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前編

 無関心と忘却は、神が人類に与えたもうた最大の恩寵であると、私は考える。それはこの世の裏側に潜む数多の恐怖から私たちを遠ざけてくれるし、不運にも体験した有り得ない出来事の記憶を、忘却の彼方に押しやることで、自身の奔放な想像力が呼び込む、更に恐ろしい狂気を防いでくれるのだ。


 そうして世界は仮初めの平安に憩っているのだが、いつの日か恐るべき真実が明らかになり、世界の真の姿が顕になったとき、人類は呆気なく狂気に陥るだろう。私は、ある忌まわしい体験によって、その真実の一端に触れてしまった。今はただ、私の理性を苛む恐怖の記憶に対して、神がその恩寵を与えてくれる事を願うばかりである。


 当時、作家を志していた私は、騒々しい俗世間から逃れる為に、閑静な郊外に居を構える事を望んでいた。そしてある不動産業者の薦めで、格安で売りに出されていた、あの館を訪れたのだ。

 その館の以前の主は、ある種のいかがわしい噂のある人物で、近隣の蒙昧な住人達が夜毎に館から聞こえる悲鳴や怒号について、あれこれと無責任な噂を交わしている事は耳に挟んでいた。


 しかし、当時はそうした迷信じみた噂話に関心を持たなかった私は、年を経た建物のみが帯びる、ある種の風格と神秘性に打たれて、ほぼ即決で売買契約を不動産業者と交わした。そして、館の古風な雰囲気を崩さない様に、改装は最小限にとどめて、工事が終わるのと同時に転居を済ませたのだった。


 館は、私一人が住むには十分すぎる程の広さを備え、二十世紀初頭の古き良き時代を思わせる装飾と細工が至るところに散りばめられていた。事に、二階の書斎の窓からは、人気の無い丘と黒々とした森林を一望出来、丘の稜線に夕日が沈む時には、空や森が燃え上がるかの様な夕焼けの、素晴らしい眺めを独占する事が出来た。


 この最良の環境は私に心地よい霊感を授けてくれ、私はこの館に住んでからたちまち数本の短編小説を書き上げた。それは、この世の裏側に潜む恐怖、人の目に触れない暗黒の深淵に蠢く怪異を描いた物語であり、これらは勝手にランキングを経てたちまち評判になった。


 そして私は大分前から計画していた、書籍化を狙った異世界転生を題材とする、野心的な長編小説の執筆を始めたのだが、その頃から顕著になり始めた異変によって、その執筆は遅々として進まなくなってしまった。


 私には家族はおらず、館には使用人も入れていない。にも関わらず、執筆中にも就寝時にも私はこの館に何かが徘徊しているかの様な奇妙な気配を感じ取っていた。最初は執筆作業による精神的な疲労と、睡眠不足のせいにして、その気配を無視していたが、その何か異様な存在がもたらす妖気は、いつの間にか館全体に満ちあふれ、いつしか私は壁の中に潜む未知の存在に怯える様になっていた。


 そして、ある夜に私は、あの呪われた忌まわしき存在との対面を果たしたのである。


 あの夜、私は執筆の遅れを取り戻そうと、夜半を過ぎても床に就かずに、書斎の机に向かって一心不乱に執筆作業を続けていた。数奇な運命に導かれて不慮の死を遂げた主人公の霊魂が、未知なる異世界に転生を果たし、その世界を統べる全なる存在にして、不正技能付与を司る女神と遭遇する光景を描写している時に、それは起こった。


 執筆に熱中していた私は、不意に背後に暗黒めいた狂おしい気配を感じとり、身動きが取れなくなった。私は、これまでに感じていた気配と禁断の書物がもたらしてくれた知識によって、この気配の正体をおおよそ察していたのだが、それでも尚、深遠の存在がもたらす恐怖の真実……その具現化した存在を実際に目にする事を躊躇っていたのである。


