川の底
木犀楓は天涯孤独であったため、楓がアパートに入居するために連帯保証人となっていた藤宮しょうこが相続人となり遺品整理を行うことになった。
しょうこが久しぶりに入った楓の部屋は整理されており、孤児院にいた影響からか物が少ない部屋は、家主がいた頃とは変わって物悲しく感じ鼻の奥がツンとした。
朝から始めた作業はしょうことも親交のある大家が手伝ってくれたため、15時には終了した。
「ゴミは明日の朝私が出しておくわ。鍵は帰る時に返してくれたらいいから。」
「ありがとうございます。」
「しょうこちゃん、あまり考えすぎないようにね。」
大家は暗い色を纏ったしょうこを一人残し、部屋を後にした。
換気のために開けた窓から鮮やかな桜が見え春風がしょうこの顔を撫でる。楓の私物が見当たらない部屋は知らない顔をしていて、しょうこに楓の存在していた事実が過去であり、故人であると望んでもいないのに教えてくる。
世間では楓は自殺であると判断された。遺書もなく、カレンダーにはしょうことの予定が書かれていたのに。納得できなかったしょうこは自殺であると報道されたその日に警察に訴えたが、その件は終わった事であると取り合って貰えなかった。
まだ肌寒い3月の川は冷たかったのだろうか、苦しかったのだろうかと川に揺蕩う楓を夢想する。部屋の外では桜が太陽を浴びて華々しく咲き誇り、桜の下を歩む人は春の陽気浴びて楽しげに日常を送る。家主を失った薄暗く冷たい部屋でしょうこは、川に沈んだ友人を見た気がした。
河川敷では、人が亡くなった事実が消失したかのように人々がそれぞれの目的のために歩みを進める。
その中でヨレたシャツにダウンジャケットを身につけた挙動不審な男、久住正雄が何かを探すように濁った目を動かしながら歩いている。
久住は対岸を繋ぐ橋を渡り、何処か安堵した顔でまた橋を渡り来た道を戻る。久住は「エサやり禁止」と書かれた看板を憎々しげに見つめ、家への近道である公園に入っていった。
「それが原因で楓が自殺したんじゃないかってことですか」
「あくまで噂よ。あ、」
公園では、見た事がない若い女と、近所でよく姦しく井戸端会議をしている中年の女性3名が何か話をしており、久住に気づいた1人の中年女性が声を上げたことで全員が久住に視線を投げた。
「何時でも来ていいからね、しょうこちゃん元気でね。」
「大家さんもお元気で、今日は遺品整理を手伝って頂きありがとうございました。」
しょうこは大家に部屋の鍵を返却し、楓の部屋だった場所を一瞥しアパートを後にした。
自身の脳が見せた友人は、青白い顔をしてこちらを心配そうに見ていた。脳の錯覚に過ぎない妙にリアリティあるそれを思い返ししょうこは苦笑する。
「大丈夫、私は後追いなんてしないから。」
例え一瞬見えた幻覚だろうと楓にまた会えた事が嬉しくて、楓が失踪してから上がる事のなかったしょうこの口角が自然と上がった。
「木犀ちゃんのニュース見た?」
「見たわよ。自殺だってね。もしかして、あれが原因じゃないわよね?」
「しっ、滅多なこと言うんじゃないわよ。きっと別の理由よ。遺書もなかったんでしょう?理由なんてもう知りようがないじゃない。」
「そうよね、そういえば家に警察官が来たわ。私、初めて警察手帳なんて見たわ。」
楓のアパートに隣接する公園をしょうこが通りがかった時、楓と同じアパートに住む中年の女性3人が楓の事件について話す声が聞こえ、その内容にしょうこの眉間に皺がよる。
(自殺の原因?どういうこと?)
しょうこは楓の自殺理由について全く心当たりがなく、それ故に楓が自殺したと判断されたことに納得できず焦燥感が積もっていた。
「すみません。楓の自殺原因について何か知っているんですか?もしそうなら教えてください。」
これを逃したら楓の死の真相が分からなくなる。ずっと痼のように存在する苛立ちが消えることが無くなると、しょうこは焦りから少し上擦った声で早口に女性3人に話しかける。
いきなり話に入り込んできたしょうこに初めは怪訝な顔をして3人で顔を見合わせたが、何度か楓のアパートで挨拶をしたことがあり、木犀と交流のあった子であるとわかると、迷った末に少し恰幅のいい女性が重い口を開けた。
「噂なんだけどね。この公園は、いままでは鳩の餌やりが禁止になっていなかったの。それで、朝に餌やりをしている人がいたのよ。そのせいで、朝から鳩の鳴き声で起こされるってご近所で問題になったの。そこで木犀ちゃんが区役所にかけあって公園での餌やりを禁止にしてくれたのよ。そのおかげで騒音問題は解決したんだけど、その鳩に餌を与えていた人が木犀ちゃんを恨んで嫌がらせしてたって話を聞いたの。」
「それが原因で楓が自殺したんじゃないかってことですか。」
「あくまで噂よ。あ、」
それまで声を潜め何故か楽しそうに話していた一人の中年女性が声をあげ、視線を公園の入口に向けた。しょうこも吸い寄せられるように視線を向けると。そこには見るからに不健康そうな中年男性が立っていた。
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