長、少しお疲れではありませんか?」
「いや、大丈夫だよ、懐かしい夢を観ていてね、なんだか元気がでてきたよ、」
彼は秘書に上着を着せられながら、ふと窓から天を仰いだ、
(坂本課長、守ってください、散々迷いましたが、私は、私の信念を通してみますよ、)
「さぁ、行くとするか、」
「はい、」
大会議室には役員達が顔を揃えていた、彼の入室とともに一斉に立ちあがる、
「お座りください、」
創業145年を迎える美生堂も、不況の嵐の中決して安泰ではなくなり、役員会からは効率化とともに大幅なリストラ案が提示されていた。
「皆さん、結論から言います。リストラはしない、社員誰一人解雇はしない。大切な社員を解雇しなければ生き残れない様な企業に明日はない。社員を守るのが私と貴方達の責任です、その覚悟がなく、安易なリストラ策を提案する役員はこの場で辞めてもらいます。今、この場で辞表をだしたまえ、私は言葉遊びはしない、上に立つ者に対しては非情になります、本気だよ。まずは心してください、私始め、役員報酬を30%カットします、併行して徹底した無駄の効率化を図ります。本日の会議はこれを軸として進めてください、この私の考えに反対であれば社長を替えてもらって結構、私はいつでも退任します、」
凛とした彼の不退転の言葉は役員一人一人の心に響き渡っていた。
「広田室長、困ります、社長にご用の時は秘書室の許可を取っていただかないと、」
秘書が口をとがらせている、
「ごめんね、由美ちゃん、私、秘書室長が苦手なのよ、」
「ははっ、まっ、広田さんの場合はいいさ、家族みたいなもんだからね、」
秘書はコーヒーを二つ置くと、美咲を優しく睨んで退出して行った。
「それで今日はどうしたんだい?」
「社長、できたんです、」
「うん、子供かい?」
「プッ、馬鹿なこと言わないでください、私はまだ独身ですよ、百合さんに、ゆうちゃんを取られたから・・もうアラフォーなんですからね、どうしてくれます?」
「そうだな、今度お見合いでもしてみないか、そうだ松木さんに頼めばきっといい人を紹介してくれるよ、」
「もー、いいんです結婚は、それよりできたんです例の口紅が、」
「例の落ちない口紅かい?」
「ええ、潤いがあって落ちにくい口紅、商品化できそうです、」
「それは凄い、急いでくれ、ひよっとしたらその口紅は美生堂の救世主になるかもしれないぞ、」
「はい、」
広田 早苗は10年前に本社の商品開発室に移動となり、現在は商品開発室長を務めている、
美咲の改革は徹底していた、全社内に”美と言う幸せをお客様に提供する”。これをキャッチフレーズに全支社に足を運び、陣頭指揮をとった。
広田の開発したマジックルージュは空前のヒット商品となり、名門美生堂の復活に大きく貢献を果したのである。
海の観える小さな丘の稜線を登っていく、雨の季節なのに艶やかに晴れている、頬の風がさわやかで、空気が澄み切っている、
(あー、この街はやはりいいな、なにもかもが昨日のことのように思い出す・・)
墓地に着いた。
毎年訪れるここには大切は人が眠っている。
(うん、誰だろう?・・)
見知らぬ老人が、しきりとお墓の草を抜いている、
「こんにちは、私、美咲と申します、坂本課長のお身内の方ですか?」
老人は振り向くと、驚いた様に彼を見つめている、
「いえ、私は寺の使用人をしているものです、今日は坂本さんの命日ですので、せめて掃除をさせていただいていました・・」
麦わら帽子を深めにかぶり、黒く日焼けした老人は下を向いたまま答えている、
老人はそそくさと後片付けをすると、深く頭を下げ逃げるように去って行った、
(どこかで見たような顔だが・・)
「あっ、佐々木・・佐々木部長・・・」
彼は思わず声をあげていた、
遠く小さくなって行く背中は確かにその人であった、
