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待て待て待て、結婚とかまだ早いから①

 * * *


 薄暗い廊下を駆ける靴音が、堅く冷たい石の壁に響く。

 せっかくの可愛いヒールが傷んでいるかもしれないが、気にしてはいられない。

 今はタリサへ求婚してきた男爵とやらのことでカノンの頭はいっぱいだ。


 ……金持ちの中年男ですって?そんなのと結婚なんて、嫁入りじゃなくて身売りじゃないの。

 ダメ、ぜーーったいダメ。

 誰が認めても、私が認めない。何としても、阻止するしかない。

 “国盗み”の二つ名にかけて……!!


 怒りなのか使命感なのか、胸に渦巻く激しい感情が赴くまま長い廊下を走り抜け、とうとう領主の部屋の前に辿り着く。


 扉の前で息を弾ませていると、すぐ横に控えていた侍従長が頭を下げてきた。


「これは坊ちゃま、カノン様」


 挨拶されて初めて、マルセルが中庭からそのままついてきていたことを知ったが、驚いている暇はない。

 カノンは侍従長に向かって、声を張り上げる。


「クローベル公にお話があります、今すぐ会わせてください!!」


 切羽詰まった様子のカノンからの頼みに、当然だが侍従長は難しい顔で首を横に振る。


「申し訳ありませんが、それはでき兼ねます。

 当主は今、お仕事の最中でして。許可なくお通しする訳には……」


「許可!?許可が要るのね!?わかったわ……

 マルセル!!!入ってもいいかしら!!?」


 勢いよく振り返ったカノンに気圧され、マルセルはたじろぎながらも「ああ」と頷いてくれた。

 カノンはすぐさま侍従長のほうへ顔を戻す。


「はい、許可が出たわよ!!

 あんた御令息より偉い!?クローベル家ご嫡男より偉いの!?偉くないわよね!!」


「それは……」


「もういい!!入るわ!!お邪魔します!!!」


「あ、ちょ、お待ちくださいっ……」


 慌てる侍従長を差し置いて乱暴にノックだけはしたカノンは、クローベル公からの返事も待たずに扉を開ける。


 初めて入る老公の部屋は、名のある貴族が使っているものとは思えないくらい狭く質素で、本棚と寝台の他には書き物机と付属の椅子があるだけだ。


 老いた領主はその机に紙を広げ、何か書きものをしているところだった。

 突然現れた若く無礼な闖入者達に驚いた様子もなく、ちらっと目を上げただけで握っているペンを置こうともしない。


「これは、カノン嬢。マルセルも……ずいぶん騒がしいようだが、いったい何事かね?」


 落ち着き払っている領主を前にしたら、逆にますます腹が立ってきて、カノンは「失礼しまっす!!」とぞんざいに挨拶してから部屋に入る。


 つかつかと靴音を立てて歩き、扉と机の中間地点くらいで止まると、前置きは抜きにして単刀直入に切り出した。


「タリサ様に、ドスケベン男爵とかいう方から求婚があったと聞きました。

 何でも、五十過ぎでお金しか取り柄のない方だとか。


 そんな人に、タリサ様を嫁がせたりしませんよね?

