婚約破棄されたので、犬に拾われることにした。
「サリア・エンフィールド!お前との婚約は今日を以て破棄するッ!」
「えっ……?」
赤いリボンをアクセントに付けた、灰色の髪の可愛い女の子が振り向いた。
ちょっぴり気の強そうな顔をしているが、か細い声は儚げで可愛らしい。彼女がサリア・エンフィールド伯爵令嬢である。
それは、貴族たちが通う学園の卒業式の後に行われているパーティでの出来事だった。
卒業生の証を胸元に付けた卒業生たちは片手に飲み物を持って在学生たちと話をしたり笑いあったり、思い思いに楽しんでいた。
そんな和気あいあいとした雰囲気の中の会場で。
サリアや他の生徒たちと同じように制服に身を包んだ背の高い男性が「サリア、婚約破棄だ」と吐き捨てたのだった。
その宣言を聞いて何事かと戸惑う人の波が、ぱっくりと割れた。
サリアと背の高い男性を取り囲むようにして、会場の真ん中には広いスペースができた。
「今……なんとおっしゃいましたか」
再度、サリアが慎ましい声で言った。
長身の男性は、目を伏せて立っているサリアに向かって歩いてくる。
ズンズン歩いてサリアの目の前で足を止めた男性は、ぐいっとサリアの顔を覗き込んだ。
小柄なサリアが、長身の婚約者に上から威圧されている。
「レ、レオン様……」
「だから、お前との婚約は無かったことにすると言ったんだよッ」
サリアに詰め寄った長身の男性は苛立ったようにそう言った。
「あ、あの……レオン様、本気なのですか?」
「ああ。お前は俺に振られるんだ。お前が至らなかった所為で、婚約は破ー棄ッ!」
「そんな……」
サリアが悲しそうに俯いたことに嬉しそうな顔をしたレオンと呼ばれた婚約者は、ポケットの中から折りたたまれた婚約の書類をバッと取り出して、これ見よがしにサリアの目の前でビリリと破いた。
更に、ビリリビリリとサリアへの憎しみでも込めているみたいに千々に破いていく。
サリアの目の前で紙吹雪が舞う。
その紙吹雪の向こうに、せいせいしたしたとばかりに笑うレオンの顔が見えた。
……そうか、ならもう終わりだ。
全部終わらせてやる。
もう我慢などするものか。
もう、どうにでもなればいい。
「…………分かったわ」
レオンの虫唾が走る笑顔を暗い目で見つめながら、サリアは呟いた。
先ほどまでの儚い声はどこから出していたのだろうと思うくらいの低い声だ。
「丁度、私も婚約破棄したいと思ってたところなの。こんな風にみんながいる前で婚約破棄を宣言する阿呆がまだいたのには驚きだけど、いいわ。婚約破棄はしてあげる!」
先ほどまでの慎ましい雰囲気をかなぐり捨てたサリアは、大きな動作で両腕を胸の前で組んだ。
小柄なサリアが堂々と胸を張った瞬間、そのサリアの威圧感が長身のレオンの存在感を食ってしまったような錯覚があった。
サリアの挑戦的な瞳は更に爛々と輝く。
「せいせいした!私、貴方の横暴にも社会の差別にももううんざり!婚約破棄、してくれてありがとう!」
「っ、本性を現したな……女の癖に偉そうに………………女が婚約破棄されて普通に生きていけると思うなよ!後悔するぞ!!」
レオンは眉根を寄せながら威嚇するように呟き、サリアはそれに対抗するように彼を睨みつけ、眉をキッと吊り上げる。
「馬鹿ね。後悔なんてしないわよ」
本性を現して不敵に笑うサリアを見た会場の人達が、急にザワザワと揺れだした。
何を言っているかまでは分からないが、サリアが堂々とし過ぎていて皆が戸惑っている気配がする。
本来なら、貴族の令嬢は男性に食って掛かったりしないし、男性より目立ったりしない。
淑女はいつもか弱くあるべきだし、男性の意見に反論したりしてはいけない。
女性の自己主張ははしたない。女性は男性に従うべき。そして女性は男性より価値が低い、という考えがこの国の貴族たちの間にはあるのだ。
それだけでなく、サリアの家は特に酷かった。
父親が家を支配していた。彼の娘であるサリアも勿論、彼に支配されていた。
何でもかんでも父親によって決められていたのだ。
勿論、婚約者も友人も父親によって詳細に決められてきたし、挙句、花は全然好きじゃないのに華道が趣味で、全然得意じゃないお菓子作りがお前の特技だ、と父親に勝手に決められた。
女だからこうであれとか女だからこうしろとか、女だからあれもこれも我慢しろとか、無茶苦茶言われて育ってきた。
婚約者のレオンも酷かった。女である婚約者を尊重する素振りはまるで見せない男だった。
約束を破るのは当たり前、顎で使うのは当たり前。サリアが彼をうっかり言い負かせてしまおうものなら、すぐにサリアの父親に告げ口するような小さい男。それでもって、婚約者もいるのに分別なく従順な女の子を飼いまくってるゲス野郎。
「今ようやく目が覚めたみたい。お父様に従ってあんたと結婚するのが普通だっていうなら、普通に生きてなんていたくないわ」
サリアは仁王立ちになると、正面からレオンに向かって言い放った。
フンと鼻を鳴らしたサリアは、制服のスカートをふわりとひらめかせて回れ右をする。
振り向いた先にあるのは会場の出入り口だ。
折角の卒業パーティで先輩たちと積もる話もあったのだけれど、もうこの場に留まってはいたくない。
人の波が、サリアが出入り口に向かって一歩進むごとに割れていく。
サリアは空いたスペースをスタスタ歩き、そして「女なのに何あの態度」と騒ぎ出したパーティ会場の外に出た。
辺りはもうすっかり日も落ちて暗くなっている。
しかし、サリアは止まらずズンズンと歩いていく。
静かな学園の中庭を横切り、人気のない校舎の横を通り過ぎる。
(やっぱりおかしいことこの上ないわ。なんで皆レオンが正しいみたいな顔してるの?)
