6 赤い蝶
「相談?」
「ああ……その、お前、今時間大丈夫か?」
「何だよ、気持ち悪いな。そんなこと尋ねるとは、オリエじゃないみたいだ」
いつもの調子でからかったが、オリエは乗っては来なかった。
蒼白な顔色で、こちらをじっと見詰めるだけだ。
伝えたいことは分かってはいた。
それでも、こちらから切り出すなんてまっぴらごめんだった。
だから、指一本動かない無動作の中で、オレはいつまでも待っていた。
「……元締めのアジャイに誘われてる。自分のところの蝶吐師にならないかって」
「なるほどな」
分かってた、最初から見えてたんだ。
アジャイのヤツがオリエとカマラを、多少無理してでも会わせたがった理由。
結局、これを狙っていたんだろう。
2人の息が合うことを、アジャイはその恐るべき嗅覚で見抜いていた。
辺境の街とは言え、多くの蝶吐師を育ててきた男だ。
「それで?」
「……悪くないと思ってるんだ」
「カマラがアジャイの傘下にいるからか」
「ああ。アジャイは、俺が動かないならこれを最後にすると指してる。俺とカマラが今後も共演するなんて認めないって」
「だからって」
だからって、将来を全部投げ捨てるつもりか。
ここまであんたを守って、のらりくらり躱してきたオレの苦労も何もかも一緒に。
いつかこの街を出て、中央の輝かしい舞台に立つ。
世界中にあんたの蝶を飛び立たせる。
そんなどこにでもある……どでかい夢を。
何もかも全部ぶちまけてやりたかったが、オレの言葉が自分本位のオリエの心に届くとは到底思えなかった。
黙り込んだオレの顔を窺うようにちらちら見上げながら――オリエは更に指を揺らした。
「それだけじゃなくて」
「何だと?」
「俺がアジャイのところに移るなら、マネージャも自分のとこで用意するって……マネージャを2人雇うなんて無意味だから」
「おい! あんた、まさかオレのこと――!」
胸元から血が沸き立つような怒りだった。
上げた手首まで熱と共にこみ上げた言葉を、咄嗟に、壁にぶつけてなかったことにした。
今オレが何を指したのか、多分オリエには分からなかっただろう。
もちろん、オレにも。
分からない。
分からなかった、つもりだ。
こんな感情、表に出せるものか。
壁と擦れた拳が傷付いて、壁を伝って赤い線が流れ落ちた。
オリエが少しだけ眉を寄せる。
「何やってんだ……」
「あんただろ、それは」
オレは壁から手を離し、両手を振る。
血しぶきが散ったが、少しも気にならなかった。
「なぜそんな話になった。マネージャまで替える必要があるのか? オレにカマラのような才能がないからか? オレと一緒じゃ世界は狙えないって見切りをつけたのか?」
「もう決めたんだ」
オリエへ詰めよりながら重ねて問いかける。
彼はオレから目を離さず、後ずさりもしなかった。
「じゃあ、理由を説明してみろ。金か、女か、どっちにしろ、どうせ一時の気の迷いだろうが!」
「俺が気の迷いだったって後から泣きついたとして、許してくれるつもりなのか? ずいぶん心が広いんだな」
分かっている。
オリエは金にも女にもぐだぐだだが、蝶吐にかけてはいつだって真剣だった。
そいつがマネージャを替えるなら、それはそういうことなのだろう。
気が変わって泣きついてきてくれるなら、その方がよっぽど良かった。
いつものワガママの一環なら。
たとえオリエの指したように、プライドはないのかと誰かに嘲られたとしても、オレは受け入れるに違いない。
「……何でなんだよ。オレの何が悪かった……」
指先がうまく動かない。
ぎこちない言葉を、それでも目の前のオリエには伝わっているようだった。
微かに首を傾げたオリエの、白い指先が翻る。
「お前は悪くない。ただ……」
「ただ、何だ」
もっと上がいるってことか。
自分のやりたいことには届かないってことか。
オレの手を見詰めたまま、オリエは指を組み合わせ、蝶の形を作った。
「ただ、俺のステージは常に最高でなければならないから」
そのステージには、カマラが絶対不可欠だ。
だから。
その言葉で、オレは全てを理解した。
オリエにとってのオレは、昨日までのステージに必要な灯火だった。
明日からのステージには、もっと輝かしいスポットライトが当たるのだろう。
灯火は役目を終えた、そういうことだ。
項垂れたオレを見て、オリエは微笑みのような困惑のような曖昧な表情を浮かべて見せる。
あの美しい蝶を吐く唇を、微かに緩めて。
「お前は良いマネージャだった。別に、俺みたいな根性曲がりにいつまでも付き合ってなくても、お前くらいの能力があれば、マネージャとしていくらだってやっていけるよ。だからさ。お前も、他に稼がせてくれるヤツを探して、そいつと次のステージを……」
ステージ、と指したオリエの白い手を、咄嗟に両手で包んだ。
拳についた赤い血が、指の間を伝ってオリエの手を汚した。
見開いた青い瞳を、正面から睨みつけた。
「あんたの言いたいことは分かった――だが」
その手を包み込んだまま、不器用に自分の手を動かす。
オリエもまた何かを答えようとしたけれど、オレの手の中に閉じ込められた蝶のように羽ばたくだけで、何も伝えはできない。
「だが、オレがステージに立たせたいのは――」
オレの手の指す不格好な蝶の内側から、赤く濡れた蝶が滑り出る。
蝶の形のまま固まったオリエの指先が、小刻みに震えていた。
オレの作った赤い蝶の示す意味は――!
