心のバトン
あと1歩……。
最後のバトンを、繋いだ。
俺は確かに、アンカーの先輩に繋いだ。
高校1年の冬――――
新年を迎えてすぐの部活動で発表された、2月の関東大会予選のスタメン表を見て、俺は驚きを隠せなかった。
4×100メートルリレーの走順。
3人が俊足の2年生で固められている中、4人目に俺の名前があった。
確かに俺は1年生の中でいちばん速い。だが、他の先輩で俺と同じくらいの速さなのはまだまだいる。
まして、この関東大会が、2年生の最後の大会なのだ。
どうして、引退間近の他の先輩ではなく、あと1年間猶予のある俺をスタメンに入れたのか、今すぐにでも監督に聞きたいばかりであった。
しかも、俺の走る順番は、アンカーにバトンを渡す、3番目だった。
それも、渡す相手はこの部活動のキャプテンの先輩だ。
あまりにも責任が重くて、俺の心の中では、緊張でずっしりと冷えていく一方、期待や闘争心でほんのり熱くなっているのを感じた。
練習は順調に進んだ。
初めは、場違いな俺を先輩らが白い目で見てくるのではと怯えていたが、案外快く接してくれて、気は楽であった。
ただ、ひとつ心配だったのが、補欠として同じチームに属していた、目つきの悪い先輩だ。
1年生で2年生を抑えてスタメン入りしたことに対して、恨みを持たれているかもしれないと思ったからだ。
言い方によっては、俺が最後の大会のスタメンを奪ってしまったとも言える。
何か報復されるかもしれない、という不安や自責の念が、度々モチベーションを下げることがあった。
それでも、他の先輩は俺を受け入れてくれるから、スタメン入りに対しては悪い気はしなかった。
翌日に大会を迎えた日。
事件は起きた。
例の目つきの悪い先輩と、キャプテンが言い争っていたのだ。
それはたちまちヒートアップし、目つきの悪い先輩が、キャプテンに対して暴力を振るったという。
それを聞いて、俺はすぐに自分が原因だと察した。
その瞬間の、なんともいえない吐き気や気だるさは忘れられないほどであった。
チームメンバーなら、聞いてすぐ止めに入ったり、守りに行ったりするべきだった。
俺が、本当のチームメンバーなら。
俺の足は、グラウンドと、部室と、部活動のあらゆるもの全てと、逆方向に進んでいた。
自分でも驚くほど、自然に動いていた。
部内で放たれる重圧に身を任せて、その場を離れるしかできなかったのだ。
俺は正規のチームメンバーではないのだと、悟った。
明日の大会、どうすれば良いんだろう。
あれこれ考えながらほぼ無意識に歩いたため、瞬間移動でもしたかのように、あっという間に家に着いた。
家に帰ってから、何もする気にならなかった。
リビングの家に座ってぼーっとしていたら、突然インターホンが鳴った。
訪れたのは、頬に布を当てたキャプテンだった。
そして、俺の姿を見てすぐ、謝ってきた。
俺も何が起きているか分からないけれど、すぐ謝り返した。自分が原因でキャプテンが傷を負ったというのだけは察していたからだ。
キャプテンは、色々教えてくれた。
どうやら、目つきの悪い先輩が暴力を振るったのは俺が原因ではなかったらしい。
大会前日という緊張感に耐えられず、気が動転したとか言っていた。
キャプテンは俺が気を落としていると察して怪我をしていながらも、訪問して来てくれたのだ。
俺は半分泣きそうだった。キャプテンの顔の傷が痛々しく、ほとんど集中して聞くことができなかった。
だが、キャプテンはそんな傷を気にもせず、俺があまりにもぼーっとしていたことを見て、元気出せよ、と背中を押してくれた。
ただひたすら、優しく包容されたような、冬の冷めた心が少しずつ温まっていくのだけを感じていた。
大会当日――――
部内の空気が、普段と比べて一段とひりひりする。
目つきの悪い先輩も、謹慎にはならずに大会会場にまで応援に来ることが許可されていた。
彼は直接、俺とキャプテンに対してちゃんと謝り、頑張れ、と珍しく明るい表情で応援してくれた。
レーンに立つと、いつも走っている学校のグラウンドとはあまりにも雰囲気が違う地面に、鋭い緊張感が走った。
これが、走者の感じる重圧。スタメン発表の時の重圧もかなりだったが、これは訳が違う。
何千人もが、この1レースに集中している。
ピストルの合図で、第1走者の先輩がスタートを切る。
あっという間に第2走者にバトンが渡る。
次は、俺だ。
バトンを受け取り、すぐに足を大きく動かす。
その1歩1歩に、俺が積んだ練習の成果が宿っている。
俺が感じてきた重圧が宿っている。
緊張も、目つきの悪い先輩の笑顔も、キャプテンの顔の傷も、キャプテンが押してくれた背中も。
この一瞬のレースの、この一瞬の走りに全てを注ぎ込む。
最後の1歩までを、全力で集中し、強く踏み込む。
思いを力に。
バトンを握った左手を、前に強く出した。




