第33話 ❄
「じゃあね、また漁港に遊びにおいでよ」
「じゃあね、エドガーさん。おばさんたちも、またね。」
こっそりとおばさんの名前「エドガー」を聞き取っていたアスタリアは、彼女や馬車に同乗していた他のおばさんたちに手を振って別れた。
再び、一人きりになった。その場に立ち尽くし、ぼんやりと考える。
あの大陸に行ったところで、日本に帰る手がかりが見つかる望みは薄いと言われたけれど。
でも、どうせ行くあてなんてないのだから――
まずはごはんを食べよう。それから、レイヴンによると、もう一つの大陸へ行くには最北の氷雪地帯を通る必要がある。あの辺りを探検してみよう。たとえあの大陸に渡れなくても、その先の北の国の港町かどこかで、何か情報が見つかるかもしれないし。
街を歩いていると、一軒の店から食欲をそそるスープの匂いが漂ってきた。アスタリアはふと足を止めた。
(……ここにしよう!)
旅立ち前の腹ごしらえだ。
* * *
「ふぅ~、美味しかった。……結構いけるな。」
アスタリアは満足げに伸びをしながら店を出た。
(どの道から行こうかな……あの氷雪地帯の辺りまで。)
その時、ビリッとした感覚が走る。鋭い気配――触れるか触れないかの距離に。
アスタリアは反射的に周囲を探り、目が合ったのは、緑がかったウェーブのセミロングの女性だった。
品のある服装に、きりっとしたパンツスタイル。きちんとした職に就いている有能そうな人物だ。
けれど同時に、どこか戦士の匂いも漂わせている――確かに、腰には短剣を差している。
「失礼、アスタリアさんですよね? 私はイロシーといいます。仕事紹介所を通じて、あなたのことをお聞きしました。
実は、報酬を含めて破格の条件のお仕事があるんですが。王立騎士の従者として、一ヶ月ほどの旅に同行していただけないでしょうか。」
(旅?)アスタリアの興味が小さな火花のようにピッと灯った。
「どこへ行くのですか?」
「フラマリスとエスダロスの国境付近です。」
(私が行きたい北とは真逆の、この国の最西端か。)
目の前の女性と、その腰にある剣を見つめながら、アスタリアの脳内で二人の小さなアスタリアが会議を始めた。
一人が金色の光に輝く剣を斜めに振り上げる――「向こうから私を探してきた?しかも、わざわざ私を指名で? 仕事紹介所経由で貴族の依頼? 怪しすぎる。
王立騎士が従者を探すなら、候補者は山ほどいるはずだ。それに相手は武器持ち、戦闘慣れしてるみたいだし。」
もう一人も同じように剣を構え――カキンッ!と、綺麗に刃を交差させる。「エスダロス国には行ったことないし、観光気分で行ってみるのもアリじゃない? 報酬は破格なんでしょ? 任務を達成すれば推薦状ももらえるかも。
そうすれば今後、貴族の依頼も受けやすくなる。この国を出るつもりだけど、どうせまた戻ってくるかもしれないし。
チャンスが来たなら、掴んでおくべきよ!」
一方、目の前に立つ女性イロシーは、アスタリアを見つめながら内心で苦笑していた。
(ルーカス様、どうしても彼女を仕事で連れてくるとお決めになって……。
この前、商会の人間として貴族の仕事紹介所へ推薦に行った時は、もう街の侯爵家のお嬢様の服飾店に雇われた後だった。
その店に行ってみたところ、「今は漁港で働いてる」と教えられた。
それを報告したら、出張から戻ったばかりのルーカス様が「漁港の仕事はあまりに酷だ。ぜひ邸宅へ来てもらおう」と仰るから……。
また服飾店へ戻ってみれば、今度は「出張中で数日は帰らない」と言われてしまった。
そして今日、服飾店も仕事紹介所も回ったけれど、結局どちらも空振り。
彼女は本当に、動きが早すぎる。
「重要な件だ、君に任せる 」——そう託された以上。
いくら何でも、ご飯くらい食べるはず——ようやく捕まえることができた!
でも、彼女、この仕事にかなり慎重になっているみたい。無理もないよね。貴族区と平民区の仕事紹介屋にも、顔を出していないのに、こうして探し当ててしまったんだから。
それに、私の武器を気にしているみたい……。悪い人だと警戒させてしまったかしら。)
「もし悪い人だったら——」最終的に、アスタリアの脳内の二人は顔を見合わせてニヤリと笑い、剣を揃えて前方へと向けた。「叩きのめせばいいだけ。ちょうどお腹も満たされて運動したい気分だし。むしろ悪い人の方が好都合かもね、北へ行くのを邪魔されずに済むし!」
アスタリアはイロシーににっこりと微笑んだ。
「そのお仕事、ぜひ私に任せてください。」
「馬車を近くに待たせています。では、こちらへ。」
イロシーはこっそり安堵の息をついた。歩きながら、目を細めて微笑みながら説明する。
「騎士様は貴族ですので、郊外の邸宅にいらっしゃいます。これからそこへ向かいますね。」
馬車に揺られて到着したのは、白を基調とした美しい邸宅だった。庭はまるで大きな公園のように広々としている。
(仕事の話は本当だったみたいね。なら、エスダロス国をついでに見て回るのも悪くない。)
馬車の窓の外を眺め、この仕事が本物だと確信したアスタリアは、イロシーに向き直って尋ねた。
「この従者の仕事、試験などはあるのでしょうか?」
「必要ありません。あなたで決まりですから。いつ出発できますか? 騎士様はすでに邸宅で準備を整えておられます。」
「騎士様」という響きに、アスタリアはかつて出会った女騎士の姿を思い浮かべ、期待を膨らませた。
(前に山賊退治の時に見たような、かっこいい騎士さんかな?この自然の良さを活かした庭を見るに、主人の性格が出てる?いや、王立騎士は邸宅の持ち主とは限らないか。でも、王立騎士って響きだけでかっこよさそう。)
「私はいつでも出発できます。」
どうせ住む場所もないし、早めに出発するに越したことはない。
「では、中へどうぞ。」
イロシーはどこか楽しげに、ふふっと笑みをこぼした。
(イロシーはよく笑う人だ。なんだか愛嬌があるな。)
二人が馬車を降りると、控えていた使用人たちが出迎え、そのうちの一人がイロシーの戻りを屋敷の中へ知らせに走った。
アスタリアは一歩引いた距離を保ちつつ、イロシーの後について中へ入った。
(従者って、具体的に何をするんだろう……?)アスタリアの胸の奥で、小さな何かがぴょこぴょこと跳ね始めた。




