第32話 ☃
二人はこうして別れた。
アスタリアは眼下の森を見渡す。心がどこか落ち着かず、揺れている。
――けれど、まだ帰る道はあるはずだ。これが絶望だと決まったわけじゃない。
今、最優先すべきはヘスティアに任された護送任務だ。
この悩み、入り混じる色々な思いを、一旦脇に置き、前へ進まなければ。
午後、アスタリアは貴族の城へと到着した。
「すみません、勝手に二日半も離れてしまって。」
「気にしないでください。当主様たちも服選びに二日もかけたんですから、タイミングとしてはちょうどよかったんです。もともとヘスティア様の計画でも、アスタリアさんが護送、私が服選びを手伝うことになっていましたし。」
「ええ。」
アスタリアは小さな微笑みを浮かべた。
(エルザさんは本当にいい人ね。)
「こっそり教えますけど、ヘスティア様は大袈裟に言いすぎたんですよ。」
エルザは続けて言った。
「実はここに来るとき、馬車にはそんなにたくさんの高価な宝石は積んでいなかったんです。
ほんの飾り程度のアクセサリーなんです。」
「えっ?」
「ここに来たとき、アスタリアさん、すごく真剣な顔をされていましたから。」
「ええ、今はもう落ち着きました。ありがとうございます、エルザさん。」
(真剣な顔してたのは、あの森の大火事を気にしていたせいだ。)
今は少し、肩の力が抜けてきた。
魔王への訪問も、思いがけずうまくいったし。
この先の人生、どこへ向かうのだろう?
アスタリアが魔法を使って馬の負担を軽くしたおかげで、馬車は予定より一日早く皇都に到着した――
馬を厩舎に繋ぐと、馬は得意げに鼻息を鳴らし、どこか嬉しげに頭を振ってアスタリアに擦り寄ってきた――プフッ、プフッ。
アスタリアは馬車の方へ向き直り、提灯のようなものを取り出した――一本の棒の先に、ニンジンの束がぶら下がっている。
「はいはい、朝のうちに宿場町でちゃんと買っておいたよ。たっぷり10本!ほら、三日くらいに分けて食べてね、馬さん。」
* * *
しかし、この数日間、穏やかに過ごせていない者が一人いた――魔王城では、魔王エリクが毎晩のように眠れぬ夜を過ごしていた。
小さな身体で巨大なベッドに大の字になっていたが、静寂が支配する寝室で、カッと再び目を見開いて――
「もう眠れない!」
目を閉じると、光の鎌を構えるアスタリアの姿が浮かんでくる。
宙で手を広げ、自分を目掛けて飛んでくる姿。自分の名を呼ぶ声。
空中で、挑戦的な眼差しで、自分だけを見つめる。
自分を抱きしめ、『私が助けてあげるよ。』と言い放ったあの姿。
――その全てが、魔王エリクにとってはあまりに衝撃が強すぎた。
* * *
アスタリアはヘスティアの店を後にした。今のところ、新しい仕事はない。
荷物を背負ったアスタリアは大通りに立ち、自分がどこへ行くべきか考えていた。
周囲を行き交う人々は色がはっきり、輪郭はぼんやり。
車輪の音が石畳を叩き、石壁が視界を狭める。
喧騒はすべて混沌とした背景音のように響く。
行くところはない……家はない……
(仕事紹介所に行く気にはなれない。近くの公園の大きな木の下で、ぼんやりしようか。)
「ここに住んでもいいぞ」
アスタリアが芝生に座り、木の幹にもたれていると、ふと脳裏にエリクのこの言葉がよみがえった。
(エリク、ありがとうね……)
エリクの城だけでなく、ここ皇都で家を買って住むこともできる。
友達がいなくても、普通の生活を送ることはできる……
でも、それは私が望む人生ではない。
それに、こんなふうに両親や妹に何も告げずにいなくなったら、きっと心配でたまらないだろう……
(お父さん、お母さん、妹のアキラ……あんたたちの『ヒカル』は、子供の頃からずっと最強なんだから、死んだりしないよ。異世界でしぶとく生きてる。だから、私のために悲しまないで。どうか、幸せに過ごして)
……けれど。もう、帰るのは難しいのかもしれない。
アスタリアはたまらず、膝に乗せた両腕の間に顔を埋めた。
………………
………………
………………
魔界も、エルフ王のもとへも訪ねたというのに……日本に戻る手がかりになる情報は何も得られなかった……
………………
(そういえば、私、仕事が早かったな〜)
「あれ、この手帳は……?」
手に小さな手帳とペンを持っていることに気づいた。開いた手帳には――
「『お願い』……?」
アスタリアは心臓が跳ねるのを感じた。
(大通りの市場を歩いていたときに、何気なく店に寄って買ったんだろう。その時の自分は少しぼんやりしていた。この字も確かに自分の筆跡だ……でも、ほとんど覚えていない?)
背筋が一瞬凍りつくような寒さを感じた。
(一体、どういうこと……)
その時、向こうから見覚えのある人が歩いてきた――
髪を結い上げ、褐色を帯びた肌が艶めいている。
肩にずっしりと重そうな麻袋を担ぎ、もう一袋は腕で押さえながら、安定した足取りで近づいてくる。
漁港でいつも「スミイカをあげるよ」と言ってくれるおばさんだ。
漁港は人が多くて、名前を思い出せない……
アスタリアは大きく息を吐いた。表情を切り替え、笑顔で立ち上がり迎える。
「おばさん、荷物、持ちますよ。」
「アスタリア、最近はどうだい? 漁港の手伝いに来ないもんだから。漁港に来る若い子、覇気がなくてね。あんな子を見るたび、よくあんたを思い出してたよ。」
「元気ですよ、ははは。」
アスタリアが米の袋を受け取ろうと手を差し出す。おばさんは渡す素振りもなく、しっかりした足取りのまま言った。
「若いうちは遊んでな。こんなもん、あたしにはなんてことないよ」
「あ、えっと、その袋、持ってもいいですか……?」
「じゃあ、その袋だけ持っておくれ」
「ええ、ありがとう。」
あれ? 私がお礼を言ってる……
「またその大きな荷物を背負って……あたしの家の隣に、空いてる離れがあるんだよ。そこに住みな。漁港の力仕事は手伝わなくていいから。若い子は、貴族の屋敷か街の店で働くのが似合いだよ」
おばさんは、アスタリアに住む場所がないことを察したのか、自分のペースで言葉を畳み掛ける。
「さっきは道が混んでたから、馬車は近くに停めて、買い出しに来たんだ」
「どうだい、あたしたちの馬車で家まで来るかい?お嬢さんにはぴったりだよ。他の人なら住ませないけどね」
「ありがとうございます〜まだ決めかねているので、決まったらまたお伺いしてもよろしいですか?」
「今は一緒に行かないってことだね。いいよ、分かったよ」
「ええ。……ありがとう、おばさん。」
(おばさんの名前、まだ思い出せないけど……本当にありがとう……)
アスタリアは袋を腰に引き寄せたまま、おばさんと一緒に公園を横切った。
(この手触りと匂いから、袋の中身は、香辛料と小麦粉、それに何か雑貨みたいだな。
馬車に着いたら、誰かがおばさんの名前を呼ぶのが聞けるかもしれない……)




