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蝶を吐く  作者: 狼子 由
5/7

5 水底に沈む

 むれなす青い蝶が飛ぶ。

 頭上を、澄み渡った清流のように、真っ直ぐ未来を目指す翅が重なりながら光り流れ

 群れの隙間を縫って、黄金の蝶が、揺れる小舟のように身を捩らせる。

 静かな知性を時折くすぐる官能の羽ばたき。

 蕩け落ちる金色の鱗粉を撒き散らして、時に青の底に沈み、そしてまたすぐに浮かび上がった。


 周りの観客達は皆、心奪われたように、流れていく蝶を凝視している。

 オレは一度だけ観客を見回して――そして、再びステージの上に視線を戻した。

 ステージに立つオリエとカマラが、互いに視線を絡ませて頬を緩めるのが見えた。


 客席から、オリエのステージを見るのは何年ぶりだろう。

 いつも舞台袖から見るあの横顔を、こうして正面から見守るのは。


 あの(・・)オリエが他の蝶吐師パフォーマと初の共演をするということで、無名だったはずのカマラは一躍注目を浴びることになった。

 カマラを擁するオーナのアジャイは大喜びだ。

 ステージの全てを取り仕切り、外からは一切口を出させなかった。

 ……オリエのマネージャであるオレにさえ。


 アジャイが邪魔者を全部シャットアウトし、持てる力を注ぎ込んで仕事をしたおかげ……かどうかはわからないが、ステージは大成功の内に幕を閉じようとしている。


 見せ(いい)たくはないが……良い蝶吐パフォーマンスだった。

 見慣れたオレすら、客席から立ち去り難くさせる程。


 幕が閉じ切って、観客は興奮を抱えたまま劇場を去っていく。

 その気配を背中に感じながら、オレは1人、茫然とステージを眺めていた。


 良い蝶吐パフォーマンスだった。

 胸が痛くなるくらいに。


 青と金の混ざり合う煌めき。

 恥じらいながらも差し出される甘い官能。

 見ている者をいざなう優しい羽ばたき。


 かつて、初めてステージのオリエを見たとき、彼の蝶は迫りくるような威圧を纏っていた。

 あの日、彼は、ただ1人で完璧だった。

 誰もその世界には立ち入れない、唯一にして絶対の魅惑の蝶を吐いていた。


 今夜、カマラと共に飛んだオリエの蝶は、包み込むようだった。

 何もかも受け入れて、抱きしめるような温かさだった。


 あの黄金を思うと、胸のが疼く。 

 今にも喉奥から、柔らかな鱗粉を纏った翅がこみ上げてきそうな程――


「――ねぇ」


 背後から背を突かれた。即座に唇を引き結んで、振り返る。


「ぼんやりしているわね」


 立っていたのは、先程のステージで聖母の笑みを浮かべていた女だった。


「……カマラか」

「どうだった? あたしたちの(・・・・・・)ステージ」


 その言葉てのひらに嫌なニュアンスを感じたのは、オレの被害妄想だろうか。

 この歴史に残る素晴らしいステージに、何一つ関われなかったオレの。


「つまらない顔してる」

「……いや。今夜も良かったよ」

「それ、あたしのことかな。オリエのこと?」

「あんたのことは、『今夜も』なんて指す(いう)ほど見てない」


 オレの言葉サインを、カマラは嫌な顔1つせず頬を緩めて流した。

 突っかかられさえしない手応えのなさに、余計に苛立つ。


「ずいぶん余裕じゃないか。オリエがついてれば今後も安泰だとでも思ってんのか?」


 随分、たちの悪い言い方(てぶり)だ。

 自覚していても、言葉(サイン)は止まらない。

 微かに苦笑したカマラが、肩を竦める。


「それ、あたしのこと?」


 さっきと同じ言葉サインを返された。

 続くがなくとも、それはお前自身の甘えだろう、と指摘されたのがはっきりと分かった。

 オリエに頼って、その才能にたかっているのはお前だ、と。


 言うべき言葉(ハンドサイン)を失って動かなくなった片手を下げると、カマラが唇を歪める。

 嘲笑わらわれた――と頭に熱が上った瞬間、ぽってりとした唇の奥から青い翅が吹き上がった。


 次々に湧き出る蝶の群れが、オレの頬を掠めて飛んでいく。

 まるで川の中に立っているみたいだ。照り返す翅を煌めかせて蝶が流れる。

 目を見開いたオレに向けて、カマラは指先で手招きした。


『あんたも、吐いてみなよ』


 蝶は途切れずに流れ続ける。

 いつどこで、息継ぎをしているのだろう。

 永遠にでも吹き出しそうな蝶の奔流に向けて、オレは戸惑いながら口を開いた。


 息を、吸う。

 吐き出す空気とともに、喉の奥から軽い感触がせり上がる。

 粉っぽい引っ掛かりを無視して、そのまま吐き出した。


 灰色の丸い翅を必死に動かす、小さな蝶がオレの唇から滑り落ちる。

 蝶は青い群れに紛れるように、跳び込んでいった。

 美しく光る蝶達の中で、情けないほどちっぽけなオレの蝶。


『もっと』


 カマラの手が、オレに更なる要求を示す。

 断ろうと手を上げたが、その手を叩くように青い蝶が翅を当ててきた。

 弾かれた手を下ろし、再び腹の奥へ息を吸い込む。


 唇から続けて、3匹。

