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視線感知実験

作者: Anzsake
掲載日:2026/06/13

ふと顔を上げた。その時になって、自分の臀部の痛みに気づく。2時間も座り続けた事による鈍く、じんわりと残るその感覚を気付かせた「それ」を、今どこから感じたのだろうか。


教室には私と顧問の片岡先生の2人だけ。夏休みの美術部。部員は少なくないが、その全員が幽霊部員だ。


「先生?」


「うん?」


「寒くない?」


片岡先生がエアコンのリモコンを手に取る。外の鮮やかな緑の眩しさが教室に入ってくる。


「たまには外で描いてもいいかもな」


「死にますよ?」


「若いなら大丈夫だろ」


「いや、先生が」


片岡先生は定年後、美術部の顧問としてこの中学校に在籍している。決して堅物では無いが顔は怖い。それなりに名の知れた人らしい。少なくとも県内では。


少し前までは女性の顧問だったらしい美術部は、片岡先生が来てからこのザマだ。イラスト系では無く、絵画系の顧問だからと言うのが同級生の意見だった。


片岡先生がぼんやりと外を見ている。新聞を広げたまま、横にアイスコーヒーを置いている。


「いい天気だなぁ」


「そうですね」


「確かに寒いかもな」


チラリと目線だけを上げる。片岡先生の見ている窓の縁に、ぼんやりとした陽炎が立っている。


これが幽霊なのか、それとも私の幻覚なのか。もしかしたら魔物なのかもしれない。定義も、顔も声も知らない。


それがたまに存在していて、ふと顔を上げた時に、まるで目が合うような気がするのだ。もちろん、そいつに目があるようには見えない。


先生と目が合う。首を傾げながら笑って立ち上がり、私の絵を見に来た。


「これは誰かモデルが居るの?」


絵の中の人間は、男性とも、女性とも言えない顔立ちで、ただこちらを見ている。

ほんのうっすら笑うその顔は、私としては優しい顔のつもりだ。


「片想いの同級生です」


「へぇ。見られたら大変だ」


「まぁ、多分そこまで似てません」


2.75次元くらいの、微妙にデフォルメされた絵の子と目が合う。片岡先生が不思議そうに絵を見る。


「……何かあります?」


「いや。この子は難しい顔をしているなと」


「難しい?」


「笑っているようにも見えるけど、その奥の悲しみを隠すような、そんな表情だ。上手いね」


全くそんなつもりはなかったし、片岡先生の表現がよく分からない。


「どの辺がそう見えます?」


「背景の淡い空もそうだけど、こちらを真っ直ぐじっと見る感じかな。ただ笑っているだけならば、もう少し角度は前からズレるはずだ」


「そんなの人に寄りません?」


「いいや、友達とこんな面と向かって談笑する事は無いだろ?身体も真っ直ぐで、顔も、目もこちらを真正面に捉えている時っていうのは」


それは、暗に私が下手なだけでは無いだろうか。


「そんなに違うものですかね?」


「少し試してみよう」


「何を?」


「視線と、人の向きによる感じ方の実験さ」


片岡先生が机にコーヒーを置いた。


「何するんですか?」


「ちょうど暑いし、オカルトでもしようか」


片岡先生はこういう所がある。春の美術部で怖い話をしたせいで半分が幽霊になった。


美術室の真ん中に椅子を置く。そこに座れと促される。タオルを渡される。


「目隠して」


「視線実験、ですよね?」


「そうだよ」


渋々タオルを目に巻く。微かな光が入るが、視界はタオルの繊維がぼんやり見えるだけになる。


「……先生?」


返事がない。ただ歩く音が聴こえる。教室をゆっくり、私の周りを歩いている。


「先生?説明が無いんですけどー?」


途中、何かを机に置く音がした。また聴こえる。何だか怖くなってくる。何が始まるんだろう。


「先生ー?」


[私は今、何処に居るでしょうか]


スマホの録音再生の声質が真正面からそう言った。分かるわけが無い。


「先生、これが視線と身体の向きと関係あるんですか?」


当然返事は無い。馬鹿馬鹿しくてタオルを外そうとした時、また正面からスマホの録音再生が聴こえる。


[今、あなたを見ているのは何人ですか?]


趣向が変わってきた。本来ならば片岡先生1人だ。でもここは美術室、見ているのが生身の人間だけとは限らない。何度かものを置く音がした。回数は4回。でもブラフがあるかもしれないから、最大5人かな。


[視界を封じているので、他の感覚を頼りにする事を許可します。今、あなたを見ているのは何人ですか?]