(あんな風に婚約破棄されたのに、女が反抗したからって私ばっかり叩かれるってどういう事?みんな狂ってる)
(私もう、あんな社交界では生きていけないわ)
(………………お父様に何されるかしら……ああもう、家には帰りたくないわね)
停まっているいくつもの馬車の脇を走り抜け、学園の門から外へ出る。
サリアの家の馬車もサリアを待ってそのあたりに停車しているだろうが、このまま馬車に乗って家に帰りたくはない。
家に帰ったら、きっとサリアは父親から役立たず認定を受ける。役立たず認定を受ければもう終わりだ。彼にとっていいところに嫁げない娘は虫けら以下で、言うことが聞けない娘はゴミ以下だからだ。
婚約破棄されたことは別に悲しくない。勿論父親が決めた婚約者のレオンのことが好きだったわけでもない。
でも振られたことは恐ろしい。これからどうしよう。父親には捨てられる。貴族社会不適合者になる。父や婚約者の男性の裁量でどうとでもなってしまう自分の未来が怖い。いや、自分に将来なんてない。きっといい事なんてもうない。よく考えたら今までだっていいことは無かった。
嫌なことは全部後ろに置いてけぼりにして、全部無かったことにして走りたい気分。
そう思うが早いか、走ったらモヤモヤから逃げられる気がしたサリアは、明りの方へ向かって走り出した。
街へ続く煉瓦道を制服でひたすら疾走し。
走って走って。
頭が空っぽになるくらいまで足を動かして。
段々と息が切れてきて喉が熱くなってきたので、サリアはようやく止まった。
傍にあった建物の壁に手を突き、ゼイゼイと肩を上下させる。
息を整えつつ周りを見回すと、今サリアがいるところは街の細道に入ったところにある飲食店街のようだった。
細道にあるちょっと隠れ家的な、ちょっと薄暗くて怪しい感じの飲食店が軒を連ねているエリアだ。
「っ、くっそ。スカしやがって!」
「これ以上やれば怪我するぞ」
「おら、こっちががら空きだァ!」
不意に、近くで怒声が聞こえた。
ガンガン、ガシャアアンと殴ったり殴られたり、物がぶつかったり壊れたりする音もする。
姿は見えないが、誰かが近くで喧嘩をしているらしい。
ガシャアアアン!!
フラフラしているサリアが酸素を必死に吸っていると、いきなり後ろでけたたましい音がした。
積み上げられていた物がものすごい勢いで崩れた音だ。
「……あ」
そして間髪入れずに、サリアは後ろから突き飛ばされた。
息をするのに必死で、悲鳴も上げられない。
加えてヘロヘロなので、サリアは簡単に吹き飛んで地面に簡単に叩きつけられた。
「へぶっ」
制服から剥き出しの手のひらと足が地面に擦れる。
何が起こっているのか分からないが、擦り切れた手足と、何かがぶつかった背中が痛いということは分かる。
「お前なんで……」
誰かが地面に伏しているサリアの傍に屈んだ気配があった。
しかしサリアは、返事もせずにそのまま地べたに丸くなることを選択した。
婚約破棄されて自暴自棄モードだし、足も手も痛いし、走って疲れてもう返事をするのも億劫だからだ。
「……おいおい、死んでないよな?」
「……」
「大丈夫だよな?おい、生きてるならダンゴムシみたいなことするな。早く立て」
「……」
サリアに話しかけるこの男は、喧嘩をしていたどこかのチンピラだろう。
喧嘩に夢中になっている時にサリアをはね飛ばしたそのチンピラは、一般人を巻き込んで悪いと思ったのかサリアの横に膝をついている。
そのチンピラには、何故か立ち上がって去ろうとしている気配はない。
はね飛ばしてしまったくらいでそんなに義理堅くならなくてもいいのに。
「私、貴方の所為じゃないけど死んでるの。そっとしておいて」
「は?それでもこんな道の真ん中で死ぬやつがあるか。人に蹴られてほんとに死ぬぞ」
「大丈夫、もう少ししたら立つから。なんか今日は疲れてるの。休ませて」
「だから、道のド真ん中で休むな」
ぐいっと腕を引っ張り上げられて、上半身を起こされた。
流石チンピラ、凄い力だ。片腕だけでサリアの体が持ち上がった。
「え?」
顔を上げたサリアの目の前には、サリアも見たことがある男性の顔が。
いや、それだけではこんなに驚きはしない。
その見たことのある顔にはなんと、耳が。
勿論普通の人間の耳ではない。普通の人間の耳だったらこんなには驚かない。
耳は耳でもツンと尖った、犬っぽい耳が。
フードで隠してあったらしいが、普通に出てきてしまっている。
銀の地毛に不良っぽい赤のメッシュを入れた髪。それから赤銅色の瞳、綺麗な顔。その上にフワフワの犬耳がついている。
しかもサリアの顔を認識した瞬間、耳はぴくんと動いていた。
良くできたコスプレだ。最近は魔法で動く耳もあるのかもしれない。
(へえ。これ、この人の趣味?何のコスプレ?)
