第35話 ♡
数日が過ぎ、夕暮れが森を茜色に染め始めた。二人は街道の交差点に建つ木造の宿に辿り着いた。
旅人や商人で賑わう、活気ある中継の宿だった。
アスタリアは馬小屋で丁寧に手入れを済ませた。
(ノートに何かを書き留めたりするくらいで、時間がたっぷりあった。)
その隣には、木造りの酒場が建っている。窓から暖かな灯りが漏れ、かすかに弦楽器の音色が聞こえる。
(覗いてみたくなる……)
黄みがかった木の外壁、屋根の上に看板――『森狼のプライド』と刻まれている。
扉を押し開けた瞬間、温かい空気と音楽に包み込まれる。
中は予想以上に広く、店内は温かみのある木材で統一されていた。
両脇には座席、正面には大きなカウンターと厨房へ続く通路、そして二階への階段がある。奥には酒を醸造するための大樽がいくつも並んでいた。客はまばらで、ざわめきもほとんどない。
壁には柔らかく温かみのある光が宿り、店内の雰囲気をさらに柔らかくしている。
オルゴール仕掛けの自動演奏器が奏でる撥弦の響きと、リズムを刻む木鼓の音が重なり、冒険の昂揚感と温もりが混じり合うような音楽が流れている。
カウンターに大柄な女将さんが立っていた。
「おや、お嬢ちゃん、何か食べていくかい?」――その声は低くて温かかった。
「あまり酔わないお酒か、飲み物はありますか?」
(本当は『アルコール度数低めで』って言いたいけど、この世界にそんな言葉ない……)
「あたしんとこ、全部そういう酒ばっかりだよ」
「例えば……?」
女将さんは黒板をずるりと引き寄せた。
そこにはぎっしり手書きのメニューが並んでいる。字の癖が少し強くて読みにくい。
値段以外の文字は解読に格闘しながら、アスタリアは指でなぞりつつ読んで――「えっと、ブランデンリンゴ酒に、香ばしいロースト肉、スパイスパン、森狼のプライド?自家製シチューで……」
(森狼のプライド――あ、これが店の名前か。面白い名前だな。)
「はいよ、ブランデンリンゴ酒、ハーブ焼きスペアリブ、スパイスパン、森狼のプライド自家製シチューね。全部大盛りになるけど、それで大丈夫?」
「はい、それでお願いします。へへ、私、結構食べられるんです。」
「ブランデンリンゴ酒は意外と回るよ。あまり酔いたくないなら、蜂蜜酒、南瓜酒、麦酒、森のどんぐり酒、ハーブ黒麦酒あたりがいい。」
耳元に落ちてきたのは、落ち着いた、声まで解けるような低音。
振り返れば、そこには精巧に整った凛々しい顔立ちの男——
わ、わたしの上司だ!
「ルーカス様、」
→「なんでここにいらっしゃるんですか?」
→「飲みにお越しになったんですか?」
(って、ここで酒飲む以外に何するんだよ。ここは空気を読んで選択!→)
「ハーブ黒麦酒と森のどんぐり酒、どっちの方が美味しいですか?」
(あっ)
ルーカスは面白そうに口角を上げ、穏やかな口調で言葉を――
「ハーブ黒麦酒の風味は香り高くてすっきりしているけど、森のどんぐり酒はコクがあって濃厚だね。どっちが好み? 僕はハーブ黒麦酒を頼んだよ。よければ飲み比べてみる?」
「じゃあ、森のどんぐり酒にします。」
「女将さん、ブランデンリンゴ酒はなしで、森のどんぐり酒と香草焼きスペアリブ、スパイスパン、森狼のプライド自家製シチューをお願いします。」
「あいよ! リンゴ酒はやめとくんだね?わかったよ。お二人一緒かい?」
女将の問いに、アスタリアは一瞬止まった。
(さっき、わざと彼とは違う酒にした。この流れで一緒ってことになるよな……
てか、ルーカス、先に来てたんだ。この店で飲んでたんだ……全然気づかなかった。そういえば、ここで寛ぐくらいしか娯楽ないし。
よし、ここは割り切って上司とサシ飲みだ!
でも「一緒です」の一言は……向こうから言ってもらうのが筋かな。)
アスタリアは振り返り、ルーカスに向き合う。その顔には、ほんの少しだけ固めの、歯を見せた笑顔が貼りついていた。
「一緒」という二文字は、上司に任せよう。
ルーカスは静かに――(さっきまであんなに楽しそうにしていたのに。僕と一緒だと気を遣うみたいだな。さて、ここは逃げ道を用意しておく。)
そのとき、店の奥から老婦人が大きな肉料理の皿を運んできた。女将が声を張る。
「はいよ、お待ちどうさま、イケメンの騎士の旦那! 特製『雄熊の骨付きリブ』だ!」
(ええ?『イケメンの騎士の旦那』に『お嬢ちゃん』?しかも、『雄熊の骨付きリブ』って何?メニューにそんなのなかったはず! )
アスタリアは思わずこっそりとその大皿を盗み見る——そこは分厚くて野性味のある骨付きリブが、湯気を立てている。
その一瞬の動きを、当然のようにルーカスに捕捉される。口元がかすかに綻ぶ。
「アスタリア、一緒に食べないか?森の中では熊が増えすぎていてね、狩人が時々オス熊を仕留めては酒場に卸しているんだ。裏メニューだが、味は保証するよ。それに、かぶらないように何か追加しよう。旅の経費はすべて王家持ちだ。遠慮はいらないよ。」
「そうですね。お言葉に甘えます。」
アスタリアは素直ぶってうなずく。
「女将、彼女も一緒だ。追加は、彼女と相談してからにするよ。」
「あいよ、分かったよ!」
(ルーカスは見た目はどう見ても18歳くらいなんだけど。……て、私も見た目15歳だ。酒が飲めるっていうのも、なんだか冒険だなあ。でも、15歳以下で働いてる子なんて、この世界じゃざらにいるし)
「ルーカス様、料理店や酒場の事情に詳しいんですね?」
「仕事でいろんな人と関わるから、そういう場所に立ち寄る機会も多い。」
ルーカスの心に、静かな想いが流れていた。(本来は少しつまみながら一杯だけのつもりだったのに。まさかアスタリアが来るとは。ずっと話しかけるタイミングを探していた。)
二人はそのまま、同じテーブルにつくことになった。