 タリサ様には絶対に、もっとふさわしい方がいらっしゃると思います。

 だからお断りしてください!!」


 マルセルはそこまで言っていなかった気もするが、14歳の少女へ求婚してくる成金のオッサンなんて、これぐらい詰られてしかるべきだろう。


 手負いの獣のように荒ぶっているカノンの後ろで、見守っていたマルセルもそっと口を開いた。


「俺もその結婚には反対です、お祖父様。


 ドーズデン男爵は裕福な方で、何不自由ない暮らしをしているそうですが、女性関係にだらしない面もあると聞き及んでいます。

 奥方の生前から水商売の女性はもちろん、使用人や町娘にも手を出して、面倒事が起きれば金の力で揉み消してきたとか……


 タリサは大人しいですが、素直で心の優しい娘です。

 そんな男に嫁いで、不幸になってほしくはありません」


「……ほう」


 見せかけの淑女らしさなどかなぐり捨てて感情のまま捲し立てる被後見人の少女と、いつもの威勢の良さは抑えて穏やかに説得してくる孫。


 二人とも普段の様子とは正反対の態度を取っているところが、却って本気で抗議してきているのだと伝わってくる。


 老公はやっと手を止めてペンを脇に置き、二人の若者にまっすぐ顔を向け正面から向き合った。


「……お前達の言いたいことはよくわかった。

 安心しなさい、タリサをドーズデンに嫁がせたりはせん。

 わしもあの男の悪どさについては、充分承知しておるでな……


 ちょうど男爵家に宛てて、断りの手紙を書いておったところだ。

 タリサはもちろん、そなたにくれてやる娘など、我が縁者には一人もおらんとな」


 それを聞いてカノンもマルセルもほっとしたが、続くクローベル公の言葉は決して安心できるものではなかった。


「この男はさておき、タリサを嫁に欲しいという話はちらほら来ておる。

 その中には家柄、年齢ともに申し分ない相手もおるでな……


 あの子が15になったら、何人かと見合わせて、相性の良い者へ嫁がせようと思っておる。

 お前達もそれで、文句はなかろう?」


 ……ある、あるわよ、大ありよ。サラッと問題発言してんじゃないわよぉおおお!!


 せっかく治まりかけていた怒りが再び脳味噌を沸騰させ、カノンは野犬のごとく老公へ吼えかかる。


「お言葉ですが、クローベル公!!タリサ様にはまだ結婚は早すぎます!!

 お見合いより先に、やるべきことがあると思いますっ」


「やるべきこと?」


「はい。まずは舞台に立たせてあげるべきではないでしょうか?

 あの子には歌の才能があります。大勢の人に聞いてもらえば、きっと……」


 タリサの道は拓ける。

 それは素晴らしい、誰も見たことのないような未来が、彼女を待っているはず。


 そう言いたかったのに出来なかったのは、クローベル公が拳に握った手を机に振り下ろしたから。


 ドン、と机が揺れて、低い音が響く。

 たったそれだけの動作と音で、騒がしかった室内の雰囲気は一変した。


「……タリサを舞台に上げることはならん」


 重苦しく静まり返った空気の中、怒りを滲ませた声で宣言したクローベル公は、納得できないカノンを睨みつけ、猛禽のように鋭い琥珀色の眼で威圧してくる。


「あの娘にはいずれ、最良の夫を見つけ、幸福な花嫁としてこの城から送り出す。

 それまでは人前で歌わせるような真似は、絶対にさせん」


「……どうして……」


 老領主の静かな迫力に圧倒されながらも、カノンはどうにか問いかける。


 タリサの歌は特別だ。綺麗なだけでなく、人を惹きつける不思議な力がある。

 大勢の前で披露したって、決して名家の恥にはならないだろうに、どうして封じ込めてしまうのか。


 カノンが疑問に思う気持ちを汲み取ってくれたのだろう、クローベル公はフッと肩の力を抜き、険しくしていた目つきを緩めた。


「……そなたの言いたいことはわかっておる、カノン嬢。

 確かにタリサの歌声は美しく、それ以上に人を魅了する力を持っておる―――


 だがな、非凡な才というのは、時に不幸を呼び込むものだ。

 あの子の父親、わしの息子エミールもそうだった。

 音楽と、芝居の才能を、舞台の上で花開かせたばかりに、そちらの世界にまんまと飲み込まれてしまった。


 その結果が、常に危険と隣り合わせな、根なし草の生活だ。

 今どこにいるか、生きているか死んでいるのかもわからん……タリサには、そうなってほしくないのだ」


 ゆったりとした口調でそこまで語ると、クローベル公は大きく溜め息をつき、半身を後ろへ傾けて椅子の背に凭れかかった。


「やれやれ……少し疲れたな。さ、この話はもう終わりだ。

 タリサを恥知らずな男爵に売ったりはせんと約束するから、二人ともそろそろ下がって、この年寄りを休ませておくれ」


 当主からこう頼まれては、さすがにカノンもマルセルも引き下がるしかない。


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