2 搦手のハンドサイン
今日のステージはオリエが最後だ。
そのオリエが引っ込んだから、客席も人がはけて静けさが戻ってくる。
舞台裏でも終了直後の忙しなく動き回る様子は薄れて、後に残るのはのんびりと今日のステージを噛み締めながら、明日の準備をする裏方だけだ。
「オリエ。今日のステージ、5つ目のブロックであんた、ミスしてただろ」
「……ほらきた。良かった、だけですまないとは思ってた」
「良かったのは事実さ。でも、あのミス……やっぱ4つ目のブロックの蝶で限界来たんだろ、喉が」
「だから何だよ。演目は差し替えないからな」
始まる前から無理は見えていたが、頑固なオリエの手を止められず、仕方なくGOを出した。その結果が、これだ。
オリエの得意とするのは、大型の蝶をそれぞれに身を捩らせながら舞わせること。
小型の蝶を連発する技は、それに比べれば不得手だ。あえて自分の苦手に挑戦する姿勢は買うが、だからってミスすることが分かりきっているなら、引いた方が良い。
……が、思いついたら引かないオリエの性格も、よく知っていた。
「じゃあ、せめて順番を変えよう。4つ目と5つ目を入れ替えたらどうだ。6つ目の出だしはゆっくりだから、直前に少々無理をしていても……」
手元の手帳を見ながら考えていたことを伝えている途中で、ふと正面からシャツの袖を引かれた。顔を上げる。
オリエの青い瞳はどこか固い色を湛えて、オレの背中の向こうを見ていた。
慌てて振り向くと、ニヤついた大柄な男が1人こちらへ向かって近寄ってきている。
背丈もあるが恰幅も良い体格を、原色が目に痛い派手な衣服に包んだ男。
黒一色のオリエの衣装と比べれば、どちらがパフォーマか分からない。
『こんなときに、アジャイか』
オリエにだけ見えるように太ももの裏で示したハンドサインに、背中を突く形で肯定の答えが返ってくる。
歩み寄ってきた原色の男――アジャイが、片手を上げた。
「――おう、オリエにジェラ! こんなところにいたのか。さっきは盛り上がったみたいだな」
「おかげさまで」
アジャイは、この辺りのパフォーマの元締めだ。
街中の幾つかの劇場を経営しながら、多くのパフォーマを傘下に抱えている。
彼と契約をしたパフォーマは、少なくとも食いっぱぐれることはない。子ども向けの超安価な蝶吐なんてみすぼらしい舞台であっても、何がしかの仕事を融通してもらうことだけは出来るからだ。
だが、オリエは――オレとオリエは、アジャイとはうまいこと距離を置いてつかず離れずの関係を保っている。
アジャイと契約するならば、代償としてこの街を出る自由を渡すことになる。
中央への進出を考えているオレ達には、許容できない制限だった。
「今夜もお客は大満足だ。オリエが出ると入りが良い。敏腕マネージャが羨ましいぜ」
馴れ馴れしく肩を叩くアジャイの手を、オレは甘んじて受けた。
この小劇場はアジャイの持ち物だ。契約をしていないだけでも十分に気分を損ねているのに、これ以上逆撫でするようなことはしたくない。
それでも、オリエを背中に庇うことは忘れなかった。
オレと違って、オリエにはそういう気遣いや付き合い、愛想笑いなんてものは存在しないのだ。
『……オリエ、頼むからあんたは黙ってろよ』
後ろ手で人差し指を鉤型に曲げてこっそり囁く。
再び、背中を突いて、了解の返答が返ってくる。
「どうだ、そろそろ? 例の話、考えてくれたか? アジャイ・パフォーマ協会を通さない叩き上げのお前が、他の劇場に恩を感じてることは知っているがな。おれの劇場での公演もこれで3度目だ。いい加減、うちと契約してしまえば劇場への支払いなんかなくて済むんだぞ?」
劇場を借りた分の支払いは、客が入ろうが入らなかろうが定額だ。
今夜のように入りが良い時ばかりなら問題ないが、天候の問題や広告の失敗によって客が少ない日は、持ち出しになることだってある。
今は連日満席のオリエだって、かつてはそうだったし、将来もしかしたらそういう日が来るかも知れない。人々は簡単にものごとに飽きるということを、オレ達は知っている。
だが――自由を縛られ夢を失ってまで安定した生活を手に入れたいかと問われれば、それは絶対的に否だ。
踵の辺りで、何度も床を踏む振動。
背後のオリエが苛立っている様子が伝わってくる。
もう一度後ろ手に、しばらく他所を見てろ、とサインを送っておいた。
相手のハンドサインを見さえしなければ、オレ達は人からの言葉を無視していられる。
それに……出来れば、聞かないでほしいという思いもあった。