この音声を初めから準備していたのか。以前に別の誰かに使った事があるのか。何にしろ、当てずっぽうで適当に言う。


「3人です」


返事が返ってこない。もうタオルを取っていいだろうか。10秒程待っても何も返事が返ってこないのでタオルを外す。


片岡先生が居ない。


「あれ?先生?」


ドアを開けた音はしなかった。立ち上がって部屋をぐるりと回る。何処にもいない。


寒くなってきた。エアコンのリモコンを手に取ると、既に消えている。さっき先生が消したんだ。そうであって欲しい。


私の絵は、私が座っていた位置からも見える位置にあった。これで1人目。


美術室を見渡しても、人の絵画や彫刻は置いてない。そんなことは分かってる。


窓際に立つ陽炎と、目が合った気がした。これで2人目。


あと1人は誰だ。


片岡先生が、隠れて何処かで見ているのかもしれない。廊下に出てみるがやっぱり居ない。外の陸上部が、校舎の横を走る音が通り過ぎて行く。校舎側の他の部活の音はしない。


さっきの椅子にもう一度座った。私の絵を見る。体も、顔も、目も、全てがこちらを真っ直ぐと見ている。怖いとは感じなかった。今感じている恐怖はこれじゃない。


それでも、視線を逸らしてもその絵から感じる何かが、私の耳を撫でる気がした。


椅子の上で膝を抱える。陽炎を見る。こいつは、私を見ているのだろうか。私の方に、体を向けているのだろうか。


片岡先生のスマホが目に止まった。それは黒板に立てかけられて、こちらを真っ直ぐ捉えていた。


立ち上がってスマホを取る。電源ボタンを押すと、ロック画面には3人がこちらを真っ直ぐ見つめる絵が出てきて、思わず落としてしまった。


おかしい。ここに3人居たら5人になってしまう。陽炎を抜いても4人だ。数が合わない。


私が間違えただけ?そうであるのならば、片岡先生には悪いけど、これはただの馬鹿げた遊びになる。


そうじゃないと思ってしまっている。その感覚を否定するには、誰か人と居ないと消えない気がする。


スマホを拾って机に置く。もう一度席に座る。今度は両手で目を隠した。


横から感じる違和感。これは私の絵だ。目を隠しながら、椅子の上で体の向きを変える。そうすると、その違和感は後ろに動いた。


私が頭で作り出した俯瞰図が、絵の位置をそう伝えているだけだ。きっとそうだ。


陽炎は何処だろう。思い出せない。目を開けたらすぐに分かるのに。


呼吸を深くする。耳を研ぎ澄ます。私の頭の上で私がグルグル回る。まるで絵の位置を変えようと必死になるように。


カチリと音が鳴った。分からない。近くの木々が揺れる音がした気がした。本物だろうか。

他の感覚とはなんだ。聴覚以外の何か、それを見るための、私の知らない感覚があるのか。


頭の中の真っ黒に、白で線を描いていく。美術室の位置を、真上から見下ろすように。


真上。


「……3人」


手を離した。窓の光が眩しい。ゆっくりと真上を見上げる。そこには何も無かった。


ダメだな。何だか分からなくなってきた。そう思って立ち上がって私の絵の方を見て腰を抜かした。


片岡先生が立っていた。


「3人か。私とこの絵。あともう1人」


「は?……へ?」


片岡先生は高らかに笑った。そしてコーヒーを手に取る。


「今、どこからものを見た?」


「どこ……から?」


教室を歩き回ってた訳じゃない。私はじっと座って、ただ頭の中の自分を切り離した。

上だ。真上から見た。それで絵の位置と、陽炎と、それからその視線、私が上から見たそれを含めた3人。


「人が恐怖から物をよく見ようとする時、横を見ながら行わない。君が君を見た時、その体がどうなっていたのか、覚えているかい?」


「……」


真上を見上げる。何だか嫌な気分だ。確かにあの時の見下ろした私は、真っ直ぐ体を向けていた感覚があったように感じたから。


「でも、不正解でしたね」


「いや、俺とこの絵と君、合計3人だ」


窓際に振り向く。陽炎は居なくなっていた。いつから?


「……先生どこ行ってたの?」


「秘密」


片岡先生がコーヒーを飲みながら、スマホを開いた。

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