引退セレモニー
二〇二四年十月十七日。プロ野球・東北楽天ゴールデンイーグルスに所属する松井辰岐の引退式が行われた。三十歳の誕生日を迎える前日で、まだ現役を続けられるであろう中での引退を惜しむ声もあった。
「今日、ここにお集まりの皆さん。私などの引退式にお集まりいただき、誠にありがとうございます」
特設ステージに上がった松井辰岐は、現役生活最後の言葉を絞り出すように語る。
「少し昔話をさせてください。私は高校時代まで、野球に興味こそあれ、自らプレーした経験はありませんでした。野球を始めたのは大学からです」
ふぅ、と息を吐いた。
「あのとき勧誘していただいた先輩方には今でも感謝しています。私の誇りであるチームメイトに巡り合い、厳しい練習を積み、二〇一六年のドラフト会議でヤクルトから七巡目に指名していただきました。そこから四年、移籍して楽天で一年、プロ野球選手として戦い、二〇二二年からは楽天の球団職員として働かせていただきました」
集まった観客の一人、松井辰岐の直属の上司は、ステージの上の男が緊張しているように見えた。
「私は今日でちょうど、生まれてから三十年となります。プロ入り当初に比べて、最近は体力や気力の衰えを自覚することが増えています。ここをひとつの節目として、勝手ながら引退させていただきたいと決意しました。皆さんの記憶の中では、どうかいつまでも元気な松井辰岐でいさせてください。私は日本一の幸せ者です。三十年間、本当にありがとうございました」
えんじ色の帽子をとって深々と一礼し、松井辰岐はステージを降りた。仙台市内の雑居ビルの屋上から飛び降りたのだ。招かれていた松井辰岐の両親、大学時代の友人、ヤクルトと楽天の関係者は、黙って拍手を送った。このスーパームーンの夜、一人の男が自分の意思で己の人生に幕を下ろした。