「貴方、それ可愛いわね。似合ってるわよ。何のコスプレしてるの?」
以前のサリアは男性の機嫌を損ねないように、生意気なもの言いを避けるよう気を付けてきたが、今はもうどうにでもなれだ。
そう思って茶化すようなことを口にしたら、男の顔が焦りだしたので気分が良かった。
「は、はあ?!勘違いするな!コスプレなわけがあるか!
……しまっ、あいつら!」
頭の犬耳を両手で潰すように隠したあと、ハッと気が付いた男はバッと顔を上げた。
可愛い犬耳を付けている癖に、狼のような鋭い目で辺りを見回している。
「くそ」
男は立ち上がり、誰もいなくてしんと静かな煉瓦道に響くくらいの大きな舌打ちをした。
犬耳がしゅんと垂れた。
転がったサリアを気にかけていた隙に、喧嘩の相手は逃げてしまっていたようだ。
「お前の所為だ。立て、ダンゴムシ」
「私の名前、ダンゴムシじゃないんだけど」
「なら今から名前変えろ」
「ふうん。貴方、噂どおり横暴ね。そんなだからみんなから怖がられるのよ。王子様」
サリアは擦りむいて血が出ている膝を立てて立ち上がりながら、その男に向かって挑戦するように言った。
犬耳には驚いたが、実はサリアは知っているのだ。この男が誰か。
この男の顔は何度か見たことがある。
なぜなら彼は、この国の王子だからだ。
粗雑で乱暴だという理由で王家から見放され、グレて夜な夜な街を徘徊していたり、裏路地で喧嘩をして回っているというこの国の3番目の王子。
名前をグレン・リードライテという。
出来が悪くて表にもあまり出てきたことがないから平民なら知らなかったかもしれないが、貴族なら顔と噂くらいは知っている。
「………………もういい。消えろ」
サリアを見下ろすグレンの瞳があからさまに鋭くなった。
顔はぞくっとする程怖い筈なのに、彼の犬耳はしょんぼりと垂れたままなので、なんだか締まらない。
立ち上がったサリアはグレンの正面に立ち、腰に手を当てた。
「私の名前、サリア。サリア・エンフィールド。もうしがない伯爵令嬢でさえないから覚えなくてもいいけど、ダンゴムシは止めてね」
「お前の名前なんて、言われなくても覚える気はないがな」
ぴょこん、と彼の犬耳が動いた。
先ほどまでしょんぼりしていたのに、知ってる知ってると相槌でも打っているかのように動いている。
覚える気は無いという冷たい顔とピコピコしている犬耳の組み合わせは、なんだかとても不釣り合いで可笑しい。
「……ぷ。つくづく変な犬耳。それ、自分で動かせるの?」
「は?!い、いや?!」
目を丸くしたグレンは、着ていた濃い灰色のローブのフードを慌てて自分の頭に被せていた。
大きな耳は大きなフードにすっぽり隠れてしまった。
「最近のコスプレは精度が高いのね。グレン殿下にそんな趣味があったことはみんなに内緒にしておくから、安心していいわよ」
「もう殿下でも何でもない………………っていうかお前、なんでそんなに上から目線なんだ?お前に決定権なんてないよな?俺はこの場で、お前がもう一生誰とも口きけないようにすることだってできるが」
またも、狼のような鋭い目で凄まれた。
綺麗に並んだ白い歯が彼の口元で見え隠れするが、その中でも犬歯がひときわ尖って見えた。
(噛まれたら痛そう)と思っても、サリアは特に怖がったりはしなかった。
なんてったって、あの犬耳を思い出したら怖さ半減なので。
「ふうん。一生誰とも口きけないようにって、どうするの?」
「どうするって……ギタギタにでもしてやるんだよ」
「ギタギタってどうするの?ミンチにするってことなの?」
「……取り敢えず半殺しにでもしてやるよって事だろうが」
「ふうん。半殺しって、半分は生きてるってことでしょ。それならまだ喋れるんじゃない?」
「細かいな……もう適当でいいだろ…………」
相変わらず眉間にしわを寄せたままのグレンの細面の綺麗な顔は、サリアのああ言えばこう言う攻撃に心底ウンザリしたようだった。
(あら。またやっちゃったわ)
とは思いつつ、反省はしていない。
人を苛々させてしまうサリアの素は頑張って隠してきたが、婚約破棄もされてお先真っ暗の今はもう気にしない。
そんなことよりも。
たった今、脳内でピンと音がした。
三つの要素がサリアの中で繋がった音だ。
三つの要素とは、可愛い犬耳と不良。それから婚約破棄だ。
そして合わさったこれらは、複雑奇怪な計算式によって一つの答えを導き出した。
その答えとは、『グレるなら今しかない』。
「あのね、一つお願いがあるの。聞いてくれるわよね?」
「無理」
「無理?でも貴方に拒否権はないわよ。だってほら、貴方の所為で私もう結婚できなくなっちゃったんだから」
「これを見なさい」と言ったサリアは、擦りむけて血まみれの両手のひらをグレンの目の前に広げて見せた。
(婚約破棄されたから、この怪我関係なく結婚なんてどうせもうできないんだけどね!)
