視線感知実験
ふと顔を上げた。その時になって、自分の臀部の痛みに気づく。2時間も座り続けた事による鈍く、じんわりと残るその感覚を気付かせた「それ」を、今どこから感じたのだろうか。
教室には私と顧問の片岡先生の2人だけ。夏休みの美術部。部員は少なくないが、その全員が幽霊部員だ。
「先生?」
「うん?」
「寒くない?」
片岡先生がエアコンのリモコンを手に取る。外の鮮やかな緑の眩しさが教室に入ってくる。
「たまには外で描いてもいいかもな」
「死にますよ?」
「若いなら大丈夫だろ」
「いや、先生が」
片岡先生は定年後、美術部の顧問としてこの中学校に在籍している。決して堅物では無いが顔は怖い。それなりに名の知れた人らしい。少なくとも県内では。
少し前までは女性の顧問だったらしい美術部は、片岡先生が来てからこのザマだ。イラスト系では無く、絵画系の顧問だからと言うのが同級生の意見だった。
片岡先生がぼんやりと外を見ている。新聞を広げたまま、横にアイスコーヒーを置いている。
「いい天気だなぁ」
「そうですね」
「確かに寒いかもな」
チラリと目線だけを上げる。片岡先生の見ている窓の縁に、ぼんやりとした陽炎が立っている。
これが幽霊なのか、それとも私の幻覚なのか。もしかしたら魔物なのかもしれない。定義も、顔も声も知らない。
それがたまに存在していて、ふと顔を上げた時に、まるで目が合うような気がするのだ。もちろん、そいつに目があるようには見えない。
先生と目が合う。首を傾げながら笑って立ち上がり、私の絵を見に来た。
「これは誰かモデルが居るの?」
絵の中の人間は、男性とも、女性とも言えない顔立ちで、ただこちらを見ている。
ほんのうっすら笑うその顔は、私としては優しい顔のつもりだ。
「片想いの同級生です」
「へぇ。見られたら大変だ」
「まぁ、多分そこまで似てません」
2.75次元くらいの、微妙にデフォルメされた絵の子と目が合う。片岡先生が不思議そうに絵を見る。
「……何かあります?」
「いや。この子は難しい顔をしているなと」
「難しい?」
「笑っているようにも見えるけど、その奥の悲しみを隠すような、そんな表情だ。上手いね」
全くそんなつもりはなかったし、片岡先生の表現がよく分からない。
「どの辺がそう見えます?」
「背景の淡い空もそうだけど、こちらを真っ直ぐじっと見る感じかな。ただ笑っているだけならば、もう少し角度は前からズレるはずだ」
「そんなの人に寄りません?」
「いいや、友達とこんな面と向かって談笑する事は無いだろ?身体も真っ直ぐで、顔も、目もこちらを真正面に捉えている時っていうのは」
それは、暗に私が下手なだけでは無いだろうか。
「そんなに違うものですかね?」
「少し試してみよう」
「何を?」
「視線と、人の向きによる感じ方の実験さ」
片岡先生が机にコーヒーを置いた。
「何するんですか?」
「ちょうど暑いし、オカルトでもしようか」
片岡先生はこういう所がある。春の美術部で怖い話をしたせいで半分が幽霊になった。
美術室の真ん中に椅子を置く。そこに座れと促される。タオルを渡される。
「目隠して」
「視線実験、ですよね?」
「そうだよ」
渋々タオルを目に巻く。微かな光が入るが、視界はタオルの繊維がぼんやり見えるだけになる。
「……先生?」
返事がない。ただ歩く音が聴こえる。教室をゆっくり、私の周りを歩いている。
「先生?説明が無いんですけどー?」
途中、何かを机に置く音がした。また聴こえる。何だか怖くなってくる。何が始まるんだろう。
「先生ー?」
[私は今、何処に居るでしょうか]
スマホの録音再生の声質が真正面からそう言った。分かるわけが無い。
「先生、これが視線と身体の向きと関係あるんですか?」
当然返事は無い。馬鹿馬鹿しくてタオルを外そうとした時、また正面からスマホの録音再生が聴こえる。
[今、あなたを見ているのは何人ですか?]
趣向が変わってきた。本来ならば片岡先生1人だ。でもここは美術室、見ているのが生身の人間だけとは限らない。何度かものを置く音がした。回数は4回。でもブラフがあるかもしれないから、最大5人かな。
[視界を封じているので、他の感覚を頼りにする事を許可します。今、あなたを見ているのは何人ですか?]
