第36話 ♡
やがて、テーブルの上は大皿料理で所狭しと埋め尽くされ、まるで宴のようだ。
肉の香ばしい匂い、シチューの温かな湯気、香辛料パンの甘い香りが混ざり合い、熱気となって目の前に立ち込めている。
「この間、ずっと頑張ってたね。今日は思う存分食べて。」
ルーカスは片手を顎に当て、アスタリアを見つめながら言った。
「このお仕事、本当にありがとうございます。
では、遠慮なくいただきます。」
「今後もこういうお仕事があれば、ぜひ私を雇ってください。」と、アスタリアは素直に言った。
アスタリアは目の前の巨大な熊の骨付きリブに手を伸ばした。
(まだ今の仕事が終わってもいないのに。言い過ぎたかな。でも上司相手に何を話せばいいのか分からないし。
上司への営業は大事よね!)
ルーカスは、熊の骨付きリブを手にしながらそう言う彼女の姿とその言葉を見て、つい笑みを漏らした。
「君は、フラマリスの王都に落ち着くつもりなのかい?」
「あ……」
アスタリアは、まだ決まっていないことを思い出す。
「まだ住む場所は決まっていないんだろう? 僕の屋敷の隣に、ちょうど空き家があってね。……住み心地は悪くないと思うよ。もし興味があるなら、今度案内する。」
ルーカスは少し首を傾げ、アスタリアを見つめて続ける。 アスタリアは目の前のルーカスを見つめ返す。
その水色瞳は、天然の自信に満ちていて、なぜか少し——愛しむような表情をたたえている。
……なぜ王家騎士が、こんなに丁寧に接してくれるのだろう。過去に貴族たちが私に頭を下げてきたのは、教会の聖母として病を治せると知っていたからだ。でも、この人はそれを知らないはずで……
(もしかして、酔ってる?)
ルーカスはアスタリアの瞳に潜む戸惑いを、読み取った。
——君が不思議に思うのは分かっている。アスタリア。僕は、君のことをずっと前から知っているんだ。でも今はまだ、説明するときではない。まだ距離がある。
アスタリアは頭を少し下げ、目の前の野性味あふれる肉を見つめた。
——でかい。ワイルドだ。ジューシーそうで香ばしい!
そして、一口かじる。
「……! 美味しい!この肉、すごく美味しいですね。何のソースを使っているんですか?」
「ハーブと蜜果のシロップだね。熊肉のローストには、主に五種類の調理法がある。」
「五種類も?他の調理法も美味しいんですか?ちょっとメモしておきます。」
(この人、いろんなことを知っている。)
「それは日記か?」
アスタリアは手帳を開いて、ルーカスに見せるように差し出した。
「違いますよ。世界地図のメモです。面白い場所とか、美味しいものとか、異世界漫遊案内、という感じかな。」
(あっ、「異世界」って言っちゃった……お酒のせいで少し気が緩んでいたのか。)
アスタリアは一瞬固まる。
ルーカスは特に突っ込まず、ただ穏やかにノートを覗き込んだ。
(君が「異世界」と言ったことは、僕は聞かなかったことにしよう。)
「絵も上手だね。たくさん景色を見てきたの?」
アスタリアは、ほっと息を吐いた。良かった。見逃してくれた。……あるいは、見逃したふりをしてくれた?
「えへへ、適当に描いてるだけですよ。」
「五通りのレシピを記録しておくかい?」
「ええ。」
アスタリアの声が少し弾む。
「ハーブと蜜果のシロップ以外は、七彩塩と唐辛子のワイルドロースト。無花果とレモングラス、ミント添え……。
それから、滅多にない贅沢なレシピが二つ。ベリー酒と花瓣のスモークロースト。最後は、どんぐりとハーブ、トリュフチーズの石板焼きだ。」
「………………どんぐりとハーブ、トリュフチーズの石板焼き……。この交差点に、『森狼のプライド』の麦酒場、一番美味しいのは裏メニューの雄熊肉……」アスタリアは、小さく復唱しながらそれを書き留めていく。
ふと、ある不思議なことに気がついた。
「え?狼の店が、熊肉を?