血まみれの両手を一瞥したグレンは「舐めておけ」と言い出したので、ムッとしたサリアは擦りむいて血がだらだら流れる膝をふんっと抱え上げ、見せつけた。
「足も痛いわよ」
「っ、馬鹿!足を上げるなお前スカートだろ謝るから足下げろ」
「謝ってくれるの?でもごめんで済んだら警察は要らないわよ。許してほしくば私のお願いを一つ聞くことね」
上げていた足を元の位置に戻したサリアは怪訝な顔のグレンを見て、しめしめという顔でにんまり笑った。
「私のお願い、それはズバリ、私を拾うことよ」
「は?!」
「私、もう将来お先真っ暗だからとってもグレたい気分なの。グレて世捨て人にならないともうやってられないわ。だから私を、貴方の住処に連れて行きなさい」
「お前、頭おかしいのか」
……不良になりたいなんてどうかしているだろうか?
でも、婚約破棄をされたサリアはもう貴族社会で生きていけなくなったゴミのようなものだし、家に帰っても父親から婚約者を繋ぎとめておけなかったクズ扱いされるのが目に見えている。女の価値はいかにいい男を捕まえられるかにかかっているのだから、婚約破棄をされたサリアにはもう貴族の世界のどこにも居場所はない。
そう思ったら、もう本当にどうにでもなれという気分なのだ。
グレて社会の常識から外れて生きたい気分なのだ。
「これからは貴方のこと、兄貴って呼べばいいかしら?それとも親父?ボスの方がかっこいいかしら?」
「ふざけんな……」
思いっきり嫌な顔をしたグレンは、にっこり笑うサリアをギリリと睨んだ。
………………が。
結局グレンは、なんだかんだ言いながらサリアを自分の屋敷まで連れて来てくれた。
と言っても玄関広間にさえ入れてもらえなくて、玄関口にある椅子に座るように指示された。
使用人がいないのか、主人が帰ったというのに仄暗いままの玄関の灯をグレンが自ら付け、「本当に付いて来てるが、こいつ大丈夫か……」とブツクサ言いながらフードを脱いでいた。
グレンの頭に、また犬耳が現れた。
「ほんとなんなんだこの女……」彼がそう呟くたび、犬耳はひょこひょこソワソワしている。
玄関にサリアを待たせて、グレンは一度屋敷の中に消えた。
だがすぐに、硝子瓶に入った緑色の軟膏を片手に持って帰ってきた。
そして椅子に座っているサリアにそれを投げて寄越した。
瓶を受け止めた両手のひらが、ぐずりと痛む。
「この魔法薬は効きがいい特別製だ。これをやるから今回のことは全部チャラにしろ。それでもう俺に二度と顔見せるな。帰れ」
何故か、そう凄んだグレンの犬耳が心なしかしゅんとしていた。
(なんで苛々してるのにあの耳だけしゅんとしてるんだろ。おっかしい)
(あ、そういえばさっきも……)
暫く犬耳を観察していたサリアの探究心は、ある可能性を思いついた。
「ねえ、両手が痛いんだけど」
「は?なら早くそれを塗れ」
「えーっと、両手が痛くて塗れないなー」
サリアがそう言った瞬間、ぴくんとグレンの犬耳が動いた。
耳はソワソワ動いているが、彼の顔は怒っているように見える。
(耳はやっぱりこのタイミングで動いたわね。本人は苛ついてるようだけど)
「両手、痛くて塗れないなー。誰か塗ってくれないかなー」
「知るか。早く帰れ、ダンゴムシ」
「そんなに言うなら帰っちゃおっかなー」
サリアがよいしょっと腰を上げながら横目でグレンを見ると、本人は早く去れという顔をしているのに、しょぼんぬと犬耳が元気を失っていた。
(あら、やっぱり。どういう理屈かは分からないけど、この犬耳は私が構わないとしょんぼりして、構うと動くみたいね)
「やっぱりまだ帰らないことにするわ。言ったでしょ、私を拾いなさいって。ここに置いてくれるまで、ここから動かないから」
「どのみち居座る気か……」
立ち上がったままくるっと回ってグレンの方を見れば、耳は元気よくなっているし、更に銀色の何かが足元でバサバサ揺れていた。
バサバサ?なんだろう。
「私、実は今日婚約破棄されたの。可哀そうでしょ?だから私、社交界にはもう戻れないの。だから不良になりたいの。これからあなたの仲間になるわ」
「……仲間?俺にお前の面倒見ろって?そんな義理ないだろうが」
バサバサバサバサ。激しい音がする。
足元のフワフワしたものは、嬉しそうに揺れている。
まるで子供が喜んで箒をガムシャラに振り回しているようにも見える。扇風機のようにも見える。
サリアのぽかんとした視線に気が付いたグレンは後ろにバッと振り向き、
「っ、くそ!」
舌打ちし、即座に両腕で長いフワフワを捕まえた。
長いフワフワと格闘中の彼は、「記憶を抹消してやる……」とばかりにサリアを恨めしそうに睨んでいる。
(なんでよ。フワフワ可愛いじゃない)
その銀色の長いフワフワは尻尾だった。巨大な狼のしっぽだ。
銀の三角耳はよくある犬耳かと思っていたが、尻尾から察するに狼の耳なのかもしれない。
「ねえ、詳しく聞きそびれてたけど、耳としっぽって何?貴方、狼男なの?」
「これは多分、誰かに呪われた」
