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それは、彼女の歌が起こした、ちょっとした奇跡というやつ

 * * *


 足下に漂う人工の霧の中、作り物の剣を自分の胸へ突き立てようと構えている若者のほうへ、タリサはそろそろと近づいていく。


 一応、開演前の簡単なリハーサルでマダム・エスペランサが指導をつけてくれたおかげで、だいたいの流れと台詞は頭に入っているけれど、それでも緊張する。


 この場面での『愛の精』の動きは、心配そうな顔でベイオニールにゆっくり近づく、と台本にあったけど、このくらいの速度でいいのかな?

 たぶん心配げな顔はできているはず。

 心配なのはベイオニールじゃなくて自分だけど。


 絶望している若者から三歩くらい距離を空けたところで止まり、タリサはいよいよ口を開いた。


「ベイオニール」


 最初の台詞を声に出すと、天井から差し込んだ照明がタリサに当てられる。

 柔らかな白い光に照らし出されたタリサを見て、客席が少しざわついた。


「あれ?いつものお嬢様じゃないね」


「あんなご令嬢、いたかな?」


「かわいい」


「代役の人?」


「新人女優かも」


「めっちゃかわいい」


 ロビーに貼り出されている今日の出演者早見表には、マルグリットの名前だけ隠して“愛の精/クローベル家ご令嬢”と書かれているそうだから、今まで見たことのない少女が出てきて混乱しているのだろう。


 ヒソヒソと交わされる囁きを聞くともなしに聞きながら、タリサは客席に目を走らせる。


 特別な記念公演とあって、メインホールは満員だ。


 一階席と二階席を埋め尽くす一般客、壁に取り付けられたボックス席には、クローベル家から招待を受けた貴族達、通路や壁際に立っているのは、劇場の関係者だろうか。

 客席から送られるすべての視線が今、タリサに向けられている……


 これが本物の舞台。想像してたのと全然違う。緊張しすぎて、立ったまま気絶しそう……!!


「誰だ、僕の名を呼ぶのは」


 怪訝そうに眉間に皺を寄せ、ベイオニール役の俳優が睨みつけてくる。

 若く見えるがベテランだそうで、さすがに上手い。

 到底、こんな風にはできないと承知の上で、タリサは次の台詞を口にする。


「わ…私のことなら、知っているはずよ。ずっとあなたの傍にいたから」


 つっかえながらの棒読みになってしまい、クスクスと笑う声が耳に入ってくる。

 こ…これはけっこう恥ずかしい。しかし、一度始まった芝居は止まらない。


「知っているだって?まさか、君の顔など見たことはない……

 ああ、その羽、そうか。またぞろ妖精の王が送ってきた、恐ろしい魔物だろう。

 その透き通るような声で僕を惑わし、美しい姿で骨抜きにしようという魂胆だな」


「違う、違うわ。王は私の名前も知らない。

 私がここにいるのも気づいてはいない。

 ……思い出してちょうだい、私と過ごした日々を。

 あなたが優しさに包まれ、喜びを得る時、いつも私はそこにいた」


「ああ、もう沢山だ。そんなのは嘘ばかり。

 お前など、僕は知らない。見たこともないと言ってるだろう。


 行ってしまえ、悪魔め!!

 ちょうど、彼女がいない人生なんて無意味だと気がついたところだ。

 僕の魂が欲しいならくれてやる。これからここに横たわる僕の屍から、拾っていくがいい」


 相手の演技が達者なばっかりに、よけいタリサのつたなさが浮き彫りになり、客席のヒソヒソ話もまるで止む様子はない。


「大丈夫かな、あの子」


「やっぱり役者じゃないみたいだね」


「じゃあ貴族?領主様の親戚?」


「本物のご令嬢の、従姉妹のそのまた従姉妹くらいじゃないの」


「まあ、でも、カワイイよな~~」


 まさかタリサがクローベル公の直系の孫とは知らず言いたい放題だが、我ながら酷い芝居だから仕方ない。

 歌のパートは差し迫っているが、果たして……


 えーい、もう。ここまで来たら、やるだけよ。やるしかないのよ。


「あなたは屍になんかならないわ、ベイオニール」


 ひとまず、喋るだけのパートはここで一区切りついて、次は歌い出し。


 タリサはゆっくりと息を吸い、肺に空気を送る。

 あとはこれを音程に乗せて、声として吐き出すだけ。


 大丈夫、落ち着いて。できるわ、いつも庭でやってるみたいに。


 さっきカノンが言っていたことを思い出して自分を奮い立たせ、タリサは最初のフレーズを口にした。


「思い出して、夏の夕暮れに丘の上で見た虹を」


 客席に広まっていたざわめきが、ぴたりと止まった。


 タリサを笑っていた者、心配げに見守っていた人も、みんなお喋りをやめ口を閉じて、舞台へ集中する。


「二人で分け合った小さな青リンゴ、サンダルの片方を咥えていった仔犬、木漏れ日の向こうに聞こえる鳥の歌」


「あぁ…それは、彼女と過ごした、あの日のことだ」


 情感たっぷりに言ったベイオニールの演技は相変わらず見事だが、今は誰も彼のことを見てはいない……


 観客の目線も聴覚も、すべてタリサ……いや、歌う『愛の精』へと向けられている。


「雨上がりの午後、僕とパルミネッラは、見晴らしのいい丘へ登りリンゴを食べて、仔犬と遊んだ。

 素晴らしい日だった、あの虹を見て微笑んだ、彼女の美しさといったら……!!


