待て待て待て、結婚とかまだ早いから②
クローベル公の部屋を後にし、廊下に出たカノンは、ひとまずタリサを待たせている中庭に向かって歩きながら無力感に打ちひしがれ……るワケもなく。
まだ冷めやらぬ怒りをどこにもぶつけられず持て余し、震えそうになる体を抑えながらのしのしと歩く。
「くそ…妨害してやる…お見合いも結婚もブッ潰す…何としても舞台へ引きずり上げてやる……」
聞いたら死ぬ呪いの文言でも吐いているかのように、ブツブツと呟くカノンにちょっと引きつつも、隣で歩いているマルセルも頷いて同調する。
「俺も手伝うよ。お祖父様の言うことも尤もだけど、タリサには自分の可能性を信じて、挑戦してほしいんだ」
「あら、いいこと言うわね」
青臭いセリフではあるが、それゆえその純粋さが胸に響く。
微笑んだカノンにマルセルも笑みを返し、彼女の役に立ちたい、と年頃の男子らしい甘酸っぱい正義感に燃える一方、カノンは嫡男が味方についたからには今後、裏工作もしやすくなるな、と危ないことを考えている。
卑怯で上等、使える者は悪魔でも使うというのが、養母たる伯爵夫人からの教えだ。
どうにか妹のほうもこっちに引き込めないかしら、王太子への恋を失った者同士、お涙ちょうだいモードで接してみれば……いや、ああいう気の強いタイプには逆効果かな?
いっそ掴み合いの大喧嘩して、『やるじゃん……こんなに本気で気持ちをぶつけ合った相手はアンタが始めてよ』っていうライバルからの親友ポジションに……ああ、そっちのが楽しそうだな。
などなど、腹黒さ全開でいかにクローベル家の人々を掌中に収めていくか思考を巡らせていると、前方に誰か立っているのが見えた。
黒い髪の、小柄な少女……タリサだ。
直談判に行った二人を心配して、中庭から上がってきてくれたのだろう。
本当に優しい子……こんな子を、不幸になんてさせるもんですか。
「タリサ!!」
冗談にもならないウンコ縁談が破棄になったのを伝えるべく、カノンは友人のもとへ走り寄る。
「安心して、どスケベ成金ロリコン野郎との結婚話は無くなったわよ!!
クローベル公が、きちんと断ってくれるって!!」
「え……本当ですか?」
不安げに佇んでいるタリサに、後から追いついてきたマルセルも頷く。
「ああ、本当だとも。君を売るような真似はしないって、お祖父様は断言してくださったよ。
来年辺りから見合いは始めるようなことは言っていたが……とにかく、意に染まない相手とむりやり結婚させるようなことはしないって、約束してくれた」
二人から顛末を聞いてほっと息をついたものの、まだ困ったような顔の彼女を元気づけるべく、カノンは明るく笑ってみせた。
「大丈夫よ、お見合いなんて、この私が何件でもブッ潰してやるから。
自慢じゃないけど、ヒトの縁談ぶち壊すのは得意なの!!
それに、あなたの場合はお嫁に行く前に舞台で歌うのが先!!