こんな体にされてしまったことへの怒りなのか、はたまた不気味な呪いに戦慄しているのか、「俺はこいつの所為で……」と低く唸ったグレンの大きな尻尾は、すべての毛を逆立てている。
逆立った毛の大きな尻尾と射抜くような鋭い目を見ていると、まさに狼男がいたらこんな感じなのだろうな、とふと考えてしまう。
「そうね。呪い、って聞いたことあるような気がするわ……最後には怪物の姿になって理性も失っちゃうとかってね。そういう呪いなの?」
「分からん……だが、これは生まれた時からあったそうだ」
「ふうん。まだ名前も付けられてない時にかかるなんて変な呪いね。それ動かせるみたいだけど、自分でコントロールできるの?」
「あ?…………いや、コントロールは全然できないし勝手に動く。俺の感情とは全く、全く全然、全く関係なく動くんだからな」
力強く首を振りながら、グレンはちらりと左上を見た。
嘘を吐く時人は左上を見ちゃったりすることがあるそうだが、まあそれはどうでも良いか。
「呪いは解く方法を見つけるか、かけた人間を見つけ出せば解ける。ずっと探しているんだが」
そう言ったグレンの顔は冷静で目は鋭かったが、しっぽは力なく垂れていた。
手掛かりなんて何もないから、しょぼんぬとしているようである。
この一匹狼の不良王子は、街のならず者たちや無法者たちに喧嘩を売ってはボコボコにして街の治安を悪化させていると噂なのだが、もしかしたら彼は呪いを解く手がかりのために仕方なく裏社会に足を踏み入れているのではないだろうか。
「大丈夫よ。呪いは解く方法があるから、かけることができるんだから。最悪かけた人間が見つからなくても解ける筈よ」
励ましの言葉をかけたサリアは椅子に座りなおした。
(モフモフで可愛いし呪いは解かなくてもいいと思うけどね)
「あ、痛」
唐突に。
椅子に腰かけた時に膝の怪我が引き攣れて痛かったので、忘れかけていた怪我の事を思い出した。
手当てだけはさくっと済ましておこうかと思ったサリアは傷ついた両手を使って、軟膏の硝子瓶の蓋を開けようと試みた。
だが、なかなか開かない。
手のひらは満遍なく痛いし、まだ血もところどころヌメヌメしていて蓋が滑るのだ。
「貸せ」
悪戦苦闘していると、ひょいと軟膏の瓶がサリアの手からひったくられた。
顔を上げれば、その手の主はやはりグレンだった。
彼はいとも簡単に瓶の蓋を開け、サリアの両手の上に緑色の軟膏を垂らしてくれたのだった。
「ありがと。いいとこあるじゃない」
両手を合わせて軟膏を塗り込みながら、サリアは笑って礼を言う。
「偉そうに礼を言うな」
冷ややかな返事を返されたが、銀色のしっぽはバサバサバサと激しく揺れはじめたので、グレンが怒ったように自分のしっぽを踏みつけていた。
ちなみに彼のしっぽは、蹴って踏んづけても感覚はあれどそんなに痛くないらしい。
何と言うか、自分の体ではなく、何か別のものと神経を共有しているような感覚なのだとか。
一方で、軟膏を塗り込んだサリアの傷口はあっという間にかさぶたになっていた。
特別製と言っていたが本当に特別製だ。こんな物どこで手に入るのだろう。
一般人お断りの闇市なんかで売られていたりするのだろうか。
怪我の痛みもすっかりなくなり余裕が出て来たサリアは、グレンの住む屋敷の玄関口をぐるりと見まわした。
外観は暗くて良く分からなかったが、内側は見れば見るほど豪華な造り。
大きなガラス窓を覆っているカーテンはお洒落だし、敷かれている絨毯は上質だし、サリアの座る椅子も高級さが滲み出ている。
たとえ冷遇されていて隔離されたような所を住処にしていたとしても、王家からお金を貰っているのだろうか。
いや、ある噂で王家は彼に完全にノータッチとか、もう勘当されているとか聞いたこともあるような。
「貴方、この家に一人で住んでるの?」
「まあそんな感じだ」
「こんなに広い家なのに、一人?」
「別にどうでもいいだろ」
「どうでもよくないわよ。だって私、今日からここに住むじゃない?だから誰かいるって言うなら先に教えておいてよね。夜中にトイレに行ったときに鉢合わせて驚くなんて嫌だし……」
「何言ってんだ、帰れよ」
話は途中で遮られた。
グレンは怒っているというより驚いているようだ。まだ言っているのか?本気で言っているのか?と顔に書いてある。
「なによ。人の話は最後まで聞きなさいよ」
「もう怪我も治療してやっただろ。帰れ」
「帰る家はないわ。だって私の家はね……」
「帰れ」
今度は強い目でハッキリと拒まれた。
「なによ。しがない伯爵令嬢の苦労話聞かせてあげるって言ってるんだから、黙って聞くくらいしなさい」
「お前、ほんと何様?しがない伯爵令嬢が俺に聞きなさいとか言うか?」
「そう、それ。女の癖に偉そうにして何様って元婚約者にも言われたわ。それでも女かとも言われたわ。それで婚約書を目の前でビリビリに破かれたの。卒業パーティの全生徒の前で。ちょっとあり合えないと思わない?私、もう社交界で生きてはいけないわ」
思わず声に熱がこもる。
心の底では誰かに聞いてもらいたいと思っていたから。
そしてグレンは男だが、何故だか何も言わずに聞いてくれる気がしたのだ。
