1 ステージに降り注ぐ光
オリエの薄い唇が微かに動いた。
喉の奥に空気が流れ込んでいく。
吸い込んだ息の重さの分だけ、胸郭が広がる。
オレのいる舞台裏からは、スポットライトを跳ね返すオリエの横顔が見えている。
目を閉じて、タイミングを図るように軽く眉を寄せて。
黒い舞台衣装を纏う肩に力は入っていない。
普段は白い肌が僅かに上気していることだけが、彼の緊張を語る。
じりじりと真上から差すライトに炙られながら、オリエはちっとも焦った様子を見せていない。
観客の視線が白い肌の上を粘つくのが見えるような気さえするのに。
色とりどりの花を散りばめ飾り立てられたステージの上、1人静かに瞼を伏せている。
蝶の形に整えられた首元のネクタイも、彼の喉を塞ぐことなど出来やしない。
喉を開き、少しずつ容積を増す肺が、最大まで膨らんで――止まった。
一拍おいて、ゆっくりと開いた桃色の唇を搔き分けるように、黄金の翅が覗く。
粘液を纏って唇から這い出たそれは、いつの間にやらオリエの滑らかな舌先に足をかけ、だらりと顔の前に垂れ下がっている。
オリエはどんな色のどんな形の蝶だって吐けるが、いつだって最後の演目で、たった1匹の蝶を吐く。
金色の翅を妖艶に揺らす、大ぶりの蝶を。
オリエの髪にも似た、蜂蜜のように蕩けて輝く蝶。
唾液に濡れた翅が少しずつ広がり、乾いていく。
ささやかに閉じ開きする翅の向こうから、オリエの青い瞳が微笑んだ。
オリエだけを照らすライトはますます過熱して、ステージの上から目を逸らせない。
翅脈が震えるたびに、見守る人々の息を呑む空気が濃くなっていく。
溜まった熱がこれ以上はなく高揚した瞬間に、オリエは窄めた唇から息を吹きだした。
押されるように飛び立った両の手のひらほどもある金色の蝶が、鱗粉を散らしながら舞い上がる。
甘く妖艶に、夢へと誘う翅の色。
ライトを反射して輝く翅先が、熱に炙られてふわりと浮いた。
沈む。浮く。一瞬沈んで――高く飛ぶ。
天井へめがけて上っていく金色の蝶の姿を見て、観客が感嘆の息をつく。
我を取り戻してステージに視線を戻した時、そこにあるのは姿勢を正し、端正なお辞儀をするオリエの姿。
立ち上がった観客達は、それぞれにハンドサインで興奮と感動を表し、目の前に立つ素晴らしい蝶吐師に賞賛の意を表した。
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オレ達の世界には、『音』がない。
かつては空気中を伝わる波動――『音』というものを感じる種族もいたというが、どうだろう。
一度滅びた古代文明を研究した結果だと多くの学者が述べているから、まあ多分、間違っていないのだと思う。
だけど、今の時代のオレ達からすれば、空気を震わせてそれでお互いの意思を伝えるなんて、そんな世界はさぞうるさかったに違いない。
何せ自分が聴きたいかどうかに関わらず、振動によって耳に入ってきてしまうのだから。
オレ達はもっとスマートに意思伝達を行う。
文字による伝達は当然として、両手の動きを複雑に絡め指す言葉。
そして――唇から生まれる蝶。
蝶は誰だって吐けるけど、誰の唇からでも同じ姿で生まれるワケじゃない。
色、形、模様、大きさ。
大きくて姿が美しい蝶を吐けることは、ある種の特別な技能だ。
それぞれの蝶にそれぞれの意味がある。
今ではもう、その重なりを読み解けるような学のある人間は減ってしまったけれど。
古めかしい手法、時代がかった作法。
意思疎通の手段としての本来的な意味は失われている。
だからこそ蝶を吐くことは、どこか儀式めいた雰囲気を漂わせる。
ステージの上、大量に飛び交う1匹1匹の蝶を追いかけるのは難しい。
入れ替わり舞い踊る蝶の群れを見て、そのもたらす目まぐるしい快楽に酔う。
滅びた古代種族の後、オレ達の祖先が文明を築き始めたその当初から。
それは、何万年を超え、紡がれ続けた『伝達』という名の娯楽だ――
