第1話 女子更衣室に初めて入った日
その日は雨が降っていた。
5月も半ばになるともう梅雨入りである。
それは今年も例外ではなく、5月17日の今日は梅雨前線の影響で少し強めの雨が降っていた。朝から雨となると通勤や通学にも影響が出たり、洗濯物などが外に干せなかったりと迷惑がられるものだ。
しかし、小澤雄一は雨が好きだった。
誰にも言ったことはないが。
小さな頃から遠足や体育祭の日などに雨が降ると何故だか少し特別な気分なり、朝起きたときに雨が降っている音を聞くと、何だかその日は良いことが起こるような気がした。
それは、高校二年生になった今も変わっていない。
そんな理由もあり、朝から雨が降っている今日、雄一は少し上機嫌だった。
いつもよりちょっとだけ早く登校し、いつもは寝ている授業も板書までとり、購買でいつもより1つ多くパンを買い、食べきれなくて友人に食べてもらった。
そんな、いつもよりは少しまともと言えるような一日を過ごし、現在。
放課後である。
雄一は、廊下を逃げ回っていた。
別に友達とふざけている訳ではないし、どこぞの名探偵のように悪の組織に追われているわけでもないし、正義感の強い主人公のように女の子を庇って不良達から逃げてるわけでもない。
相手は担任の教師である。
理由もこれまたしょうもないことで、今日提出だった進路希望調査を提出しなかったから、だ。
しかし、それだけで廊下を走り回らなければならない、という状況からなんとなく察することができるように、その追手が少々厄介ではある。
去年も雄一の担任だった数学教師の原先生は生徒に対してとても厳しい。
年齢不詳の整った外見と長い黒髪が恐怖を引き立て、授業の説明で使っている杖のような長い指し棒を常に持ち歩くことから、生徒たちからは密かに「魔女」と呼ばれ恐れられている。
提出物や宿題を出さなかった生徒は放課後呼び出され、生徒指導室で数時間にわたりお説教だ。
宿題を全くやらない不真面目な雄一は、去年からことあるごとに説教をされていた。最近は雄一の数少ない友人であり、学年トップの学力を持つ広田正也に宿題を写させてもらい、なんとか説教を逃れてはいる。
だが今回は少々話が違っていた。
雄一が出さなかったのは、今日が提出期限の進路希望調査である。
勿論、進路に正解も不正解も無いのだから、常識を外れなければどんなことを書いても良いはずだ。
漠然とした夢や目標、自分の特技から考えて何となく将来のことを書ければ良い。多くの人間がそうしているだろう。
決まった答えを求められる数学の宿題なんかより、難易度は高くないだろう。
しかし、
雄一は進路希望調査を書けなかった。
雄一は将来の夢や目標が見つからなかった。
雄一は得意なことも好きなこともなかった。
進路調査くらい適当に書いて出してしまえば良い、というのが一般論ではあろう。
それで人生が決まるわけではないし、そこに書いたことを必ずしも実行しなくてはいけないわけではない。
現に、相談をした正也からも当たり障りの無いことを書いて提出したら、と言われた。
でも雄一にはそれができなかった。
そこに嘘を書いてはいけない気がした。
何もない、空っぽの自分を偽って、その紙を埋めてはいけない気がした。
将来に、自分の未来に、例え紙一枚でも嘘をついてはいけない気がした。
そんなことを正也に言うと、「よくわからん」とだけ返され、先に帰られてしまった。
唯一とも言って良い友人に見捨てられた雄一は説教から逃れるために校内を逃げ回ることになったのだ。
校内を歩き回って10分はたったろうか。
カタン、と不意に音がした。この音は、
「あーら小澤君。こんなところでどうしたのかしら」
魔女のサンダルの音だ。
雄一の背筋が凍りつく。
背後にも警戒をしていたはずなのにふと気が抜けた瞬間に見つけ出されるあたり、本当に魔法か何か使えるんじゃないかなんじゃないかと疑いたくなる。
「……くそっ!」
雄一は瞬時に身を翻し、逃亡を図る。
「逃がさないわよ」
魔女は指し棒を魔法の杖のように構えながら見ただけで凍りつきそうな冷笑を浮かべ追ってくる。
完全にこの教師は生徒に苦しみを与えることを悦びとしている。そう確信しながら雄一は廊下を駆ける。
数分も走ってようやく魔女の姿が消えた。やはり、女性(一応)の体力では男子高校生についてくることは難しいようだ。
雄一は辺りを見回し、近くの教室に身を隠すことにする。少し休憩がしたい。
ドアをゆっくりと開けて中に入る。
廊下を警戒しながらドアを閉め、ふうっ、と息を吐く。
そこで雄一は気がつく。
無人だと思っていた教室に、一人の少女がいることに。
この学校の制服を着ているのと同じ学年カラーの赤いラインの入った上履きを履いていることから、雄一の同級生だと思われる。
見覚えの無い女の子だった。
ぼんやりと、窓の外の景色を眺めているようだ。
悲しいような、嬉しいような、憂いているような少女の表情に、雄一は思わず見入ってしまう。
教室に他者が入ってきたことに気づいたのだろうか、少女がこちらにゆっくりと目を向ける。
雄一の存在を見つけると少女はわかりやすく驚いたように目を丸くした。
「……あ、ごめん。急に入ってきたりして」
一人で居たところに突然見知らぬ男子が入ってきたらそれは驚くだろう。
雄一は相手に不安を与えないように出来るだけフランクな装いで声をかける。
「い、いえ、大丈夫……です」
まだ落ち着かない様子で辺りに視線をキョロキョロとさせながら少女が答える。
「あー。あのー、実はちょっと魔女のやつに追われててさ。暫くここで匿ってもらってもいいかな?」
「えっ? あ、はい。どうぞ」
匿う、というのは我ながら変なお願いだと思いながら、雄一は小さく頭を下げる。
急に入ってきて急なお願いだったが少女はすんなり受け入れてくれた。
未だに目は合わせてくれないが。
よかった、と色んな意味で雄一が胸を撫で下ろしていると
「……原先生、ですか?」
少女が外を眺めながら尋ねてきた。やはり生徒の間で恐れられている魔女だ。学年で知らない者もいないだろう。
「そうそう。進路調査出してなくって」
少し恥ずかしいのを堪えながらできるだけ軽い調子で答える。
すると少女は黙り込んでしまった。
呆れられたのだろうか。
高校というコミュニティにおいて、正也以外の人間(魔女は除く)とあまり会話のすることの無い雄一であるので、相手が黙ってしまうというのは中々に気まずい状況だった。
しばらくの沈黙。え、なに? なんかやらかした?