「ふん……」
「私にも確かに非はあったわ。つい素を出して偉そうな言い方をしてしまった時もあったわ。一言多かった時も、きついいい方をしてしまった時もそりゃあ偶にはあったわ。それでも私、元婚約者の前では女の子らしくいようと頑張ったのよ。私、これでも健気だったわよ」
「へー……」
「お菓子だってあいつの為に練習して作ったし、剣帯だって刺繍したし、編み物だってしたわ。基本的に何でも言うこと聞いて、休日いきなり呼び出されても全部用事ドタキャンして会いに行ったし、毎朝迎えに行って毎日授業が終わったら玄関で待ってろって言うから毎日待ってたし、手紙だって毎週書けって言うから書いてたのに」
「……思ったより健気だったな」
「でしょ。だから言ったじゃない。でもあいつ、私に間違いを正されたり、私に意見されることが大嫌いな奴だったの。婚約者を見下して私のことはペットがメイドとでも思ってたのよ。それであいつね、あいつのことを持て囃してくれる女の子たちをお金で集めて浮気してたわ。ずっと前から」
「カスだな」
「でしょ?カスよね。しかも私のお父様ね、普通よりもっと頭が固いの。あの人にとって、公爵以上の家に嫁げない娘に価値はないの。一人目のお姉ちゃん、お見合い上手くいかなかったから70歳の公爵の後妻にされちゃったわ。二人目のお姉ちゃんもお見合いが上手くいかなかったから、目ぼしい公爵令息の寝込みを襲って既成事実作れって媚薬渡されてたわ。
それで私が公爵令息様との婚約無くなりました、しかも大勢の前で盛大に振られましたなんてお父様に言ったら絶対、お姉ちゃんたちより酷い目に合う」
「で?」
「ということで私、家には帰りたくないの。ねえ、三食おやつ付きで私をここの空き部屋に住まわせなさいよ。袖振り合ったのも何かの縁でしょ」
「……無理」
「貴方のコスプレ趣味バラすわよ」
「俺を脅す気か?……っていうかコスプレじゃないって言ってるだろ」
そうやって文句を言ったものの、心のどこかでサリアを可哀そうとでも思ったのか、その日のグレンはもうそれ以上帰れとは言わなかった。
適当に買ってきた夕食を分けてくれたのち、お風呂も貸してくれた。
誰が磨いたのか、綺麗に管理された大浴場でお湯につかった時は、心底ほっとした。
それからサリアを2階の角の部屋に案内したグレンは「絶対変な事するなよ」と言い残し扉を閉めた。
チチチと心地よい鳥の声がする。
「あ………………良く寝た」
失踪した次の日の朝だというのに、寝ざめはよかった。
枕も固いし、パジャマも昔住み込んでいた侍女のものだという簡素な綿のワンピースだったが、驚くほどよく眠れた。
家を無断で出て来たというのに、朝がこんなにも清々しく感じた日は初めてかもしれない。
社会が作った令嬢の型にはまらない初めての朝。
誰かが作った常識とやらに雁字搦めにされない場所で目覚めた初めての朝。
サリアがエンフィールド伯爵家の令嬢ではなく、サリアとして始める日。
しかし、サリアの清々しかった気持ちは朝食が準備されているテーブルに着いた時に、ガシャンと砕かれた。
「一晩たったら頭冷えただろ。帰れ」
制服に着替えて食卓に着いたサリアに向かってそう一言告げたグレンは、突き放すような冷たい目をしていた。
黒い細身の服の上に大きなローブを着て、尻尾も耳も完全に隠してしまったグレンは怖かった。
「待って……」
「何を考えてここに居座ろうとするのかは分からんが、これ以上俺を頼ろうとするな」
「……」
「いいか。少しツイてなかった出来事があっただけで全部投げ出そうとするな。一時の感情に身を任せて人生を棒に振るな。会ったばかりの人間に何の警戒心も無くついて行ったりするな。甘すぎる。何の覚悟も無いのに、衝動だけで浅はかな選択をするな」
「……」
食欲も一気になくなり、朝食の皿の上に乗るどこかのカフェのテイクアウェイと思われるパンケーキは、一瞬にして粘土の塊になってしまったかのように思えた。
「朝食を食べたら出ていけ。俺が帰るまでここにいたらその時は、適当に人買いに売り飛ばすか娼館にでも連れて行く。それが嫌ならまっすぐ家に帰れ」
先に朝食を食べてしまっていたグレンが席を立つ。
サリアに話をさせる暇を与えず、真っすぐ玄関の向こうに消えていった。
彼は、サリアのことを振り返ることも無かった。
「……」
サリアは握って膝に置いた両のこぶしをじっと見つめていた。
(私、甘い気持ちでグレてやるって決めたのかしら。覚悟は、出来ていなかったのかしら)
(確かに家に守ってもらえなければ、私のような令嬢は人買いに売られるか娼館に連れて行かれるかしかないかもしれない。貴族の社会に守ってもらえなければ、私なんて孤児の女の子以下の生活能力しかないかもしれない。でも私はそんな弱い令嬢のままでいたいのかしら)
(このまま家を出たら、将来後悔する日が来るのかしら。
