01 邪龍、死す
地面に転がった両刃の剣。輝きを失っていく魔法陣。馬車のようなものの残骸と、横転した荷台。そしてそれらが運んでいたと思しきいくつもの木樽。ピクリとも動かない、金属鎧で武装した人々。
周囲にあるそんなものを見なくても、俺が――柳洞龍画が異世界に来てしまったということだけは瞬時に理解できた。
「異世界の人間はいかなる味かと楽しみにしておったのに、こやつは男ではないか。つまらぬ」
大きな――体高十メートルを優に超える、黒紅色のドラゴンが、俺を足で踏みつけながら酷く残念そうにため息をつく。それにとっては軽く抑えつけている程度の力加減なのだろうが、強い圧力で腹部を押さえつけられた俺には、呼吸さえもままならない。
力を詰め込んだかのような強靭な四肢。目に見えて頑強な、鉄のように輝く鱗。地面に大きな影を残す一対の羽。ゲームや物語の中にしかいないはずのその存在は、他の全てを塗りつぶすほどの威圧感をもって、自身を過剰なほど鮮烈に主張していた。
「おい、お前。言葉はわかるのだろ? 面白い小噺でもこさえてみよ。楽に殺してやるかもしれん」
「がは、ゲホッ……」
足が退かされる。
咳き込む俺を見下ろす眼は、ぞっとするほどの喜色に満ちていた。――楽しんでいるのだ、俺が苦しむ姿を。
「……」
「うん? なんだ、口が利けぬか? それとも、腕の一本も捥げば何か鳴いてみせるのか?」
伸びてくる巨腕。俺は何も考えずに口を開いた。
「――ドラゴンとかけまして、出帆の合図とときます」
「ふむ?」
「どちらも、銅鑼をゴンとするでしょう」
「お前は嬲ってから潰すとしよう。そうだな、生きたまま全身の肉を剥がし、身体中の骨を剥き出しにするのはどうだ? 時間潰しに丁度いい」
お気に召さなかったらしい。慌てて二の句を継ぐ。
「いや、待ってください。あー、め、珍しい味がするかもしれませんよ?」
「ほう、食われたいのか?」
「その、丸々と太って帰ってくるので、しばらくその辺に放置していただければと」
「なるほど面白い。ではお前の口に腹が裂けるほど人の肉を詰め込み、それをまとめて食ってみるか」
「ざ、斬新な発想ですね……」
引き攣りすぎた愛想笑いに、ドラゴンが伸ばしたままの腕を揺らし、邪悪な笑みを浮かべる。必死に足掻く俺の姿が、楽しくてたまらないというように。
「だが人間よ、我は若い娘しか食わぬのだ。柔らかい肉のついた足から順にゆっくりと食べていって、甲高い悲鳴を上げる頭を噛み砕き、最後に長い髪を啜るのが美味い」
「良い趣味をお持ちだと思います!」
「はは、そうだろう。故に、お前など普段なら潰して終わりなのだが……」
瞬間、ドラゴンの手が動く。一歩逃げることもできないほどの早業に、俺はあっさりと捕らえられた。
凄まじい握力に、肋骨が軋む。
「ぐ、あ……!」
「お前のせいで、異世界の味というものに興味がわいてしまった。どうやって責任をとるつもりだ?」
「っ、う――」
「ああ、すまん。元よりお前に聞くつもりなどない」
俺を掴んでいない方の手で、ドラゴンが長い爪を使い、自身の手の平を軽く切った。
小さな傷口から流れる血が、滴となって地面に落ちる。――ジュウ、と音を立てて土が溶けた。
「さあ、口を開け。我の血を飲むがいい」
「……!」
「拒むな」
俺を持つ手が強く握られる。呻きとともに口を開いてしまい、そこに真っ赤な血が注がれた。
※
目が覚める。辺りはすっかり暗くなっていた。
仰向けになった俺が見る先に、暗がりの中でも強くその存在を主張する、黒紅色の鱗が映った。
「ほう、よく飲み干したな。大抵の者が内側から焼け死ぬ猛毒だというのに」
咄嗟に逃げ出そうとして、身体が固まる。まるで意志に反して肉体が動くことを拒んでいるかのように、身じろき一つできない。
「もはやお前は、我が死ぬまで命に逆らえぬ。――もっとも、今から喰らうのだ、関係のない話か」
喜色に滲んだドラゴンの声に対し、唯一動く口を開く。
「い、いや、若い娘しか食べないんでしょう? 考え直――って、え?」
声に違和感を覚える。嫌な予感に、汗が垂れるのを感じた。
「気付いたか? いいぞ、その身をよく見てみろ。我が好みの、美味そうな肉だ」
身体が自由を取り戻すと同時に、起き上がって自身を見る。
「…………へ?」
――男であるはずの自分の身体が、少女のそれへと変わっていた。
いつの間にか服は剥ぎ取られており、一糸まとわぬ状態だ。細い胴体と、透き通るように白い肌が否応なしに見える。
それほど大きくはないが、胸も確かに盛り上がっており、股間からはあるべきものがなくなっていた。
四肢もまた細くしなやかなものになっていたが、肘膝より先は赤い鱗に覆われ、指先に鋭い爪がついた、ドラゴンのものへと変化してしまっている。