まだ目処は立ってないけど、近いうちに必ず、劇場公演であなたを使ってくれるよう、クローベル公を説得してみせるわ。
そしたら、あなたは文句なしの人気者に……」
「ぁ……いいの。そんなことしなくても」
ごく控えめに、だがはっきりと断られて、さすがのカノンも口を閉じた。
予想していなかったタリサの答えに勢いを削がれ、目を白黒させているカノンに、タリサは優しい眼差しを向ける。
「私なら大丈夫。今回の縁談だって、お祖父様から嫁けと言われたらそうするつもりだったから……
誰から生まれたかも解らない、たかが私生児の私を受け入れて、貴族として養育してくださっているんだもの。
これ以上のことは望まないし望んじゃいけないわ……
だから平気。お祖父様の言いつけなら誰とだって結婚するし、舞台に立てなくたって、別にいいの」
「な…な…」
そんなの、私が平気じゃない。結婚なんて後回しにして、まずは舞台で歌うべきよ。
声を大にしてそう言いたいのに、カノンにはそれができない。
だって、望まない結婚をしてでも貴族の身分になりたい…って、つい最近までそれだけを目標にして生きていたのは、自分だから。
カノンに今のタリサの言い分を、否定することはできない。していいはずがない。
それが幸福な人生なんだって、私も信じてたから。
言葉に詰まっているカノンに代わって、マルセルが口を開いた。
「本当に……それでいいのか?タリサ。俺もカノン嬢も、君の力になりたいんだ。
本心を言ってくれ……一度くらい劇場で、舞台に立って、歌ってみたくはないのか?」
タリサは穏やかな微笑みを崩さず、しっかりと首を横に振った。
「現当主であるお祖父様が、それを許さないんですもの。私なんかに、舞台に立つ資格はありません。
クローベル家令嬢を名乗らせてもらうだけで、身に余る光栄よ……
でも嬉しかった、二人が私のために抗議までしてくれて。
その気持ちだけで充分だから、もう無茶なことはしないでほしい。
私のせいで、二人が怒られたり何か罰を受けたりしたら嫌だもの」
彼女らしい、優しさと思いやりに満ちた言葉なのに、どうしてこうも悲しく耳に響くのか。
最後に「ありがとう」と深く頭を下げてから、タリサは背を向け、行ってしまった。
呼び止めることもできず、タリサの姿が廊下の向こうに消えると、カノンもくるっと半回転した。
「お、おい、大丈夫か?」
去り方も繊細なタリサとは真逆に、肩を怒らせズンズンと歩いていくカノンを心配してマルセルが声をかけるが、カノンは振り向きもせず「平気よ!!」と乱暴に返す。
「自分の部屋に戻るだけだから、気にしないで!!」
もう自分には処理しきれない状況になってきて途方に暮れ、その場に立ち尽くしているマルセルに一応は返事をしながら、カノンの意識はまったく別のこと……
今のタリサのように自分の立場を思い知り、ぜんぶ諦めようとしていた過去の出来事へと飛んでいる―――
あれはそう、伯爵夫人が主催した仮面舞踏会にてみごと鮮烈なデビューを飾り、社交界の注目の的となっていたカノンが、早速とある上級貴族のお屋敷で開かれる夕べの集いに招待された時のこと。
そこでも華麗なダンスを披露して拍手喝采と称賛を浴び、有頂天になっていたら、主催した貴族のご令嬢が
『カノン様、なんて素晴らしい方でしょう!感激しましたわ……
ぜひわたくしからの盃を、受けてはもらえないでしょうか』
と申し出てきた。
こういったパーティーで、主催者の家族から直接のもてなしを受けるのは、客として最高の栄誉だ。
もちろん有り難く受けることにして、カノンは彼女が持っていた純銀の盆の上に乗っている、葡萄酒の入った宝石つきの酒杯に手を伸ばした。
ひょっとしたら初めての、貴族の友達ができるかも、なんていうカノンの淡い期待は、手に取ろうとした酒杯が指先からすり抜けたことで、脆くも崩れ去った。
たぶん、持ち手に油が塗ってあったんだろう。
見るからに高価な酒杯はヌルッと滑って床に落ち、中に注がれていた葡萄酒が零れてカノンのドレスを派手に汚した。
『まあぁ、ごめんなさい』
わざとらしく目を大きく開け、謝る令嬢の後ろで、お仲間の貴族娘達がクスクス嗤っているのが目に入った。
『あらあら、せっかくのお嬢様の盃が……一級品の酒杯だから、持ち慣れていなかったのかしら?』
『宝石の輝きに、目が眩んでしまったんじゃなくて?
光る物といえば磨いたガラスくらいしかご存知ないんでしょう』
『そのガラスだって、ご自分で拭いたに違いないわ。
何たって朝から晩まで、お掃除するのがお仕事だったんだもの』
カノンからしてみれば、悪いこともせず真面目に働いて、それで食い扶持を稼いでいたんだから馬鹿にされる謂れなどないのだが、貴族という連中はそうは思わないらしい。小娘たちの会話に合わせて、いやらしい笑いがさざ波のように広がっていく。
世話になっている伯爵夫人の手前、ここで怒ってはいけないと自身に言い聞かせ、カノンはご令嬢へ頭を下げた。