その時、貴族だったあの時の生活に戻りたいと思うのかしら。婚約を破棄されて後ろ指さされて、父親の出世の道具にされて70歳の人に嫁いだりなんてして、文句を言えば女のくせにって罰せられるその生活でも戻りたいと思うのかしら。父親や結婚相手の言いなりになって死んだ人形のように生き続けて幸せなのかしら)
(そうなのかしら。私は、そうなりたいのかしら)
(……違うわよね?今までの私に、こんなに強く間違っていると思った事はあったかしら。こんなふうに、衝動のままに心から求めたものはあったかしら)
サリアはその場で立ち上がった。
椅子がバタンと音を立てて倒れる。
くるっと回ったサリアは、風のように外に出た。
そして、息を吸って走り出す。
灰色の髪を風になびかせて駆けていく。
……
辺りはすっかり夜になっていた。
街の賑やかな酒場のテーブルでは男たちが歌ったり笑ったりしている。
しっとりとした雰囲気の通りでは商人らしき男たちが良い雰囲気のテラスで語り合ったりしている。
小川に架かる小橋はライトアップされて幻想的で、オレンジの街灯はまるで星が地上に降りてきたように暖かだ。
平和な光景だった。
だが今日のサリアは平和な光景は求めていない。なぜなら、喧嘩を探して街を朝から走り回っているのだから。
昨日グレンと会った場所を張ってみたりもした。
薄暗い路地裏も探した。
如何わしいお店が軒を連ねる通りも探した。
何なら貧民街の方まで行ってみた。
だがグレンは見つからず………………
「あ!!見つ、けたわ!」
喧嘩も怒声も何もないただの街かどで。
普通に明るい飲食店街の曲がり角で。
フードをすっぽり被ったグレンをやっと見つけた。
大きなフードの隙間から覗いた彼の切れ長の目は、サリアの息切れした大声にぎょっとしていた。
グレンは咄嗟に逃げようと走り出したが、サリアの切ったロケットスタートの方が早かった。
サリアはあっという間に追い付いて、全握力を以てぎゅむっとグレンのローブを握りこんだ。
「ゼイゼイ」
折角捕まえたはいいが、サリアは疲れすぎて何も喋れなかった。
「ゼイゼイ」
サリアが肩で息をしている間にも、グレンはローブの端をぐいぐい引っ張ってサリアの拘束を逃れようとするが、サリア渾身の握りこみはちょっとやそっとでは解けない。
「あれ……サリア?」
サリアが未だハアハアと苦しそうにしているその時、後ろから聞き慣れた声が聞こえてきた。
「隣にいるのは……まさかクズ王子?」
「ほんと、不良王子だぁ。サリア様と不良王子、仲良さそう……。ねぇねぇレオン様、これってやっぱ浮気だよぉ」
後ろから現れたのは、サリアの元婚約者レオンとその浮気相手のうちの一人であろう、金髪ボインの女の子だった。
余所行きの衣装に身を包み仲良く腕を組んでいる。デートの帰りか何かなのだろう。
更に二人は、特徴的な赤銅色の瞳と整った顔を見て、フードで隠れているグレンの正体を簡単に見破っていた。
「サリアお前、女の分際で浮気してたのかッ!?」
「は?ゼイ、あんたじゃないんだし、そんなのしてないわよ。ゼイゼイ」
まだ息は完全に整ってはいないが言われっぱなしになるわけにもいかないので、サリアはガラガラ声で返事をした。
「浮気じゃないって言うなら、なんで婚約破棄された途端男と一緒に街歩いてるんだ?」
「一緒に街、なんて歩いてないわよ。ゼイゼイ。ちょっと話があっただけよ」
「でもレオン様の言う通りこの2人あやしいよねぇ。絶対前から仲良くしてたんだよ。ねぇレオン様、これってサリア様の浮気の証拠になるんじゃない?サリア様が女の癖に浮気したってことだから、慰謝料もらえるんじゃなぃ?」
レオンにべったり引っ付いて上目遣いの金髪の女の子は、鼻にかかる猫撫で声だ。
男に媚びることが癖になっているような女の子だ。
「馬鹿ね、何言ってるのよ。浮気してたのはあんたとレオンでしょ。ゼイゼイ」
「えー、違うよぉ。レオン様はサリア様が可愛げなくて偉そうで、全然触らせてくれないから、他の所でバランスとってただけなんですぅ。だからレオン様を満足させてあげられなかったサリア様に責任があるんだよ。ねぇ、レオン様」
「そうだぞ……俺は、俺はサリアみたいな面白くない女でもずっと我慢して1年も婚約してやってたッ!それなのに浮気とか……まあクズ王子とゴミ女は似合いだけどッ」
「クズはお前だろ」
レオンが罵ったかと思ったら、グレンが目にもとまらぬ速さで動いていた。
もう既に、腕を振りかぶっている。
「待って、駄目よ」
サリアが彼のローブの裾をひっぱっていなかったら、レオンはぶん殴られて今頃宙に浮いていたはずだ。
「放せ」
グレンの冷たい声がサリアの頭上から降ってくる。
射殺すような視線も降ってくる。
しかしサリアはグレンのローブをぎゅっと両手で握りなおした。
「ここでレオンに怪我でも負わせたらあなたの立場がもっと悪くなるわよ!」
「俺の立場なんかもう既に地に落ちてる」
グレンは再び、すっとレオンとの間合いを詰めた。
くっついているサリアなど、まるで携帯のストラップだと言わんばかりの軽い身のこなしだった。
(なんだ、私が引っ付いてるのにこんなに軽々動けてるなんて……私、ローブに一生懸命引っ付いて止めてる意味なくない……?)