この音声を初めから準備していたのか。以前に別の誰かに使った事があるのか。何にしろ、当てずっぽうで適当に言う。
「3人です」
返事が返ってこない。もうタオルを取っていいだろうか。10秒程待っても何も返事が返ってこないのでタオルを外す。
片岡先生が居ない。
「あれ?先生?」
ドアを開けた音はしなかった。立ち上がって部屋をぐるりと回る。何処にもいない。
寒くなってきた。エアコンのリモコンを手に取ると、既に消えている。さっき先生が消したんだ。そうであって欲しい。
私の絵は、私が座っていた位置からも見える位置にあった。これで1人目。
美術室を見渡しても、人の絵画や彫刻は置いてない。そんなことは分かってる。
窓際に立つ陽炎と、目が合った気がした。これで2人目。
あと1人は誰だ。
片岡先生が、隠れて何処かで見ているのかもしれない。廊下に出てみるがやっぱり居ない。外の陸上部が、校舎の横を走る音が通り過ぎて行く。校舎側の他の部活の音はしない。
さっきの椅子にもう一度座った。私の絵を見る。体も、顔も、目も、全てがこちらを真っ直ぐと見ている。怖いとは感じなかった。今感じている恐怖はこれじゃない。
それでも、視線を逸らしてもその絵から感じる何かが、私の耳を撫でる気がした。
椅子の上で膝を抱える。陽炎を見る。こいつは、私を見ているのだろうか。私の方に、体を向けているのだろうか。
片岡先生のスマホが目に止まった。それは黒板に立てかけられて、こちらを真っ直ぐ捉えていた。
立ち上がってスマホを取る。電源ボタンを押すと、ロック画面には3人がこちらを真っ直ぐ見つめる絵が出てきて、思わず落としてしまった。
おかしい。ここに3人居たら5人になってしまう。陽炎を抜いても4人だ。数が合わない。
私が間違えただけ?そうであるのならば、片岡先生には悪いけど、これはただの馬鹿げた遊びになる。
そうじゃないと思ってしまっている。その感覚を否定するには、誰か人と居ないと消えない気がする。
スマホを拾って机に置く。もう一度席に座る。今度は両手で目を隠した。
横から感じる違和感。これは私の絵だ。目を隠しながら、椅子の上で体の向きを変える。そうすると、その違和感は後ろに動いた。
私が頭で作り出した俯瞰図が、絵の位置をそう伝えているだけだ。きっとそうだ。
陽炎は何処だろう。思い出せない。目を開けたらすぐに分かるのに。
呼吸を深くする。耳を研ぎ澄ます。私の頭の上で私がグルグル回る。まるで絵の位置を変えようと必死になるように。
カチリと音が鳴った。分からない。近くの木々が揺れる音がした気がした。本物だろうか。
他の感覚とはなんだ。聴覚以外の何か、それを見るための、私の知らない感覚があるのか。
頭の中の真っ黒に、白で線を描いていく。美術室の位置を、真上から見下ろすように。
真上。
「……3人」
手を離した。窓の光が眩しい。ゆっくりと真上を見上げる。そこには何も無かった。
ダメだな。何だか分からなくなってきた。そう思って立ち上がって私の絵の方を見て腰を抜かした。
片岡先生が立っていた。
「3人か。私とこの絵。あともう1人」
「は?……へ?」
片岡先生は高らかに笑った。そしてコーヒーを手に取る。
「今、どこからものを見た?」
「どこ……から?」
教室を歩き回ってた訳じゃない。私はじっと座って、ただ頭の中の自分を切り離した。
上だ。真上から見た。それで絵の位置と、陽炎と、それからその視線、私が上から見たそれを含めた3人。
「人が恐怖から物をよく見ようとする時、横を見ながら行わない。君が君を見た時、その体がどうなっていたのか、覚えているかい?」
「……」
真上を見上げる。何だか嫌な気分だ。確かにあの時の見下ろした私は、真っ直ぐ体を向けていた感覚があったように感じたから。
「でも、不正解でしたね」
「いや、俺とこの絵と君、合計3人だ」
窓際に振り向く。陽炎は居なくなっていた。いつから?
「……先生どこ行ってたの?」
「秘密」
片岡先生がコーヒーを飲みながら、スマホを開いた。




