メヌエット
※後半より、第一の選択肢の世界線の結末を迎えた前提のお話になります。
「それ、よくやってるな」
今日泊まる予定の宿で、目の前に座っているテオドールは私に問いかけた。
『それ』がなんのことだかわからずに首をかしげると、飲んでいたお茶のコップを置いて私の指を指し示した。
「その、指でとんとんってやつだ」
「とんとん……してた?」
それでも思い至らず疑問でいっぱいの表情だったのか、こういう感じに、とテオドールが実践してくれた。長くしなやかな指が机の上で流れるように動き、これか、と思った。考え事をしていて完全に無意識だった。確かに思い返すとよくやってるかもしれない。
「ごめん、気になったよね」
「いや……早さが変わったりするが一定の型があって、なんの動きだろうとずっと思っていた」
落ち着かなくて不快だったかもしれない、と思ったけれど、単純に気になっただけみたいでほっとする。
「これは……えっと、ピアノっていう楽器を習ってたから、そのクセというか……」
ピアノに聞き覚えが無さそうだったので、開いていたノートに簡単にピアノと鍵盤を描いてテオドールに見せる。
「こういう大きな楽器で、こうやって音を出すんだ」
ノートの鍵盤をコツコツと弾く真似をすると、私のやっていた動きに納得がいったのかなるほどとテオドールが頷く。
あの音色の説明は私には難しい。鍵盤を押すと対応した音がぽろんと鳴って、両手の指を全部使って色々な表現ができる、と説明した。
小さな頃自分でやりたいと言い出して始めたらしいけれど、長く習っていたわりにやっていたのは基礎練習と発表会でやった何曲か。あとは学校での伴奏。好きだったポップスの楽譜は結構持っていたけれど、完璧に弾けるまで練習もしていない。レッスンもだいぶ前にやめてしまって、でも、ふとした時に頭のなかで音楽を口ずさみ、それに合わせてつい指が動いてしまう。どの指かを示すとき無意識にドレミで数えていたり、私の日常にも刷り込みのように染み付いている。
「もう何年も弾いてないなぁ……」
実家のピアノも長らく調律していないはず。この異世界から帰れたら、久しぶりに蓋を開いてみようか。
「好きなんだな、その楽器」
テオドールの言葉に、自分の中でも少し驚いた。大きくなってからは思う通り弾けないことに辛くなって、練習もストレスでしかなくて……自分ではずっと弾く気持ちになれなかった。でも、確かに、好きだ。こうして手持ち無沙汰に真似事をするぐらいには。最初はただ好きだからこそ、やっていたはずなのに、そんなことも忘れていた気がした。
「……うん。たぶんすごく、好き」
「……そうか」
俺も聞いてみたい、とテオドールは笑ってそう言ってくれた。
笛とか弦楽器、太鼓みたいなものはあったけれど、さすがにこの世界にピアノはないかもしれない。もし可能性があるとしたら、教会──アインヴェルトなら神殿がそれにあたる──もしくは酒場の類い。残念ながら今までの行程では見たことがない。
指も動かないだろうし、聞かせられるような腕でもない。でも、もしこの世界でピアノに出会えたら、必ず弾くと約束した。
◆
たくさんの人があふれる街には自分の世界に存在しなかった様々なものがあって、つい目移りしてしまう。ユウキと歩いていると、硝子の向こうに飾られているものが目につき思わず足を止めた。
「どうしたの?」
「ユウキ、これは……」
同じく足を止めたユウキもその中を覗きこみ、ぱっと顔を明るくした。
「うん、ピアノだよ!」
これが、ぴあの。近寄ってみると以前描いていたものとは形が違う。この建物の奥にも色々な大きさのものがあるようだ。
ここは楽器が売っている店なのだとユウキが教えてくれる。店の中には他にも多種多様な楽器が展示されていて、何よりその種類の豊富さに圧倒される。
「……ピアノ、聞いてみる?」
「できるのか?」
あの世界のどこかの町でした約束。ユウキなら忘れないと思ってはいたが、ちゃんと覚えていてくれたことに嬉しさを感じる。
奥にいた店員に何やら声をかけ、大丈夫という手振りをしながら戻ってきた。
「許可をとってきた!」
もう全然弾けないと思うけどね、と苦笑いながらユウキはピアノの前へと背筋を伸ばして座った。こうだったかな、こうのはず……と確かめるように呟きつつも、両手が鍵盤の上を踊り出す。
その指から生み出される音が、探るようなものからまるで歌うように、だんだんと変わっていく。そうだ、そうやって指を動かしていたあの時も、歌っているみたいだと思っていたんだった。
「いっぱい間違えたけど、案外体が覚えてるね」
息をついたユウキはこちらを振り返り、ニッと笑うと俺の手を引いて隣に座らせる。
「今度はテオの番ね」
「俺が?」
楽器の類いに縁がなかったので、聞いたことはあっても演奏したことは今まで一度もない。出来るんだろうか。
親指はここ、とユウキが俺の右手を鍵盤に置くと、俺より左側で弾きながら音の説明をする。音が階段のように少しずつ高くなる。高さは違うが、こことここは同じ。なるほど。
「テオは手が大きいからオクターブ押さえやすそうだなぁ」
楽しそうなユウキを真似て同じように親指から順に押していくと、それにあわせて小さく音が鳴った。……思ったよりも鍵盤が重い。
簡単なものを、と教えられた短い曲を練習して覚える。その旋律は確かに複雑ではないが、実際に指を動かすともつれてしまいそうだ。
「じゃあテオはそのまま右手を弾いてね」
そう言うと、ユウキは添えるように左手を置いた。
途中ひっかかりながらも、教わった通りたどたどしく音を鳴らしていくと、小さな鼻歌で旋律をなぞりながら、併せてユウキの指が動く。二人で奏でる別々の音がひとつの曲になる。
高揚感、と言えばいいだろうか。鼓動が少し早くなるような昂りに息を吐く。最後の音が終わっても鍵盤から手を離せずに、その余韻を噛み締めた。
あの世界でピアノの話を聞いたとき、楽しそうなユウキに微笑ましさを感じながらも、憧れというか、羨ましさというのか、どこか眩しい気持ちで見ていた。指が踊るようなこの感覚。俺にも少し、わかったような気がした。
「どうだった?」
隣のユウキは、楽しくて仕方がないといった様子で俺を見上げている。
「確かに、楽しいな」
俺の答えに、ユウキはそうでしょ、というように満足げに頷いた。
『メヌエット』
ヨーロッパの舞曲のひとつ。ワルツと同じく三拍子だが、そのテンポはもっとゆったりとしている。