 しかし、その邪悪な気配は消えるどころか、ますます強くなり、その恐怖と圧迫感に耐えかねた私は、ついに背後を振り返って、その気配の根元たる存在を目にしたのだ。

 それは、私の背後に位置していた、キャビネットと壁の境界にある有り得ないほどの狭い隙間から、狂おしい蠢動を繰り返しつつ、書斎の床に這い出て来たばかりであった。


 その姿は、三インチを越える体を有し、見るものに、おぞましい嫌悪の感情を呼び起こさずにはいられない、奇妙な楕円形に近い体型をしていた。その体表は、深淵の暗黒を嫌が上でも連想させる闇色をしながらも、まるで油をひいたかの様な不気味な光沢を帯びていた。

 そして、おおよそ人間や地上のあらゆる獣とは異なる形状の棘の生えた脚が、人間の体型で言えば胸にあたる箇所から三対も生えており、更に本体に対して大きめな複雑な形状の羽が、胴体の上部に折り畳まれて収納されていたのだった。

 しかし何よりも、私に嫌悪と恐怖の感情を抱かせたのは、不気味な複眼を有する小さな頭から伸びた、一対の髪の毛の様に細い触角であり、それは自らの飢えを満たすべく、獲物を求めて狂おしい動作を繰り返していたのだ。


 それは正に、ムーやアトランティス、ハイパーボリアよりも旧き時代から、人類の支配の及ばぬ暗黒の空間に潜み、時おり我々の世界に這い出しては狂気と混乱をもたらして行く、かの呪われた忌まわしき存在に他ならなかった。


 私は逃げる事も戦う事も敵わずに、その忌まわしきものが放つ邪悪な気配に圧倒されて、本棚の並ぶ書斎の角に追い込まれてしまった。しかし、奴は明確な意思と悪意を持つかの様な動きで、更にこちらに近づいてきた。最早打つ手が無くなったかと思われた私の眼に、背後の本棚に並ぶ魔導書の背表紙の烈が飛び込んできた。忌むべき禁断の知識の力を借りる事に、些かの抵抗を覚えた私だったが、最早、一刻の猶予もない。


 止むを得ず、私は本棚の中から、一番手元に近かったネクロノミコンの稀少なラテン語版を取り出すと、堅く閉ざされた表紙を開く事もせずに、足下の忌まわしきもの目掛けて一気にそれを振り下ろした。


 狂えるアラブ人、アブドゥル=アルハザードが生涯を賭けて記した、禁断の知識を秘めた分厚い書物の背表紙は、忌まわしきものを完膚無きまでに叩き潰した。強靭な生命力を秘めた忌まわしきものと言えども、当初の原型を全くとどめず、吐き気を催す様な異次元の色彩を湛えた体液と、潰れた臓物の塊と化していた。


 こうして、暗黒の使者との戦いを終えた私だったが、今や私は、これで全てが終わった訳では無い事をはっきりと悟っていた。私は、不浄な粘液に塗れたままのネクロノミコンを携えて、ゆっくりと階段を下り、恐怖と狂気の根源たる場所……台所へと歩み寄った。


 そこは、この館の不浄の根源にして、私にとっても未知なる領域であった。何故ならば、普段から外食と店屋物を主体に食事を済ませていた私にとって、この場所は全く不要の領域であり、館を改装する際にもほとんんど手を入れなかった場所であったのだ。


 このまま逃げ出せば良かったのだ。しかし、私は何かに憑かれたかの様に、狂気と混沌の根源を確かめようとして、軽率にも転居以来、堅く閉ざされていた流しの下の戸棚の封印を解き放ったのである。


 ああ、ああ、何と言う事であろうか。解き放たれた禁断の秘所には、名状しがたい暗黒の混沌が渦巻いて……それはまるで一つの意思を持った群れと化して、膨張しながら拡散して台所一杯に……


 記憶が霞んでいる……知っていたはずなのに、目をそむけていたものが、今や部屋中のみならず……奴等が私の全身を這い回っている……


 神よ! どうか恩寵を! 私は狂ってなどいない! 奴等が這い回る恐ろしい音がする。今やその恐るべき羽を広げて、狂気に満ちた飛翔を行う個体さえ! 外へ逃れたい……いあ……いぐぐ…………ぎぎぎ…………


 奴等がいる……ここにいる……漆黒の群れ、黒光りする個体……六つの脚……救いたまえ……二つに別れた蠢く触角…………

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