5 水底に沈む
群なす青い蝶が飛ぶ。
頭上を、澄み渡った清流のように、真っ直ぐ未来を目指す翅が重なりながら光り流れ
群れの隙間を縫って、黄金の蝶が、揺れる小舟のように身を捩らせる。
静かな知性を時折くすぐる官能の羽ばたき。
蕩け落ちる金色の鱗粉を撒き散らして、時に青の底に沈み、そしてまたすぐに浮かび上がった。
周りの観客達は皆、心奪われたように、流れていく蝶を凝視している。
オレは一度だけ観客を見回して――そして、再びステージの上に視線を戻した。
ステージに立つオリエとカマラが、互いに視線を絡ませて頬を緩めるのが見えた。
客席から、オリエのステージを見るのは何年ぶりだろう。
いつも舞台袖から見るあの横顔を、こうして正面から見守るのは。
あのオリエが他の蝶吐師と初の共演をするということで、無名だったはずのカマラは一躍注目を浴びることになった。
カマラを擁するオーナのアジャイは大喜びだ。
ステージの全てを取り仕切り、外からは一切口を出させなかった。
……オリエのマネージャであるオレにさえ。
アジャイが邪魔者を全部シャットアウトし、持てる力を注ぎ込んで仕事をしたおかげ……かどうかはわからないが、ステージは大成功の内に幕を閉じようとしている。
見せたくはないが……良い蝶吐だった。
見慣れたオレすら、客席から立ち去り難くさせる程。
幕が閉じ切って、観客は興奮を抱えたまま劇場を去っていく。
その気配を背中に感じながら、オレは1人、茫然とステージを眺めていた。
良い蝶吐だった。
胸が痛くなるくらいに。
青と金の混ざり合う煌めき。
恥じらいながらも差し出される甘い官能。
見ている者を誘う優しい羽ばたき。
かつて、初めてステージのオリエを見たとき、彼の蝶は迫りくるような威圧を纏っていた。
あの日、彼は、ただ1人で完璧だった。
誰もその世界には立ち入れない、唯一にして絶対の魅惑の蝶を吐いていた。
今夜、カマラと共に飛んだオリエの蝶は、包み込むようだった。
何もかも受け入れて、抱きしめるような温かさだった。
あの黄金を思うと、胸のが疼く。
今にも喉奥から、柔らかな鱗粉を纏った翅がこみ上げてきそうな程――
「――ねぇ」
背後から背を突かれた。即座に唇を引き結んで、振り返る。
「ぼんやりしているわね」
立っていたのは、先程のステージで聖母の笑みを浮かべていた女だった。
「……カマラか」
「どうだった? あたしたちのステージ」
その言葉に嫌なニュアンスを感じたのは、オレの被害妄想だろうか。
この歴史に残る素晴らしいステージに、何一つ関われなかったオレの。
「つまらない顔してる」
「……いや。今夜も良かったよ」
「それ、あたしのことかな。オリエのこと?」
「あんたのことは、『今夜も』なんて指すほど見てない」
オレの言葉を、カマラは嫌な顔1つせず頬を緩めて流した。
突っかかられさえしない手応えのなさに、余計に苛立つ。
「ずいぶん余裕じゃないか。オリエがついてれば今後も安泰だとでも思ってんのか?」
随分、質の悪い言い方だ。
自覚していても、言葉は止まらない。
微かに苦笑したカマラが、肩を竦める。
「それ、あたしのこと?」
さっきと同じ言葉を返された。
続く声がなくとも、それはお前自身の甘えだろう、と指摘されたのがはっきりと分かった。
オリエに頼って、その才能にたかっているのはお前だ、と。
言うべき言葉を失って動かなくなった片手を下げると、カマラが唇を歪める。
嘲笑われた――と頭に熱が上った瞬間、ぽってりとした唇の奥から青い翅が吹き上がった。
次々に湧き出る蝶の群れが、オレの頬を掠めて飛んでいく。
まるで川の中に立っているみたいだ。照り返す翅を煌めかせて蝶が流れる。
目を見開いたオレに向けて、カマラは指先で手招きした。
『あんたも、吐いてみなよ』
蝶は途切れずに流れ続ける。
いつどこで、息継ぎをしているのだろう。
永遠にでも吹き出しそうな蝶の奔流に向けて、オレは戸惑いながら口を開いた。
息を、吸う。
吐き出す空気とともに、喉の奥から軽い感触がせり上がる。
粉っぽい引っ掛かりを無視して、そのまま吐き出した。
灰色の丸い翅を必死に動かす、小さな蝶がオレの唇から滑り落ちる。
蝶は青い群れに紛れるように、跳び込んでいった。
美しく光る蝶達の中で、情けないほどちっぽけなオレの蝶。
『もっと』
カマラの手が、オレに更なる要求を示す。
断ろうと手を上げたが、その手を叩くように青い蝶が翅を当ててきた。
弾かれた手を下ろし、再び腹の奥へ息を吸い込む。
唇から続けて、3匹。
舌先から飛び立った蝶を必死に操って、カマラの方へ飛ばす。