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「今日も良かった」
蝶を吐き終わり、舞台裏に戻ってきたオリエの肩を叩く。
端正な唇を不敵に歪めて、オリエの右手が動いた。
「当然だろ」
指先が肯定の形でオレの目前に差し出される。
ハンドサインで交わされる会話は、お互いの視線が捉えなければ伝わらない。
改めて視線を合わせた後、成功を讃え笑いあった。
酷使した喉を潤せるようポットごと茶を渡してから、手元の手帳に目を落とした。
今夜はこれが最後、明日朝の公演までは一休み出来る。
ふと視線を感じて顔を上げると、ポットに直接口を付けたオリエが、茶を呑みながらオレの手帳を覗き込んでいた。
切れ長のアーモンド型の目が、誤ってついたインクが落ちずそのままシミになっているシャツの袖に当たっているような気がして、途端に恥ずかしくなった。
「……何だよ?」
「別に。確認してるだけだ。来週までは毎日ココだっけ?」
「ああ、来週半ばで終わり。1日休んだら、次は中央街のミリアの酒場でショーの予定だ」
ポットから口を離さぬまま視線と右手だけが動いて、了解の返事をくれた。
ついでに、誰にも見えない身体の影で、こっそりと左手を動かす。
『まあ、俺がいる限りこの劇場は来週まで満員さ』
劇場、を示す親指と小指を翅のように伸ばした形が、オリエの太腿を掠めて揺らされている。
オレは何も答えずに肩を竦めた。
傲慢な言葉が多いのは、オリエの通常運行だ。
『……お前だって、綺麗だと思ったんだろ?』
答えないでいると、勝手に不安になるところも。
オレは笑って指先で示す。
『……思ったよ。今日も良かったって言ったじゃないか』
『知ってるよ、同じ単語、二度も示さなくて良い』
答えてやると、満足した風で途端に興味を失うことも。
溜息をついて、舞台袖からふと客席の方へと視線を動かす。
ここのところオリエの恋人を名乗っていた女の姿が、そういえば見当たらない。
来ているならば、オリエにねだって最前列の席を取らせているだろうに。
『今日は、例の彼女は見に来てないのか?』
『俺のステージに手出しした。もう彼女と俺は無関係だ』
ステージ、はまるで翅を広げた蝶の形。
片手でそれを示して、両翅をひらひらと空気に舞わせて見せる。
『別れたのか?』
『俺の舞台に指示を出して良いのは、仕事仲間のお前だけだろ』
『……そう指しながら、オレの言葉なんか聞きもしない癖に』
苦笑してから、手帳に再び目を落とした。
オリエが恋人と長く続かないのはいつものことだ。
一通りいつものやり取りを終えて、ポケットにしまった。
オリエはこの街で、右に出るもののない蝶吐師だ。
端正な顔立ちで、想像もつかない程妖しく艶めかしい蝶を吐く。
特に彼が最後に必ず吐く黄金の蝶は、一際評価が高い。
蝶の黄金は、官能を意味する。官能――成功、称賛、そして終末。
勿論、それ以外にもどんな蝶でも観客の望むまま吐くことの出来る才能を持つのが、オリエの優れたところだ。
マネージャのオレは、売れっ子オリエの日々のスケジュールを調整するのに忙しい。
街中の誰も彼もがオリエを間近に、その吐いた蝶の透き通る翅脈を透かして世界を見たいと望んでいる。
彼の整った顔立ちや見事な金髪、優雅な手つきも、多分にその人気に影響しているのは知っている。
だが――オレは信じている。
オリエはきっとこんな辺境の街では終わらない。
いつか街を出て、大都会のステージを踏む。
そこでもっと多くの人間を、しなやかな蝶の羽ばたきで絡め取り魅了するパフォーマになるのだと。
何万人の観客を前に、蝶を吐くのがオリエの夢で。
その姿を誰よりも近くで見届けるのが、オレの一番大きな夢だった。
トップのイラストは結音ゆえ様に描いて頂きました
※結音ゆえ様の小説ページ(https://mypage.syosetu.com/640480/)