 舌先から飛び立った蝶を必死に操って、カマラの方へ飛ばす。

 漆黒の蝶はカマラの太腿を掠めるように羽ばたいた後、深海を思わせる深い青の中へと入り込んでいった。


 黒は孤独の色。

 暗闇、安定、何もかも飲み込む寛容。


『いいね、その黒。痺れる。そういうのもっと頂戴』


 青い蝶が渦を巻くようにオレ達を囲んでいる。

 ウェーブのきついカマラの赤茶けた髪が、蝶の翅に揺らされて浮いた。

 オレは蝶を吐き続ける。

 カマラのように途切れずには吐けなくとも、吐ききったら、すぐに吸い込んで、次を。

 1匹の黒い蝶が、青い流れを泳ぎ切ってカマラの唇に届いた。


『ああ……綺麗、コレは良い。心奪われる翅のラインをしてる。ね、この色、あたしの目の色に似ていると思わない?』


 唇から青い蝶が途切れた。

 代わりに突き出した舌先に、オレの吐いた黒い蝶がとまっている。

 喘ぐように翅が上下する姿を、真上から濡れた黒い瞳が見下ろしていた。

 舌先に息を吹きかけ、黒い蝶がふわりと舞い上がる。

 

 かつてはオレも、蝶吐師パフォーマを目指していた。

 あの頃、どうやって蝶を吐いていただろう。

 吐いた蝶はどうやって踊っていただろう。

 カマラの青い蝶に中央を譲りながら、オレの蝶は低い位置を旋回する。

 青の軌跡を追うように飛び、残像を残す。

 鮮やかな青を浮かびあがらせるための、黒い蝶。


 たった数匹の蝶を操るのにすら必死なオレは、首筋に垂れてくる汗を拭った。

 その数十倍は飛び交っている蝶を、思うままに動かすカマラの技量に舌を巻きながら。

 初めての舞踏会プロムで上級生にステップを教えて貰う少女みたいに。


 いつしか、黒い蝶の先導した跡を、水滴が流れ落ちるように青がなぞっていた。

 繰り返しお互いの軌跡を愛撫しながら、ふと、目が合ったカマラが軽く片目をつぶって見せる。

 思わず笑い返してしまってから――自分の浮かべた微笑に驚いて、蝶から意識が逸れた。

 途端に、作りの甘いオレの蝶が宙へ霧散する。


「……あーあ、残念」


 本当に残念そうにカマラが手を振り――そして、青い蝶も全て掻き消えた。

 まるで、そこには最初から何もなかったかのように。

 しばらく宙を見つめてから、カマラは再びオレへと視線を戻した。


「でも、今の良かったわよね? 楽しかったわ、多分……オリエとセッションするのとはまた違って」

「モテる女は指す(いう)ことが違うな」

「茶化さないで。真面目な話、あなた良いもの持ってるわ。……本気で目指しても良いと思うけど」


 その言葉ゆびさきに揺さぶられて、夢から醒めたオレは立ち竦んだ。

 かつて捨てたはずの明日きぼうを、強制的に心臓にぶち込まれたような気分だ。


「何を知ってる」

「何も」


 睨み付けるオレを見て、カマラは骨ばった肩を竦めた。


「……アジャイから見せら(きかさ)れたのは確かよ。オリエと組む前は、あなた自身が蝶吐師パフォーマだったんだって」


 予想していた言葉サインだったはずなのに、身体の表面のどこかが軋んでいる。

 そう――軋んでいるのは多分、瞳。

 オリエの向こうに理想の蝶を見ていたオレの両目が。

 見たくないのにカマラから視線を逸せぬまま、オレは両手を動かした。


「見ただろ、この程度だ。鈍ったってのもあるさ。だが止める直前だってこんなもんだったんだ」

「悪くないじゃない」

「ああ、悪かない。だが、良くもない。少なくとも、オリエやあんたのように素晴らしくはない」

「へえ?」


 小馬鹿にするようなひらひらした指の動きには、もう何も返す気になれなかった。

 とまっていると、カマラの両手が追い打ちをかけてくる。


「それでオリエに全ての希望をかけて、大事に大事に両手の中に閉じ込めとくつもり?」

「バカな。あいつには飛んで貰わにゃならん。いつかあいつをでかいステージに立たせてやると誓ったんだ」

「それが、あなたの夢だから?」

「それの何が悪い」


 初めてあいつのステージを見たあの日、オレは蝶吐師(パフォーマ)でいることを完全に諦めた。

 打ちのめされた。

 お前は絶対にあんなふうには飛べやしないと、両手よりもはっきりと示された。


 だから。


「……閉じ込めるつもりなんかない。今は、あいつがオレの翅だ」

「オリエはあなたの翅なんかじゃないわ。あなたが、ただの影じゃないのと同じように」


 カマラの言葉ゆびさきは骨ばって細く、だがしなやかに優しかった。

 オレとオリエを引き裂くための両手の癖に。


「それ以上は、オリエから(きい)て」


 問い返した言葉サインを見る前に、カマラは踵を返していた。

 その薄い背中の向こう、見慣れた金髪がちらりと見えた。


「オリエ……?」

「……ジェラ、ちょっと相談あるんだけど」


 どことなくキレの悪い手振りから、彼が何のために劇場に残っていたのか予想はしていた。

 出来れば予感は外れて欲しいと、祈りはしているにしても。

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