漆黒の蝶はカマラの太腿を掠めるように羽ばたいた後、深海を思わせる深い青の中へと入り込んでいった。
黒は孤独の色。
暗闇、安定、何もかも飲み込む寛容。
『いいね、その黒。痺れる。そういうのもっと頂戴』
青い蝶が渦を巻くようにオレ達を囲んでいる。
ウェーブのきついカマラの赤茶けた髪が、蝶の翅に揺らされて浮いた。
オレは蝶を吐き続ける。
カマラのように途切れずには吐けなくとも、吐ききったら、すぐに吸い込んで、次を。
1匹の黒い蝶が、青い流れを泳ぎ切ってカマラの唇に届いた。
『ああ……綺麗、コレは良い。心奪われる翅のラインをしてる。ね、この色、あたしの目の色に似ていると思わない?』
唇から青い蝶が途切れた。
代わりに突き出した舌先に、オレの吐いた黒い蝶がとまっている。
喘ぐように翅が上下する姿を、真上から濡れた黒い瞳が見下ろしていた。
舌先に息を吹きかけ、黒い蝶がふわりと舞い上がる。
かつてはオレも、蝶吐師を目指していた。
あの頃、どうやって蝶を吐いていただろう。
吐いた蝶はどうやって踊っていただろう。
カマラの青い蝶に中央を譲りながら、オレの蝶は低い位置を旋回する。
青の軌跡を追うように飛び、残像を残す。
鮮やかな青を浮かびあがらせるための、黒い蝶。
たった数匹の蝶を操るのにすら必死なオレは、首筋に垂れてくる汗を拭った。
その数十倍は飛び交っている蝶を、思うままに動かすカマラの技量に舌を巻きながら。
初めての舞踏会で上級生にステップを教えて貰う少女みたいに。
いつしか、黒い蝶の先導した跡を、水滴が流れ落ちるように青がなぞっていた。
繰り返しお互いの軌跡を愛撫しながら、ふと、目が合ったカマラが軽く片目をつぶって見せる。
思わず笑い返してしまってから――自分の浮かべた微笑に驚いて、蝶から意識が逸れた。
途端に、作りの甘いオレの蝶が宙へ霧散する。
「……あーあ、残念」
本当に残念そうにカマラが手を振り――そして、青い蝶も全て掻き消えた。
まるで、そこには最初から何もなかったかのように。
しばらく宙を見つめてから、カマラは再びオレへと視線を戻した。
「でも、今の良かったわよね? 楽しかったわ、多分……オリエとセッションするのとはまた違って」
「モテる女は指すことが違うな」
「茶化さないで。真面目な話、あなた良いもの持ってるわ。……本気で目指しても良いと思うけど」
その言葉に揺さぶられて、夢から醒めたオレは立ち竦んだ。
かつて捨てたはずの明日を、強制的に心臓にぶち込まれたような気分だ。
「何を知ってる」
「何も」
睨み付けるオレを見て、カマラは骨ばった肩を竦めた。
「……アジャイから見せられたのは確かよ。オリエと組む前は、あなた自身が蝶吐師だったんだって」
予想していた言葉だったはずなのに、身体の表面のどこかが軋んでいる。
そう――軋んでいるのは多分、瞳。
オリエの向こうに理想の蝶を見ていたオレの両目が。
見たくないのにカマラから視線を逸せぬまま、オレは両手を動かした。
「見ただろ、この程度だ。鈍ったってのもあるさ。だが止める直前だってこんなもんだったんだ」
「悪くないじゃない」
「ああ、悪かない。だが、良くもない。少なくとも、オリエやあんたのように素晴らしくはない」
「へえ?」
小馬鹿にするようなひらひらした指の動きには、もう何も返す気になれなかった。
黙っていると、カマラの両手が追い打ちをかけてくる。
「それでオリエに全ての希望をかけて、大事に大事に両手の中に閉じ込めとくつもり?」
「バカな。あいつには飛んで貰わにゃならん。いつかあいつをでかいステージに立たせてやると誓ったんだ」
「それが、あなたの夢だから?」
「それの何が悪い」
初めてあいつのステージを見たあの日、オレは蝶吐師でいることを完全に諦めた。
打ちのめされた。
お前は絶対にあんなふうには飛べやしないと、両手よりもはっきりと示された。
だから。
「……閉じ込めるつもりなんかない。今は、あいつがオレの翅だ」
「オリエはあなたの翅なんかじゃないわ。あなたが、ただの影じゃないのと同じように」
カマラの言葉は骨ばって細く、だがしなやかに優しかった。
オレとオリエを引き裂くための両手の癖に。
「それ以上は、オリエから見て」
問い返した言葉を見る前に、カマラは踵を返していた。
その薄い背中の向こう、見慣れた金髪がちらりと見えた。
「オリエ……?」
「……ジェラ、ちょっと相談あるんだけど」
どことなくキレの悪い手振りから、彼が何のために劇場に残っていたのか予想はしていた。
出来れば予感は外れて欲しいと、祈りはしているにしても。