後編
その後、私がどの様にして館を逃れたのかは判らない。ただ、私は館から少し離れた農道で、狂気に陥って喚き散らしていた所を近隣の住人と警官に保護されたのである。その際に錯乱した私はかなり暴れたものらしく、一晩を留置場で過ごす事となった。
長い時間をかけて、どうにか正気を取り戻した私ではあったが、最早あの呪わしき館に戻る気は無く、その全てを処分する決心をした。最早、あの不浄の空間に存在した物体に、再び触れる勇気を持たなかったのである。
館に残された貴重品以外の家財と、おびただしい書物の山は、廃品回収業者と大型古書店の手に委ねた。無名祭祀書にナコト写本、ガールン断章に、妖蛆の秘密に、ルルイエ異本等……数々の貴重な書物を、手放すのは心苦しい物があったが、あの夜の出来事を思い起こさせる物品は総て処分してしまいたかったのだ。
本自体がかなり古びており、一部の書物に関しては、著者のサインが入っていると言う事が、真贋の可否が付かぬ事から落書き扱いされ、あわや買い取り拒否の憂き目を見る処であったが、どうにか全部買い取ってもらう事が出来た。
それらで得た金を全て注ぎ込んで、やよい軒で遅い昼食を済ませると、私はようやく狂気の世界から抜け出して、人類の世界に戻って来たことを実感したのであった。
しかし、この世に潜む恐怖の真実を垣間見た私には、最早、安息の眠りは訪れないのだ。あの日以来、例の恐怖は常に私に付きまとい、恐怖に満ちた怪異を追体験する毎に、私は逃げるようにして住居を次々と移り変わった。
最早、蓄えも尽き、この新築の共同住宅が私の最後の住み処となる事であろう。ここもいつまで安全かは判らない。だが、建って間もないこの部屋ならば、しばしの安息を得る事が出来る。最早、狂気に精神を苛まれた私は、小説を書く精神的余裕を失ってしまった。その変わりに、うわべだけの平穏を取り繕う世間の人々に対して、この警告の書を書き記す事にした。
人類は世界の大半を支配したつもりで、見せ掛けの繁栄を謳歌しているが、結局の所、その社会の至るところに潜む暗闇や狭間には、恐怖と混沌が潜んでいるのである。それは、今はまだ、私のような不運な犠牲者を産み出すだけで済んでいるが、永劫の果てには奴等は一斉に立ち上がり、脆弱な人類の世界を隈無く多い尽くしてしまわないとも限らないのだ。
少なくとも私が生きている内に、そうならない事を望む。今、少なくともこの空間は安全ではあるが、いつの日か、あの忌まわしきものどもは、私を見つけ出して、再び私の前に現れるであろう。だが、今夜くらいは奴等を忘れ、平穏な眠りを……
いや、まさか! そんな!
あの黒い動くものは何だ!
壁に! 壁に!