3 賞賛は私だけのもの
2番街の端の小劇場に着くまでに、移動する馬車の中、アジャイからは散々に勧誘を受けた。
希望を潰さず、しかし認めることもせず、逃れるのには随分骨を折った。
その間、オリエとカマラはオレ達の正面に並んで座り、蝶吐師ならではの苦労や期待を語り合って盛り上がっていたのだから、腹の出たおっさんの相手をひたすら続けていたオレからすれば、少しばかり相方に文句を指したくなるのも当然だろう。
「……着いたようだな。カマラ、頑張れよ」
馬車が止まり、アジャイは誰より先にカマラを下ろす。
カマラは、一度だけオリエを振り返り、面白そうに片目をつぶって見せた。それ以上は何も見せず踵を返すと、褐色の太腿をちらつかせながら悠々と劇場の中へと消えていった。
『指してたスケジュールから逆算するに、随分ぎりぎりだったんじゃないか、彼女』
アジャイには見えない角度で、こっそりとオリエが示した。
オレは黙って頷き返す。
ステージに遅刻する危険を犯してでも、会わせておきたかった、ということだろう。
アジャイが何を考えているのか、はっきりとは分からない。
だが、嫌な予感がすることは確かだった。
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カマラの――いや、今夜のメイン蝶吐師であるユリィルのショーは、それなりの客入りだ。
アジャイはオレ達を関係者席に案内すると、用事があると去っていった。
取り残されたオレ達は、手の位置に気をつけて人から見えても良い会話と、そうでない会話を入り混ぜながらハンドサインを出し合う。
「すぐに始まるな」
「ユリィルの蝶を見るのは久しぶりだ、俺のステージに活かせるようなものがあると良いけど」
『あんた、前にユリィルの蝶はクソみたいなもんだとか指してなかったか?』
『それに何か問題が? 俺は基本的に嘘をつかないんだよ、お前にだけはね』
『噂では、ユリィルは裏方蝶吐師を多く使ってるらしいな』
『取り入れたいなんて指すなよ? 俺のステージを穢そうとするヤツは、たとえお前だって許さないぜ』
「……まあ、オレがするのは時間と身の回りの管理だけだからな。ステージの内容は基本的にあんた主導だ。あんたのセンスが磨かれるならそれに越したこたない」
「そう荒れるなよ。細々したことは苦手だし、時々アドバイスもくれるからさ、助かってる」
『だけど、そんな仕事は誰だって出来る、今の人気は自分の才能だって思ってんだろ』
『何か間違ってる? クソはクソ、天才は天才、どれも蝶吐師の力によるものさ』
間違ってなんかいない。
ただ、そういうことは普通、人に見せることじゃないってだけで。
それが分かっているからこそ、身体の影でサインを出しているんだろうけど。
誰も知らない傲慢さ、裏返せばどこかに吐き出さざるを得ない弱さを、オレにだけは見せる。
そのことがオレをどんな気分にさせるか、オリエはきっと知らないだろう。
そしてオレは、そのことを決して伝えはしない。
「ほら、始まった」
どこかうんざりした様子のオリエの指先に促されて、オレは舞台へと目を向けた。
中央に立つユリィルは、ショーの始まりを告げるとともに、微笑みながら蝶を吐き始める。
幼児に手信号を教えるみたいだ。
セオリー通りに客の注意を引こうと、次々とその唇から灰色がかった七色の、粗雑な蝶を吐き続けている。
赤――情熱、愛情、生命、憧れ。
橙――裏切、想像、幸福、動揺。
黄色、緑と順序良く紫まで続いていく慌ただしい蝶を、ただ見ている以外にしたいこともない。
噂については半信半疑だったが、蝶達のあまりの不揃いさに、本当かも知れないと考え始めた。
裏方蝶吐師――ステージの蝶を派手に見せるための数増し役だ。
使っていることを公言しているヤツもいるが、ユリィルの場合はそうじゃない。
その卑怯たらしい性格が、荒れた蝶の原因なんじゃないか――ぐらいは、オリエなら考えていてもおかしくない。
あんたにだけは指されたくないって、多分ユリィルも思うだろうが。
そこから続くのは、控えめに表現してもクソとしか呼びようのない時間だった。
周囲の観客はそれなりに受け止めて、それなりに拍手をしているが――クソはクソだ。
オリエならそう指すだろう。
オレはそうは指さないが、心の中では思っている。
お前には、オリエの100分の1の才能もない。
艶やかさも上品さもない、滑稽で醜く、ただギラギラと派手に暴れる蝶だ。
オリエのあの――驚きと歓びで息の詰まるようなショーを見た後では、くだらない、期待を下回って予想通りに進んでいく時間は拷問のようにさえ感じられた。
ユリィルの身体の中には、規則正しく等間隔に並んだ蝶が順番待ちをしているんじゃないだろうか。
『……やっぱりクソだ』
隣のオリエが、誰にも見えないように指先で示した。
頭の中で予想していた通りの言葉に、思わず吹き出しそうになる。
オレは同意もせずに、ただつまらない舞台を眺めた。
苛立った様子のオリエが、そっと唇を開く。
そこから、オリエの舌先と同じくらい鮮烈な赤い翅が覗いているのを見て、ぎょっとした。