先に目を逸したのは、多分、オレだ。
淀んだ空気に堪えきれずに。
踵を返す背中で、オリエの手が動いた気がしたけれど――振り返ることは出来なかった。
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契約の破棄なんて簡単なことだった。
翌日からオリエはアジャイの運営する劇場に赴くようになり、そしてそのスケジュールはオレには一切知らされなかった。
事前に知らなくとも、告知は打たれている。
オリエとカマラ。センセーショナルな組み合わせの蝶吐は、アジャイの劇場に人々を送り込む。
連日満員のニュースは、とっくの昔にオレの目に飛び込んでいた。
オレは人混みを掻き分け、劇場の端に滑り込んだ。
マネージャとしてじゃない、ただの客として来ただけだ。
入り口で、見知った顔のモギリの男が、哀れみを込めてオレを見ていたが――手を動かす気にもなれなかった。
アジャイなり管理人なりが飛んでこないところを見ると、正規の方法で鑑賞するくらいは見逃して貰えたようだ。
オレの訪れが、オリエにまで伝わっているかどうかは知らない。
知る必要もない。
劇場の幕が上がる。
中央に立つオリエとカマラにスポットが当たる。
オレがいたはずの舞台袖には、見知らぬ男が一人立っている。
値踏みするような目で主役の2人を眺め、何やら手帳に書き込んでいる。
かつてはオレもあんな風に見えていたんだろうか。
この素晴らしいショーを、蝶吐を、帳面の上で理解しようとして。
さあ、ショーが始まる。
唇を開いたオリエの喉から、赤い蝶が続けて込み上げてくる。
微笑みかけたカマラの唇が、赤を追いかけて青い蝶を生む。
空中で絡み合う赤と青の羽ばたきに、頭が揺らされる。
見上げているだけで、身体から失われたどこかの器官で、熱を帯びるような思いがした。
ステージに吸い取られるように時間は瞬く間に過ぎていき――そして、最後の蝶が浮く。
黄金の雫を滴らせる、官能の翅。
夜の帳を越えて、星へ重なっていく。
青空を潜り、揺れながら惑う蝶。
ライトに反射する鱗粉が、七色に濡れる。
観客の頭を飛び越え、客席を回っていく黄金の蝶が、ふと、オレの前に沈んだ。
邪魔するつもりじゃない。ただそのきらびやかさに目を奪われて――無意識の内に手を伸ばす。
節くれだった右手の、広げた指の間を、黄金の蝶がすり抜けていく。
こんなにも近くにいるのに、決して捉えられないオリエの蝶が。
独特のリズムで浮き沈みを繰り返しながら、蝶は天井へ向けて飛び上がっていく。
弾くライトが眩しくて、両目を塞ぎたくなるまで。
青い蝶の大群が、一斉に飛び立つ。
青に紛れて黄金は霞み――そして、最後には全ての蝶がかき消えた。
盛大な賛辞のハンドサイン。
観客が両手を振る中、オリエとカマラはそれぞれに頭を下げ、そして幕が降りた。
本当は、こうして確認をする必要もなかった。
たとえオレの手を離れたとしても、オリエは最高の蝶吐師だ。
ライトが落ちて、薄闇の戻った客席で、一人手を見下ろす。
すり抜けた指先に、捕まえ損ねた黄金の鱗粉が纏わりついている。
オリエは、オレがここで見ていることを知っていたのだろうか。
アジャイでも、あのモギリの男にでも尋ねれば、その答えは容易に得られるのかも知れない。
だが――オレは何も問わず、ただ客席を後にした。
彼の全ては、蝶によって語られるのだから。
カマラとオリエのステージは、ついに始まった。
涼やかな青と魅惑の金色。
あの美しい二匹の蝶は、重なりあって羽ばたいていく――誰にも引き止めることは出来ない。
じゃあ、オレは――?
1人残されたオレは何をすべきだろう。
他人の翅に自分を預けていたオレは。
劇場の中から見れば、出口の向こう、外はまだ明るいようだ。
差してくる夕日の黄金に、ふと、瞼の裏に残像が蘇る。
誘うように舞い、オレを呼ぶ黄金の蝶。
例えオリエを失っても、オレにはオレのステージがあるはずだった。