第34話 ❄
馬車が荘園の前で止まると、使用人たちが出迎え、イロシーの帰還を屋敷の中へと伝えに走った。
アスタリアは一歩引いた距離を保ちつつ、イロシーの後について中へ入った。
邸宅に入ると、ホールに一人の騎士が佇んでいた。まるでホールの空気ごと支配するような存在感を放っていた。
身に纏うのは、白を基調に金と灰の刺繍が施された、この国の騎士の正装。その高潔な色合いに、アスタリアの視線は自然と引き寄せられた。
真ん中で分けられた黄金の髪、硝子玉のように澄んだ水色の瞳。
見たところ、年齢はまだ18歳ほどだ。
アスタリアは思わず息を呑む。
(えっ、こんなにかっこよくて若いの? カイスと肩を並べるくらいの、驚くほど端正な顔立ちだ。)
でも、ここは従者らしく、礼儀を尽くすべき場面だ。
「お初にお目にかかります、騎士様。アスタリアと申します。この度は騎士様の遠征に随行させていただきたく、参上いたしました。」
「僕はルーカス。フラマリス王家直属騎士を務めている。これから西部国境へ任務に向かう。」
ルーカスは騎士らしく、一分の隙もない礼節をもって――静かに話を続けた。
「執事が馬を二頭用意している。……少し休んでいくか? 君の準備が整い次第、出発しよう。」
「いいえ、今すぐ出発できます。ご指示のままに。」
「そうか。では執事に馬を引かせよう。僕は軽装だ。君が荷物を持つ必要はない。それと、僕のことは『ルーカス』でいい。」
「かしこまりました。ご期待に沿えるよう、最善を尽くします。」
やがて執事が二頭の馬を連れてきた。アスタリアには愛らしいブチ模様の馬が、ルーカスには気品あふれる純白の馬が与えられた。
馬の蹄が柔らかな草地を踏み締め、アスタリアはルーカスの後ろにつく。
その無駄のない、凛とした背中を眺めながら、そっと考えを巡らせた。
(国境への用事って何だろう?任務の内容、すごく気になる……けれど、随行者の立場で聞くのは、スマートじゃない。)
もともと乗馬も馬の世話も得意じゃなかった。けれど、いまや馬の扱いはむしろ私の「専門分野」になっていた。
「馬さん、背中、痒くない?」
もっとも、長時間の騎乗はさすがにまだ慣れないけれど。幸いなことに、人間より先に馬の方が音を上げる。一日の限界は六時間といったところか。
従者として、馬の体調管理、休憩地点の選定、到着予定日の計算、宿の手配、食事の準備など。
王家直属の騎士様が野宿なんて、ありえないでしょうしね。快適な旅をご提供しますよ。
情報源は、空を飛ぶ小鳥たちの口コミと、手元の地図のみ。
まずは目的地の確認を――と思った瞬間、前方から声がかけられた。
「目的地はフラマリスとエスダロスの国境、月影の町だ。十日以内に到着する予定だ。」
アスタリアが口を開く前に、ルーカスの方から必要な情報を提示してくれた。
「承知しました。無理のない、最善の計画を立てます。」
ルーカスの瞳に、ほんの一瞬、予想外の色が走った。
(質問の一つでも飛んでくるかと思っていた。この辺りの地理は、彼女には不慣れなはずだというのに。)
* * *
そうして数日。道はアスタリアが案内していた。
「ルーカス様。この先に牧草の豊かな場所と小川があります。そこで馬を二時間ほど休ませてから進むのが、最も適切かと思います。」
「分かった。その案内、君に任せよう。」
規則正しい蹄音が響く中、ルーカスの視線は、いつしかアスタリアに留まった。
(……地形の把握が正確すぎる。かつてヘスティアの仕事でこの辺りを通った経験があるのか。それとも……
それにしても、『ルーカスでいい』と言ったはずだが。それでも、変わらず『ルーカス様』と呼び続ける。
その横顔は完璧な職務モードだ。騎士と従者の間には一歩たりとも踏み込ませない——彼女は僕との間に、はっきりとした境界を引いている。
……それが、むしろ気にかかる。)
ルーカスは口角を上げた。アスタリアのポニーテールから目を離して前方の道を見据えた。
昼下がりになり、目的の緑豊かな草地へ着いた。馬たちを解き、木々の間でひと休みする。
アスタリアは、一瞬で心がほぐれた。
(わぁ……まるで童話の森のようだ。)
天蓋のごとく枝葉を広げる巨木が、その太い幹で静かに空を支え、陽光を遮っている。不揃いながらも青々と茂る草叢が広がり、せせらぎのほとりには星屑のような野花が咲き乱れる。
原始の息吹と、どこか守られているような安心感。その神秘的な静寂が、空気の中にほどけるように広がっていく。
馬たちも、どこか上機嫌で草を食んでいるようだ。
アスタリアは、意識的にルーカスから少し離れた場所に立っていた。自分の個人空間を持ちたかったからだ。
ふと、とりわけ美しい二羽の小鳥が舞い降り、草を食む馬の背にちょこんと止まった。
エメラルドの羽を広げ、澄んだ声でさえずる。
アスタリアは思わず歩み寄りたくなった。
さらさらと流れる水の音を聞きながら、アスタリアはぼんやりと思う。
そういえば、イタルーチェを離れてからこっち、一人の時は任務と目標をこなすだけで精一杯だった。……せっかく自由になったのに、世界の美しさを味わう余裕さえ忘れていたなんてね。
これからは、一人でもこうやって景色を楽しみ、この世界の細かなところまで、ちゃんと記録していこう。たとえば、カイスを連れて行った、海が見えるあの花畑の正確な位置とか。
アスタリアは視線を上げ、頭上に透き通る緑の葉が広がる隙間を見つめた。そして差し込む陽光を感じながら、深く息を吸い込んだ。
……静かで、穏やか。いい匂い……
手帳を開くと、馬の背を机代わりに手をついた。
短く整えられた鬣に指を滑らせ、その感触に包まれながら、ゆったりとした気分で書き始めた。
ルーカスは、少し離れた場所からそんなアスタリアを見ていた。
何を手帳に書いているのか気にはなったが、彼女の周りに見えない結界のような「個人の世界」があるのを察し、あえて立ち入ろうとはしなかった
「確かに、美しい場所だ……」ルーカスは周囲を見渡す。
ルーカスは彼女があの調子で自分の世界に夢中になり、時間を忘れてしまうのではないか。そんな気がかりが脳裏をよぎったが——
アスタリアはほぼ予定通りに手帳を閉じ、こちらへ歩み寄ってきた。
あたかも、次の目的地までの所要時間を正確に計算し終えたかのように。
「ルーカス様、馬の休息も十分取れましたし、出発の準備が整いました。参りましょう。」
ルーカスはわずかに目を見張った。(……少しは、頼られたかったんだがな。)
その直後、心地よく響く声で応じた。
「分かった。案内を頼む、アスタリア。」
白馬に跨り、目の端で先を行くアスタリアを見つめながら、微かに口角を緩める。
(……正直に言おう。さっきの光景は、手に触れることすらためらわれるほど、完璧な一枚の絵画のようだったな。)
そのとき、アスタリアの頭の中は——(さっき、ちょっと私の名前を呼んだ?……ま、いっか、今はテキパキと仕事をこなすのが先決。次の目的地へ行こうっと。)