(もどっていたのか・・ここに・・・)
その姿が消えるまでただ茫然と見つめていた、
「美咲社長っ、」
「あっ、松木さん、さっちゃんも、いや、さっちゃんなんて呼んだら失礼ですよね、今や株式会社ビーナスの代表取締役社長でしたね、」
「やめてよ、ゆうちゃんだって今や天下の美生堂の社長様じゃないの、」
「ははっ、二人とも偉くなったからね、でもね私だってまだ会長様だよ、」
「本当ですよ、松木会長の助けがなかったら、美生堂の復活もありませんでした、三課時代から会長は本当に救世主ですよ、心から感謝しています、」
「いやいや、でもなんですね、三課時代が懐かしいですね、」
「”さち”も懐かしいでしょう、私はゆうちゃん一筋だったのに、松木会長に口説かれて、口説かれて、結局、松木 幸子になったんだもの、」
親子ほども年の離れた二人だったが、松木の猛烈なアタックに幸子のハートは陥落したのである。
「いやー、若い妻をもつと大変ですよ、色々と・・」
「あー分かりますよ、色々と大変です・・私も若い妻を貰いましたから・・」
「百合さん元気?」
「うん、元気だよ、今はパソコンのインストラクターをしていてね、一緒に来たかったらしいんだけど、検定試験の講習が入っていて来れなかったんだ、」
総務の村上 百合は今は美咲の良妻賢母である、松木の熱い仲介で二人は結ばれたのである、
「そう、残念ね、会いたかったわ、今度皆んなでお食事でもしましょうよ、」
「それはいいね、美咲社長、是非しましょう、」
「はい、松木会長、是非、」
「社長―、会長―、」
遠くから何人かが叫んでいる、
「あー、小山、山木、そして秋山・・」
三課時代の懐かしいメンバーが美咲の目に飛び込んできた、
「社長、会長、お久しぶりです、」
三人は息を弾ませながら頭を下げている、
「いやー、奇遇ですね、きっと坂本課長が集合をかけたんですね、」
松木が嬉しそうに微笑んでいる、
「皆んな、頑張っているみたいだな、」
「はい、美咲社長のもと部下ですからね、頑張ってますよ、」
小山はどんぐりのような目をキラキラさせながら話している、今はM支社の営業部長を勤めている、
「社長も会長もお変わりないですね、いつまでも若々しくて、」
秋山はあの頃と変わらない、少年のような笑顔である、今はK支社の課長A職を勤めている。
「社長、会長ご無沙汰しています、お元気そうで何よりです、」
「いやー、山木、山木社長、本当に色々とありがとうございます、四国地区本部長からいつもお噂は聞いてますよ、素晴らしい経営者だと、」
「やめてくださいよ、美咲社長、私はいつまでも社長の子分ですからね、美生堂は離れましたが、今も美生堂の・・そう三課の一員ですよ、」
二人の兄を事故でなくした後、山木は美生堂を退社し、四国にある実家の薬局を継いだ、周囲の不安をよそに彼は並はずれた手腕を発揮し、今や150店舗を束ねる社長になっている。
「あと、広田さんがいれば三課全員集合なんだけどね、例の新マジックルージュの開発中でね、商品開発室に缶詰状態なんだ、まぁ宜しく言っておくよ、」
美咲はすっかり三課時代に帰っていた、あの係長時代に、
「じゃ、全員で坂本課長に御参りしましょう、」
松木の発声で全員、墓前に手を合わせた。
(坂本課長、皆んな来てくれましたよ、貴方が魂をかけて守った三課のメンバー達です、私も美生堂を魂をかけて守ります、どうかお力をお貸しください、見守ってください、)
美咲は墓前で誓いを新たにしていた、その懐には今も坂本の手紙がお守り代わりにある。
美生堂の最も厳しい時代を、社員誰一人犠牲にすることなく、人の和と心を強く結んで切り抜けて行った人、この人ほど社員に愛された社長もいない。そして永久に続く歴史の中で伝説の社長と呼ばれるようになった、この人こそ、”美咲 ゆう”、その人であった。
<完>