「……じゃなくて!駄目だってば。本当に待ってよ。いい加減にしないと…………おすわり!」
ぎゅっ!とサリアがグレンの背中側から胴に腕を絡めて渾身の力で引き留めると、グレンはぎょっとして振り返る。
その動きはビタッと止まった。
いや、完全に静止した、と思いきやローブの下から覗くモフモフのしっぽがブンブン振れている。
(おすわりって言われたの喜んだのかしら。狼も犬だものね)
「お、おすわりとか言うな!腕も放せ、ダンゴムシ女!!」
緩んだサリアの腕から逃げるように抜け出たグレンは、ローブの下で揺れるしっぽを『動くなこの野郎!』と言わんばかりに思い切り蹴り上げて踏んづけていた。
一方で、レオンは金髪の女の子の肩を抱きながら、軽蔑し切った目でサリアを見ていた。
「元婚約者に反抗的な態度取ったと思えば、目の前で他の男と抱き合ったりもしてさ。……ほんとサリアってどんな教育受けてきたのって感じだね。女の癖に。お前の父親に言いつけてやろう」
自分のしっぽを踏みつけていたグレンは顔を上げた。
「こいつ、一発殴らせろ」
また抱き付かれて止められることを警戒しているのか、サリアに許可をとるようにそう囁いた。
「駄目。あいつを殴るのは私よ」
目はレオンを見据えたままで、サリアは囁き返す。
後ろに押し留めるようにグレンの前に出たサリアは宣言した。
「レオン、私はあんたのメイドでもないし、お父様の人形でもない!貴方たちが見下してきた私とは今ここで完全に決別してやるわ。そのためのけじめよ!歯、食いしばりなさい!!」
何が起こっているか良く分からないレオンの顔が、まだ薄いにやにや笑いをしているうちに、サリアはレオンの間合いへ弾丸の如く飛び込んだ。
そして間髪入れずにグーに握ったこぶしを突き出す。
迷いのない一撃。
渾身の一打。
爆発するように容赦なく放たれたそれは、レオンの腹部に深々と刺さった。
「ぐふっ!!」
冷や汗と何かを飛ばしたレオンは、体をくの字に曲げて無様に道端に倒れ込んだ。
何か呻いているが、声になっていない。何を言っているか分からない。
腹を押さえるレオンの横で、金髪の女の子はオロオロしだす。「あり得ない、女の子なのに男の人殴ってやばくなぃ?」と呟いている。
サリアはレオンを穿った拳を開いて、汚いものを飛ばすようにブンブンと振る。
そして後ろにいるグレンを振り返った。
「ねえグレン、私みたいな可愛い令嬢が男を殴れるとは思わなかったでしょ?これがふざけた貴族の社会で生きることを捨てると決めた私の覚悟よ」
驚いているグレンの顔に満足したサリアはニコッと笑って言葉を続けた。
「さあ、これで私はもう後戻りはできないわ。貴方が拾ってくれないなら私、娼館にでも人買いの所にでも行ってやるから」
道端に横たわるレオンとオロオロする金髪の女の子を後ろに残して、サリアとグレンはどちらともなく歩きだしていた。
会話はない。
会話はないが、グレンに逃げ出す様子もない。
サリアは最悪娼館や人買いの所に行く覚悟はしたものの、一応グレンのローブの裾はしっかりと握っている。
暫く薄暗い道をテクテクと歩き、丁度屋台が道の両側に連なっている明るい通りに出た時、グレンが振り返った。
「なんか……食うか」
パタパタ。
サリアはグレンの後ろでローブを握っているから、彼の銀の大きな尻尾が裾の下で揺れているのは良く分かる。
「それ、どういう意味なの?もしかして私を拾ってくれるって意味かしら?」
「3食おやつ付き……でいいのか」
「あっ、も、もちろんよ!あの、ありがとう!私もこれから頑張ってアルミ缶集めたりして稼げるようになるから期待してなさい!」
サリアの周りにはぱあっと花が咲いた。
「いや、アルミ缶は……」
グレンは複雑そうな顔をしているが、尻尾は相変わらずパタパタしている。
……そして裏路地の先に広がる世界で、呪いの解き方を探しながら暗躍するグレーの髪の二人組の噂が王国中に広まるようになるのはもう少し先の話、である。
読了お疲れ様でございました。評価など下さるととても喜びます。