とうとう出たね
「ふう……ん? え?」
昼前の喫茶店。まだ空席の目立つ静かな店内で、コーヒーを一口すすり、一息ついたところだった。突然、目の前の席にスーツ姿の男が無言で腰を下ろした。
薄く笑みを浮かべたまま、こちらが何か言うよりも先に、男が口を開いた。
「とうとう出たね……」
「はい……?」
「ん?」
「え、今、何か言いましたよね……?」
「ああ、とうとう出たね」
戸惑いながら聞き返しても、男はにやついたまま同じ言葉を繰り返した。おれは眉をひそめて、もう一度訊ねた。
「えっと……何が出たんですか?」
「ぬふふふ」
「いや、なに笑ってるんですか……」
「ぬははは、ふごっ」
男は肩を震わせて笑い、鼻を鳴らした。おれは顔をしかめた。
「……だから、何が出たんですか? それにあなた、知り合いじゃ……ないですよね?」
記憶を探ってみたが、やはりこの男に見覚えはない。誰なんだ……。
「いやあ、とうとう出たね」
「いや、だから何が出たんですか?」
「カフェオレ頼んでもいい?」
「いや、別に頼んだらいいんじゃないですか……」
「君の奢りね」
「じゃあ、ダメですよ」
「ケチだなあ」
「あなたがですよ。それで、何が出たんですか?」
「いや、とうとう出たね」
同じ言葉が返ってくるだけだった。業を煮やし、おれはスマホを取り出し、ニュースサイトを開いた。だが、新商品、事件、芸能人のスキャンダル――どれも特に目立つ話題はない。
「とうとう出たね……」
「だから、はっきり言ってくださいよ」
「とうとう…………出たね」
「溜めても出てきてないんですよ」
「出たね、とうとう」
「なぜ倒置法で……」
「デターネ・トゥトゥ(1913-1964)」
「偉人風ですか。もう、わけがわかりませんよ……」
もう相手にするのも馬鹿らしくなり、おれはため息をついて席を立とうとした。だがそのとき――背後から、ずしりとした重みがのしかかった。おれは思わずテーブルに手をつく。
「あの! とうとう出たんですか!?」
耳に生温かい息がかかった。ぎょっとして振り返ると、そこにいたのは小太りの男。汗にじむ額を輝かせ、ギラついた目で謎の男を見つめている。
謎の男は口を曲げ、得意げな顔でゆっくりと頷いた。
「とうとう出たね」
「出たんですねえ……」
小太りの男は、感極まった様子でしみじみと言った。おれは彼に問いかけた。
「あの、あなたは何が出たのか知ってるんですか?」
「出たらしいですね。ねえ?」
「うん、とうとう出たね」
「……だから、何が出たんですか?」
「ほんと、ようやく出たなって感じですね」
「は? 誰……」
さらに別の男が加わった。そして、それは次々と続いた。
「間違いないですね」
「信じてましたよ」
「これは流れ変わったな」
「私は味方でしたよ」
「装填完了ってわけ」
「ふふっ、どうなるのやら」
「風が吹いている……」
若者、初老の紳士、カップル、作業着姿の男、中年男性、髪の毛を振り乱した中年女性――彼らは、謎の男を囲み、それぞれ思い思いの言葉を口にした。しかし、誰一人として、肝心の『何が出たのか』には触れない。
「出たんですか?」と尋ね、謎の男が「とうとう出たね」と答えるそのたびに彼らは興奮し、目を輝かせた。
謎の男は腕を組み、満足そうにゆっくりと頷いていた。
「あんたら、異常だよ……」
おれは席を立ち、そそくさとレジに向かった。ふと店内を見渡すと、いつの間にか満席になっていた。客たちは皆、謎の男に視線を注ぎ、異様な熱気に包まれている。
大きな窓から陽光が差し込む、実に雰囲気のいい店だった。だが、おれはもう二度とここには来ないだろう。そう思いながらそっと店を出た。
それにしても、何が出たのか……。歩きながら考えてみるが、さっぱりわからない。やはり、あの連中が揃っておかしいだけだ。
ああ、もしかしたら、新興宗教の集まりだったのかもしれない。おれを勧誘するつもりだったのかも……。
いや、ないか。教義はなんだ? 『とうとう出たね』か? それで何をどう信じろというのか……。
「え?」
「ん?」
ふいに聞こえた声に、おれは思わず足を止めた。振り向くと、若い女がスマホを下ろし、不思議そうな顔でこちらをじっと見つめていた。
小首をかしげ、彼女は口を開いた。
「あの、何が出たんですか?」
「え、何がって……」
どうやら、考えごとをそのまま口に出していたらしい。苦笑すると、彼女は訝しげに眉を寄せた。
結構好みのタイプだ。できれば知り合いになりたい。何か話のきっかけを――。
「あの! ……とうとう出たね」