そんな心配と反省を頭の中で繰り返していると。
「進路調査……どうして出さなかったんですか?」
初めて少女がこちら側にしっかりと目を合わせて、徐に口を開いた。
「へ? い、いやー、それは何と言いますか」
問い詰めるような口調でなく、単純に尋ねるような口調だったが、予想外に質問が来たことに動揺し、作り笑いで誤魔化すための言葉を考える。
が、質問した少女の真剣な目に思わず本音が漏れてしまった。
「……出さなかった、と言うより書けなかった、かな」
尚も雄一の続きの言葉を待つ少女。その様子を見て雄一は続ける。
「俺、将来の夢とか、目標とか何も無いんだ。得意なことも、やりたいことも無くて。そう考え始めたら何も書けなくなった。俺って何もないよなって」
話しているうちに少女の方を見れなくなって、雄一は窓の外に目を移した。
だが、少女の返答は雄一の予想を再び裏切るものだった。
「いいんじゃ、無いですか」
「えっ?」
雄一は再び少女に目を向ける。
「書けなくたって、白紙だったっていいじゃないですか。何も無いなら何も無いまま、それをわかってもらえばいいじゃないですか。一番ダメなのはそれを隠して逃げることです」
「逃げてる……俺が?」
「そうです。逃げてます。一人で抱えて自己完結したって何も変わらないです。だから、白紙の調査書、出しちゃえば良いんです。俺は空っぽなんだぞってそれを見せつけちゃえばいいんです。それが今のあなたなんですから」
少女は変わらず真剣な目と、でもどこか優しい表情をしてそう言った。
「逃げてた。俺は逃げてた、のか」
出会ったばかりの少女からの優しく強い言葉は、雄一を厳しい現実に向き合わせた。
思わず雄一は黙り込んでしまう。
しかし、それは先程のような嫌な沈黙ではなかった。優しくて真剣な眼差しで雄一の答えを待ってくれる少女。
誰かが自分の存在を思いやってくれている。その事実が雄一には嬉しかった。
答えは簡単には出ない。
沈黙は続く。
放っておけばずっと続いてくかのような沈黙。
しかし、その沈黙は
「あら、小澤君。こんなとこにいたのね」
突然の来訪者によって阻まれた。
「あ、あぁ……」
予想外の出来事に雄一の心臓が跳ねる。
「ッッ!!」
間髪入れずに雄一は反射的に魔女の入って来たのと反対側のドアから逃げ出した。
とにかく今は逃げたい。向き合いたくない。考えたくない。
なりふり構わず、方向も考えず走った。
逃げて、逃げて。
気づくと雄一は女子更衣室にいた。
「あ、あれ?」
なりふり構わず走っている内に、いつの間にか女子更衣室に着いていたらしい。
「いや、着いていたらしいじゃねーだろ!」
自分の置かれた状況にに雄一は呆然とする。
只でさえ魔女に追われるこの状況で、男子禁制の女子更衣室に侵入したとあればいつもの説教では済まされないだろう。
下手をすれば停学。母さんの悲しそうな顔が頭に浮かんだ。
まさか普段から夢にまで見ていた女子更衣室に、こんな形で入ることになるとは。
「と、とりあえず早くこっから出ねーと」
入り口の方に戻ろうとしたその時。
カタン、カタン。と音が聞こえてきた。
間違いない。魔女だ。
女子更衣室は廊下の角にあるため、今飛び出しても丁度魔女に鉢合わせしてしまうだろう。
ドアは開いている。状況は最悪。
あの女の子の言うように、逃げずにいれたのなら。
こんなことにはならなかったのだろうか。
雄一を激しい後悔が襲う。
カタン、カタン、音はだんだん大きくなる。
雄一はとにかくドアを閉めた。
ドアを押さえてただただ後悔した。
逃げずにいれば。
魔女から、説教から、自分から。
激しい後悔と自責の念、自分のおかれた危機的な状況に心臓の鼓動が速まり、額からは汗が染み出てくる。
ああ、俺の馬鹿野郎。馬鹿野郎。大馬鹿野郎!!
カタン! 魔女の足音が女子更衣室の前で止まった。
終わった、俺の高校生活。
雄一はそう覚悟した。
――――その時
雄一の視界を光が包んだ。
バカな少年は、過去へと戻る。