真っ直ぐに人の胸を打つオリエの蝶と違って、オレに使えるのは搦手でのらりくらりすり抜ける、芯のないハンドサインだけだから。
「アジャイさん、その話はまた今度じっくり|話し合い《ましょう。契約だの条件だの細かい話は、こんなとこでするもんじゃない。何よりウチの蝶吐師は、舞台で全力を尽くす男なんで……アジャイさんの劇場だからこそ、いつもより気合入っちゃったみたいです。申し訳ないですが、帰ってこいつを休ませてやっても良いですか? 明日もまだショーがありますから」
仄めかしながらさり気なく持ち上げて、説得の時間はまだあると思わせる。
最終日までは、これで切り抜けておこう。いざとなったらどうするかという悩みはあるが、まあ、そんなものはその場で何とでもなるもんだ。
少なくとも今夜のところはこれでいけるだろう、と半ば安堵して、軽く頭を下げた。
その場を離れようとしたオレの腕が、太い指に掴まれる。アジャイが力を込めて引き止めている。
「まあ、待てよ。今日は他にも用があるんだ」
「……何ですか?」
「うちの新入りを紹介しようと思って連れてきたんでな。おい、カマラ。挨拶しろ」
それまでアジャイの背に隠れていた細い女が、腕を引かれて前に出た。
焦がした砂糖のような肌に、ウェーブのかかった赤茶けた髪。
「引っ張らないでよ」
乱雑に片手で拒絶を示してから、濡れたように黒い瞳をオレの方へ――いや、オレの後ろにいるオリエの方へ向けた。
太腿の付け根辺りまで際どいスリットの入った衣装は、舞台用だろう。肉感的な胸元ははち切れんばかりに自己主張している。両手の指先は真っ赤に染められ、同じ色の唇とともにしっとりと濡れて光っていた。
目を奪われたのはオレだけじゃない。どちらかというとその手の女が好きではないはずのオリエまで一瞬視線を向けていたから……まあ、それを目的とした衣装ではあるんだろうが。
「カマラよ。よろしくね」
「ああ。アジャイさんとこの、新しい蝶吐師だって?」
「そうよ。今のところ、あなた方とは人気も格も段違いだし……デビューステージは今夜だけどね。これから、2番街の隅っこの小劇場で、初めて蝶を吐くの」
「今夜デビュー? じゃあ、こんなとこで油売ってる暇なんかないだろ」
ステージ、の蝶の形が、指先に塗られた赤い色で、いやに生々しく見えた。
血を吹き出しているような蝶の翅。
「……何だ何だ、おれが無理やり連れてきたみたいじゃないか。安心しろ、ジェラ。出番はまだ後だよ。何せ無名の新人だからな、見目は良いが最初からそう客は入らん。今夜も単独のショーじゃない。ユリィルがメインを張るショーの幕間で、あいつの衣装替えの時間潰しにちらっと出るだけだ」
なるほど、ユリィルのショーも開演までは、もう少し時間があった。
カマラの出演が更にその途中だとしたら、確かにまだ余裕はありそうだ。
それでも、初めてのショーなんだ。きっと精神集中していたい時間だろうし、余裕があるとしてもそうゆっくりしていられる訳はないはず。
初舞台で緊張もひとしおだろう……と思ったが、そういう風にも見えない。当のカマラはマイペースな質なのだろうか、薄い胸に余分な力は入っていなかった。
「あなたがオリエなのね。こうして会えるなんて嬉しいわ。あなたのステージ、好きだから」
「そう? 光栄だな」
いつの間にかオレの背から前に出ていたオリエが、指先を気取った風に動かして、カマラの言葉に応えていた。
女の前で良い格好をしたがるのは、オリエの悪い癖だ。
指の動きが少しだけしなやか過ぎて、いつもより格好を付けてる風なのが、オレにだけは感じられる。
舞台が好きだとか、ファンだとか、そんなのは売れっ子の蝶吐師に対する女達の決まり文句に過ぎないのに。
こっそりため息をつくと、アジャイにもカマラにも見えないように足先で脛を蹴られた。痛い。
「ねえ、良ければ私のステージも見てくれない? 長い時間じゃないわ。ほんのちょっとで終わっちゃうから」
どこか投げやりで自嘲じみた蝶の形のハンドサインを受けて、オリエは一瞬こちらに視線を向けた。
その視線の意味は「どうしよう?」なんて迷いではなくて、「お前はどうする?」というオレの意思を問うものだった。
オリエがカマラのステージを見物するのは、既に彼の中では決まったことになったらしい。
今ここにカマラを連れてきたアジャイの思惑は気になったが、オリエが行くなら、オレは付き合うしかない。
瞬きでオレの承認を理解したオリエが、細い指先で、「行くよ」と答えた。