狼と熊って、よく喧嘩するし、犬猿の仲じゃない?」
「はは、そうだな。宿敵の肉を出すとは。」
「驚いたなあ……」
アスタリアは思わず笑みをこぼした。なんだか、日本で友達と話しているみたいな感覚だった。この世界に来て、初めての感覚だった。
「フラマリスの王都近くのこの高台、こんなにきれいだったんだな。」
「そうなんですよ、今度ご案内しましょうか?ルーカス様の屋敷も見えるかもしれませんよ。」
アスタリアは酒場の柔らかな雰囲気に少しだけ酔いながら、うなずいた。
ルーカスが笑った。
「ぜひ頼む。」
「市販の地図って、書いてない場所が、まだたくさんありますね。
私は世界中の景色を見て回りたいんです。それで、自分でちゃんと記録して。
向かってる先の、『無境界の西荒野』とか、『無人の境』も、機会があれば、あそこも見に行きたいな。」
「そこへも、僕を連れて行ってくれないかな。」
ルーカスは迷いなく笑った。
「騎士様は、仕事はたくさんでしょう。」
「退職申請を出せば済む話だ。」
「退職したら、今の待遇がなくなります。それは困りますね。」
ルーカスはその言葉に、思わず口元をほころばせた。
(アスタリアって、こんなに面白いんだな。もっと早く、彼女に会いにいけばよかったな。)
「そういえば、ルーカス様、今回の国境行きはどんな任務なんですか?随行者の私には機密事項ですか?」
「国境の王家治安騎士連絡があって、エスダロスの国境付近を治める領主が、フラマリスに対して何か企んでいるかもしれない、と。僕が偵察に向かうんだ。」
「王家が一人だけ派遣したということは、大事ではないと判断しているということ?」
「現地の領主が騎士団と私兵を動かせる手はずになっている。いつでも協力が得られるはずだ。」
「なるほど。」
(想像していたよりは、重い任務かもしれない。それなりに時間もかかるだろうし。報酬が良いのも道理だ。)
(よし、まだまだ頑張る必要があるなあ。でもその前に……この雄熊のロースト、もう一口!)
* * *
夜、ルーカスは自室で一人、上着を脱ぎ捨てた。シャツのボタンを一つずつ外していく。
シャツの下に隠れていたのは鍛え上げられたしなやかかつ優雅な体躯だった。
ルーカスは微かに顎を引き、静かに考えを巡らせる。
……元々は、ただ彼女の面倒を見るつもりだった。
アスタリア、ヒロインだ。あの学園という檻の中で、既定路線から外れ、自国での地位も名誉もすべて捨ててここまでやってきた彼女。相当辛い思いをしているはずだ。
しかも、彼女は極めて貴重な治癒魔法を操る、生ける聖女。
仕事や住まいを整えてやる。当然のことだ。それで彼女の生活は安泰になる。……そのはずだった。
ところが、あんなに自然体で、地に足をつけて生きているとはな。漁港で働いていたなんて……
なんとなく、少し可愛いな。
今回の随行も、荷物すら持たせるつもりはなかった。ただ、彼女を守り、支えるための口実に過ぎなかったはず――
だが、彼女は真剣に、従者の仕事をこなしている。馬の世話をし、宿を手配する、時間を管理する……
そんなことは些細なことだ。今夜、確信したのは――彼女はこの世界の人間ではない。
ルーカスの指が、釦の上で止まったまま――
いや、問題なのは、僕だ。
自分が初めてまともに話した相手に、「退職して君と世界を回る」と言った。
僕は、冗談ではない。
僕のペースが、こうも乱されるとは。
このまま、向かう先――
ルーカスの心臓が、突然強く跳ねた。
ところで、やりすぎなくらい重い言葉を、彼女はあんなにも軽やかに、快活に受け流してみせた。
ルーカスは思わず口角を上げ、野獣のような気配を滲ませながら、残りの釦を外した。
――まだ、旅は始まったばかりだ。