人間とは思えない見た目になった手で、頭に触れる。――長く、さらさらとした髪の感触と、額から伸びる、二本の硬質なものが手に当たった。
「な、なんだこれ……」
「もはやお前は我が眷属、龍の巫女である。戻りたければ我を超える力を手にするしかない。ああ、手足や角だけではないぞ、瞳も既に龍のものだ。目に魔力を込めれば、自分がどうなったかわかるだろう」
その言葉に、思わず目を見開き――それと同時に頭の中で情報が浮かび上がった。
柳洞龍画/Lv1
種族:ドラゴンメイド 状態:眷属化
職業:サクリファイス
能力:龍眼/Lv1、眷属/Lv5
……あまりにもシステム的、というかゲーム的だが、これが今の俺の状態ということなのだろう。
「状態」の欄に「眷属化」という表記がつき、「種族」……おそらくは人間と記されていたのだろう項目が、「ドラゴンメイド」という聞き慣れないものになっている。
というか、「クラス」にある「サクリファイス」というこの単語、確か「生贄」って意味では――
「では、晩餐の準備としようか。ちょうど奪った酒樽も転がっている。異世界人を召喚するための魔法陣も手に入ったし……まったく、先んじて踏み潰しておかねば、あの行商人に感謝してしまうところであった」
ドラゴンが、横転した荷台から転げ落ちた樽の一つを手元に寄せる。樽の側面に書かれたのは見慣れない文字だったが、「酒」という意味であることが理解できた。どうやら本格的にディナーを始めるつもりらしい。
何とかしなければ、確実に食われる。
だが、何とかといっても対策が浮かばない。というかこの世界のこともこのドラゴンことも何も知らない現状で、対策が浮かぶはずもない。
ドラゴンは樽から桶のような器に酒を注いでいく。晩餐の準備というのがどれほどかかるのかは知らないが、それほど猶予はないだろう。
何か、少しでも情報をと、全霊で両目に力――ドラゴンがいう「魔力」らしきものを込め、眼前の巨体を注視する。
先程と同じように、頭の中に情報が浮かんだ。
邪龍ウィルム/Lv602
種族:エルダードラゴン 状態:---
職業:ブラッド・スワッシャー
能力:眼力/Lv1、咆撃/Lv5、龍血/Lv5
……つよそう。
すごく強いということはわかるが、あんまり参考にならない。
「珍しい肉に大量の酒。良いな、今日は良い日だ」
言いながら伸ばされる巨大な腕に、思わずビクリと反応してしまう。
怯える様が面白いのか、ドラゴンは心底楽しそうに笑い声をもらした。
「安心しろ、まだ食わん。いつ食われるかと恐怖する人間の姿は、我にとって最高の肴だ。十分に喉を潤すまで、怯えながら待っていろ」
笑いながら、ドラゴンは次々に酒樽を飲み干していく。
俺の顔がどこまで絶望に染まるかを楽しむように、その晩酌はいつまでも続き、そして――
※
――気づくと、朝になっていた。
「……あれ?」
途中で恐怖に眼を瞑ったのだが、そのままいつの間にか寝てしまったらしい。
一瞬昨晩のことは夢か何かではないかと期待したが、身体は少女のまま、手足は龍のままだ。
意外と太い自分の肝に驚きつつ、立ち上がる。
「動ける……?」
ドラゴンの意志には逆らえないはずの身体が、自由に動く。
何が起こったのかと辺りを見渡すと――見上げんばかりの高さにあった巨体が地に伏せ、ピクリとも動かなくなっていた。
寝ているのではない。瞼は開いたまま瞬き一つしないし、何より縦に割れていた瞳孔が開ききっていた。
「……えーと」
とりあえず、目に力を込めて、倒れたドラゴンを注視する。
邪龍ウィルム/Lv602 状態:死亡
「し、死んでる……!」
ということは、まさか……。
まさか、だが……。
「急性、アルコール中毒……っ!」
…………。
……いや、いやいやそれはないだろう。あれほど威風堂々としておいて、そんなまさか……。
「寝てるだけとか、死んだフリとかじゃ……」
本当に死んでいるのか、何かの手段で表示される情報を誤魔化しているのではないか――と思って石を投げたり木の枝で突いたりしてみるが、全く反応がない。
覚悟を決めて顔のそばに近付いてみたりもしたが、呼吸の気配は全く感じられなかった。
「じゃあ、つまり……」
……助かったのか。
正直予想外にも程があるが、今はこれを素直に喜ぼう。
俺は、生き延びたのだ。いややっぱりなんか素直に喜べないけど。
後は帰る手段を見つけなくてはならない。ドラゴン……邪龍ウィルムの言っていた「異世界人を召喚するための魔法陣」に手がかりがあるだろうか。上手く帰れればいいのだが……。
――と、そこまで考えてから、自分の身体を――この、両手足に鱗が生え、鋭い爪が伸び、頭には角なんかも生えていて、以前の姿とまるで共通点の見当たらない、少女の身体を、まじまじと眺め、呟く。
「………………これ、いつになったら戻るの?」