 でも、どうして君が知っているんだ?あの時、確かに僕らは二人きりだったのに。

 まさかずっと僕の傍にいてくれたというのは、本当なのか?」


「そう、私はずっとあなたの心に居る。

 思い出して、輝かしい日々を。その幸福を諦めず追い求めるの。


 ……さぁ、開いて。瞼ではなく、その心を

 いま私は、光りになる この霧を散らし、あなたを導く光りに


 終わりのない旅、永久とわに開くことのない扉……そんなものはないわ、あなたが私を取り戻しさえすれば


 さぁ、立ち上がって…もう見えるはず、行くべき道が……あなたを待つ、あの人のところへ!」


 歌の盛り上がりに合わせて、足下の霧は晴れ若者は立ち上がり、暗かった森に光が射し込んでくる。


 もちろん全部、舞台装置による効果なのだが、今そんなことは関係ない。

 すべてはタリサ、いや『愛の精』の歌による奇跡と、観客の目には映っている。舞台に魅せられるとは、そういうことなのだ。


 やがて背景の書き割りが左右に割れ、鬱蒼とした森の向こうに淡黄色の尖った細い塔が現れた。

 それを見た主人公は、ナイフを取り落とし歓喜の声を上げる。


「ああ、あれは象牙の塔!!妖精の王が使うという高貴な檻、この世で最も美しい牢獄……


 僕は何を迷っていたんだ、彼女を傷つける者は誰も許さないと、他ならぬ僕自身に誓ったというのに。


 さぁ、こんな所でクヨクヨしている暇は無い。

 たとえ相手が彼女の父親であろうと、構うものか。

 戦って、愛する人を取り戻すんだ。


 ありがとう、名も知らぬ美しい人よ。

 君のおかげで僕の目は覚めた。失っていた心が返ってきたんだ……!!」


 ベイオニールが振り向いた時、少女の姿はもう無かった。

 象牙の塔へ見惚れているうちに、上手のほうへ去っていったのだ。


 若者はしばし、辺りをキョロキョロと見回していたが、見つからないと知ると、ひとまず落ちていた短剣を拾う。


「聞いたことがある。妖精の王にはこの世に二人だけ、支配できない精霊がいるとか。


 一人は気まぐれな『死の精』、そしてもう一人は真実の『愛の精』……


 姿は見えなくなったが、君は今もそばにいてくれるんだろう。

 どんな強い兵隊よりも心強いよ……


 さあ、行かなくては。一刻も早くパルミネッラを救い出すんだ。

 愛も自由も、僕はきっと勝ち取ってみせる!!」


 短剣を腰に着けた鞘に戻し、ベイオニールは走り出す。

 その姿が下手の舞台袖に消えると、反対の上手側から再び『愛の精』が姿を現した。


「振り返らずに行きなさい、ベイオニール。

 きっと長く、困難な道だけれど、どうか私がいつも傍にいることを忘れないで」


 ひどい演技なのは変わらないが、もう誰も笑ったりしない。

『愛の精』に扮したタリサは水を打ったような静けさの中、ステージの中央に立つ。


 青空の下で煌めく象牙の塔を背後に、両手を天に向かって広げると、大きく口を開いて今日一番の音量ボリュームで咽喉の奥から歌声を響かせた。


「終わりのない旅、永久とわに開くことのない扉……そんなものはないわ、あなたが私を取り戻しさえすれば……


 だから忘れないで、思い出して、いつだって私は、あなたの傍にいるから!!」


 最後に長く伸ばした声はたっぷり間をとってから止み、伴奏も切りのいいところで終わった。

『愛の精』の出番はこれで終わり、タリサはもらった役を演じ、歌いあげた。


 ……ほんの一瞬、世界中の時間が止まったような静寂のあと、劇場が揺れた。

 地響きかと思われるくらいの、大きな拍手が巻き起こったのだ。


 一階席、二階席の一般客はもちろん、ボックス席のお偉方すら、みんな立ち上がって力の限り両手を打ち鳴らし、「素晴らしい(ブラーヴァ)!!」と喝采を送ってくれる。


 舞台の上でそれを受けながらタリサは、今日この日のことは一生忘れないだろう、と深く感動しているというのに、不思議と心は凪いでいる。


 特等席である1番ボックス席で観ている祖父が立ち上がり拍手しているのと、ちらりと見やった下手の舞台袖でカノンがはらはらと涙を流しているのを目にしたら、ようやくちょっとだけ泣けてきた。


 今は我慢、と目に力を入れ、涙が零れないよう堪えながらゆっくり礼をすると、それに合わせて照明が絞られる。


 場面転換のためホール内が真っ暗になってもまだ拍手は鳴り止まず。

 やがて明るくなり次の展開が始まっても、しばらくは収まることはなかった。


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