血のように生々しい、生命の赤。
『おい、あんた何をする気だ……!?』
『内緒だぜ』
悪戯っぽく歪めた唇を再び開くと、奥から這い出してきた蝶はのびのびと翅を拡げた。
しばらく舌先にとまっていたが、タイミングを掴み、風に乗ってふわりと宙に浮かぶ。
ステージを狭しと舞う七色の蝶の竜巻にうまく合流して、入り混じった。
『おい……!』
『バレないよ』
観客は気付かないだろうか。
舞台の主は。
胸が高鳴る。
媚びるようにくすんだ蝶の中、一匹だけ一回り小さな――だが、他のどれよりも整った完璧な翅を持つ蝶が飛んでいる。
その翅の鮮やかさ、翅脈の繊細さは他の蝶とは比べものにもならない。オリエの頬を彩る髪の一筋にも似て、まるで壊れやすいガラス細工だ。
たった一匹の赤い蝶は、女王のように他の蝶を従えている。
ソレこそが渦の中心であるかのように、さり気なく、だが堂々と、他の蝶を操り動きにリズムを作る。
誰も気付かないかもしれない。
でも、オレとオリエだけは知っている。
そのことが、何よりもオレを興奮させた。
舞台の中央に立つユリィルが、ゆっくりと手を伸ばす。
それを合図に、渦を巻く蝶たちは一斉に舞台から劇場の天井へと飛び去り、そのまま闇に溶けて見えなくなった。
ショーを称える空気が微かに客席に広がっていく。
ここまでの流れ全てにオレは満足して立ち上がり、素直に賞賛を示すハンドサインを送った。
「ブラーヴォ!」
『……俺のおかげで、舞台が引き締まっただろ?』
肯定する必要もない事実が、隣に座ったオリエの指先からひっそりと告げられる。
笑って見せたオレに、オリエもまた笑顔を返した。
これこそが、オレとオリエの関係なのだと、心の中だけでその笑顔に言葉を返した。
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舞台が暗転し、ステージでごそごそと動く気配がする。
多分、蝶吐師が入れ替わっているんだろう。
ユリィルが衣装替えの為に引っ込み、場つなぎのカマラが時間を稼ぐのだ。
「思い出すなぁ、俺も最初はこういう下っ端から始めたんだった」
『あんた、ステージが終わる度に、何でこの俺があんなヤツの出番のために引っ込まなきゃいけないんだ、とか散々だったけどな』
『事実だろ? あの頃だって客は俺を見に来てたんだ』
あの頃からオリエは自信に満ちていた。
その輝きに触れた観客は、皆、オリエから目が離せなくなる。
そのことを知っていたから、オレは何も答えなかった。
タイミング良くライトが点灯し、棒立ちになったカマラの姿が見える。
「……緊張してるのかな」
「逆だろ、多分。あんなどうでも良さそうな緊張なんてないさ。変に虚勢はるより、俺は良いと思うけど」
オリエの手のひらに、珍しく人をフォローするような言葉。
眉を上げたオレを見て、苛立ったように目を細めて見せた。
「そんなことより、ステージを見てろよ。始まるぜ」
オリエから目を離して舞台に目を移せば、大きく息を吸ったカマラが、タイミングを図るように周囲を見回したところだった。
視線が止まる。
カマラの目が、こちらを見ていた。
オレ達を――いや、オリエを。
微笑むように引き上がった唇がそのまま開かれて、そこから蝶の翅がちらついた。
青。
輝くような。
堅苦しいほどの沈着、停滞、凍結――そして、その向こうに表現される未来。
色を認識した次の瞬間には、勢い良く吐き出され続けた大量の青い蝶はステージを覆い隠す程の量になっていた。
ステージの上の風を客席でも感じられる程に、蝶達の羽ばたきは力強い。
裏方蝶吐師なんて、お呼びじゃないとすぐに分かった。
限界まで整えられ、規律に支配された洗練でオレ達を魅了する。
真っ青な蝶を飾る黒い翅脈は、未来を待って震えていた。
青しかないはずなのに、ステージの上に何もかもあるような気がする。
求めているものが、全て、そこに。
満たされる。
満足した端から、苛立ちを覚える。
ステージの全てを同時に頭に焼き付けることは出来ないから――過ぎていく時間に嫉妬する。
こんなステージを見せられる蝶吐師など、オレはたった1人しか知らない。
オリエ――!
彼は、どんな顔でこのステージを見ているのだろう。
隣の様子を見たいと思った。
だけど、目を離すのがもったいなくて、ステージから視線を逸らせない。
たった1つの真実の定理を使って描かれた蝶達のリズムに、心まで浸る。
自分が、世界に溶け出していく。
心が蝶の翅に乗って舞い上がる。
浮遊する。
手を伸ばす――
――何かを掴んだ、と思った瞬間――唐突に蝶の姿は掻き消えて、真っ暗な舞台だけが残った。
格調高い幻から突然引き戻されて、オレは目を白黒させる。
観客達も、誰1人として状況についてきていない。
呆然とした空気が流れる中、誰よりも早く立ち上がったオリエが、両手を上げて舞台に向けハンドサインを送った。
「――ブラーヴォ!」
その姿でようやく夢から覚めたように、ゆっくりと興奮の波が広がっていく。
しばらくの後、小劇場は全観客のスタンディングオベーションに包まれていた。
ただ1人、隣のオリエを凝視するオレを除いて。