小説家達の監獄
小説を書いている。ただひたすら、書いている。
この監獄ではすべての囚人が一日に一編、一定の文字数以上の小説を仕上げることを義務づけられている。書くことを怠れば鞭で打たれるが、刑吏は手慣れたもので、囚人に最大の苦痛を与えながら、どんなに烈しく打っても決して死なせることはないのだった。
収監される以前から小説の真似事を趣味にしていたわたしなら、鞭打ちの罰を免れることなどたやすい。完成品には短編小説ほどの長さがあればよく、題材は自由ときている。しかし周りの囚人は執筆に苦しみ悩む者も多いようで、檻の隙間や壁の穴からメモを回してアイデアの共有を試みる者達や、固有名詞だけを変えて文章を使い回そうとする者達もいた。むろん露見すれば鞭打ちを喰らうのだが。
密かに回覧されるメモにはアイデア・ノート以外のものもあった。“刑罰として小説の執筆を強いられる理由は何か?”名も知らぬ囚人(メモの状態から推測して、遠い過去に獄死してしまった)が発したこの問いに、多くの囚人が彼らなりの見解を示している。
ある者は、傑作が生まれたら印刷製本して販売し、売り上げを監獄の運営資金に回すのだろうと考えた。ある者は、囚人に精神的苦痛を与えるためで、仕上がった小説は回収されしだい焼却炉へ投げ込まれるのだろうと考えた。だがわたしは、無数の小説の無数のバリエーションを執筆するうち、ある仮説を思い抱かずにはいられなくなった。
“宇宙が無限ならば、想像可能な事物はすべて既に存在し得る”と誰かが言っていたが、存在し得るすべてを想像可能なわけではない。人生は有限だから、少なくともわたし一人の力では不可能だ。しかし想像する者を無数に用意できるならどうだろう?
すべてが既に存在するなら、小説とは説明にほかならない。写真は小説よりも正確に事物を説明するが、小説は我々が見たことのない事物を、そして今後見ることがないであろう事物をも記述し得る。
たとえば、おとぎ話の世界を考えてみよう。妖精やドラゴンは現実にはありそうもないが、もし全てが存在するなら、この宇宙のどこかに実在するはずだ。そして小説は既にそうした世界を幾度も繰り返し描写している。
囚人は、想像力によって光の速さを超え、宇宙のすべてを説明させられようとしているのではないだろうか?囚人の小説が説明書ならば、この宇宙を見たことがない者のための説明書に違いない。すなわち小説は、全体として、この宇宙が消滅したあとのための、我々の言語による記録なのだ。
わたしの仮説が囚人達に受け容れられたとは言い難い。わたしが発狂しているという非難を除けば、主たる反論は次のようなものだ。ヒトの脳の構造がおおまかに一定である以上、囚人達の想像力の方向性にも偏りが生じる、だから囚人に書かせるよりは、たとえば滴り落ちる雨粒のリズムの中にランダムな文字列を求め、そこから無数の小説を見出すほうが効率がよいのではないか。
この主張に対して、わたしはこう言いたい。無秩序なものの中に宇宙の説明書が浮かび上がるとしても、無秩序から意味を汲み取るのはけっきょく人間である、と。その作業こそは、想像力を駆使して宇宙を描写しようとする小説家達の執筆行為そのものだ。