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8.嘘と嘘

 ――どちらかが嘘をついている。

 ふたりの供述は、動機も犯行状況もそこまでおかしい点は見られない。強いて言えば新垣さんが気が動転していたためそれ以上は覚えていないと話していることくらいだが、それも突然の心の乱れを考えれば目を瞑ることができてしまう。

 少なくとも彼女が話した体操服の話は本当のことだろうと思う。しかしそうなると、渡瀬君の動機の部分が辻褄が合わなくなる。彼の供述の方を信じるとしたら彼女が大胆な嘘をついたことになるが、堀氏が持ち去った姿を誰も見ていなければ本当のこととして通ってしまうような内容だ。だが堀氏が教室に来た時点で気付かない人が居るのか……?


 嘘をつく理由は簡単だ、どちらも互いのことを庇っているとしか考えられない。

 彼が犯人の場合、新垣さんは彼が自分のために殺害してしまったのだと理解して自分がしたことにしよう、彼は自分を庇っているだけだと手を挙げることにしたのだろう。現に何度も、彼は悪くないと主張している。

 彼女が犯人の場合、渡瀬君はこれまで彼女を守ってきた者として、彼女が犯人とされるのは耐え難かったと言える。初めから警察沙汰にはならないという話が出ていたし、僕を言い包めれば彼女の過去を晒すことなく比較的穏便に事件を収束させられると考えたのかもしれない。彼はこれ以上調べてほしくなさそうだったから。

 こう考えてみればまた疑問が湧く。新垣さんは渡瀬君が「僕がやりました」と言ったのを聞いているからそれを庇うための行動に移るのは自然なことのように思える。しかし彼はどうだろう。彼がもし犯人でないなら、どうして彼女の犯行だという結論に至ったのだろう。そう思う根拠が彼にはあったのだろうか。


 考えれば考える程、どつぼに嵌っていく。どちらもあり得るような気がするし、やはりどちらも違うような気もしてしまう。

 ふたりは今どんなことを考えているのだろう。彼は物理室、彼女は美術室と離れた場所に居てもらうことにした。望月君も伊岡さんもまだ戻って来る気配はなく、かといって容疑者であるふたりを同じ場所に居させるというのも気が引けた。彼女が美術室の鍵は常備していると言うからそちらに移ってもらったんだ。……それぞれの教室でどんな時間を過ごしているのか。

 何かしらの証拠が見つけなければ平行線のまま、自分がやったというふたりの主張を聞き続けなければいけない。頭脳戦ではもう手に負えそうになかった。




 図書室へ向かう僕の隣には香田さんが居る。

 付いて行くと言った彼女に一瞬、ふたりの近くに居るのが息苦しいからかと勘繰ったがどうも違うらしい。真剣な面持ちで図書館へと誘導する彼女に思わず声を掛けた。


「無理に手伝ってくれなくていいんだよ?」


 無理なんてしてない、そう言って首を振る。こちらをちらと振り返ると反対に質問を投げかけられた。


「渡瀬の話は聞いてないから分かんないけど、多分もえのためだったんでしょ?」

「まぁ、そうだね」

「ふたりがお互いのこと好きなのは気付いてたけどさ、人を殺したり、庇ったり。そういうのは何からしくない(・・・・・)って思っちゃうんだよね」


 疑ってしまう気持ちはよく分かる。彼等のことを間近で見てきた香田さんの方が、僕より余程強くそう感じるだろう。相手が彼等でないとしても考えにくい結論ではあるが、あのふたりから出る答えとしては最も不適当だと思ってしまう。最初から彼等を視野に入れなかったのは、生徒であることだけが理由ではない、絶対に。

 香田さんは続けた。


「悪あがきかもしれないけど、やってないって最後まで信じたい。だから何が本当で、何が嘘か、自分で知りたいんだ」


 昼時でありながら校舎はしんとしている。遠くの方では楽しげな声が聞こえているから雨のせいという訳でもなさそうだ。別棟と同様、誰ともすれ違わない校舎の階段を上がっていく。

 ――もしどっちかがやったなら一発叩いてやるけどね! 

 そんな彼女の冗談混じりの宣言が軽く響いて、強張っていた僕の顔を少しだけ解してくれた。



 図書室で僕達を出迎えてくれたのは、<大森>と記されたバッチを付けた物腰の柔らかい女性だった。その人は香田さんの顔を見ると心底驚いた顔を見せる。


「あら、珍しいこともあるものね。あなたが図書室に来るなんて」

「そういや初めてかも。だってさ、本読むの苦手なんだもん」


 ここに来るのは初めてらしいが、互いのことを認識している程度に知り合いらしい。そうでなければ話を聞くのは難しいかと思っていたから都合がいい。相手を警戒させないというのは重要なポイントだ。

 しかし後ろで待っていると世間話に花が咲きそうになっていて、僕は慌てて香田さんの肩を叩く。振り返った彼女は明らかに今思い出した顔で僕の隣へと移動した。……緊張感が突然なくなるのはどういう訳だろう。

 大森さんは僕を姿を見ると、ただにっこりと微笑んだ。目尻に小さく刻まれた皺が優しい人柄を物語る。


「あら、初めて見るお顔ですわ」

「初めまして、探し物探偵の神咲と申します」

「探し物……あ、高橋さんから伺ったことがありますわ」


 ここで高橋さんの顔の広さを再認識することになるとは。しかも大森さんに対しては僕のことをちゃんと説明してくれているようだ。今まで高橋さんから受けた依頼は大体知っているらしかった。


「それで今日は?」

「生徒達の無くしたものを探してほしいと、校長からご依頼をいただだいて参りました」


 急遽作った設定ではあったが、もうすぐ冬休みですものね、とあっさり納得してくれた。半分は本当なのだけれどこうも簡単に受け入れてもらえると、ラッキーというより申し訳なく思えてくる。いや、半分は本当なんだから気にしなくてもいいんだけど。

 ここに来たのは当然、渡瀬君の供述を確認するため。新垣さんの動きは誰にも目撃されていない可能性が高く、この事件のことを広めないためには他の生徒に聞くこともできない。一先ず僕にできることはこの図書室での彼の行動を知ることだけなのだ。

 彼の名前を出すと、大森さんは一層柔らかい表情を見せてくれた。彼から夏休みのことを聞いていたが、大森さんは彼に厚い信頼を寄せているらしい。


「あの子、ここで何か無くしたの? 何も見なかったと思うけど」

「ええ、彼も恐らくここではないと言っているのですが、念のため今日の動きを追ってみています」

「それはご苦労様です。私にできることがあれば言ってちょうだいね」


 礼を言って、まず室内を歩いてみることにする。すぐに質問をしたのでは警戒されてしまうかもしれない。

 カウンターとテーブルを過ぎて奥の窓際へと足を進める。背の低い書架が窓下の壁を隠すように取り付けられていて、足りないのかその上にもブックエンドを使ってシリーズ物が並んでいる。大きな窓の向こうに別棟が見え、正面は美術室だ。その中で椅子に座ってじっとしている新垣さんの姿が見えた。

 渡瀬君が話していた通り、図書室の窓からは別棟の廊下がよく見える。校舎が影を作っているから天気がいい日にも窓が光って見えなくなるということはないだろう。雨に濡れても一階の廊下までしっかり見えた。

 ここから物理準備室へと連れ込まれる彼女を見た心境は、考えただけで息が詰まりそうになる。駆け下りる階段が煩わしく、間に合わなければどうなるかという警報が頭を巡ったことだろう。彼女を救い出した彼に尊敬の気持ちも芽生えてくる。


「先生、今日渡瀬が返した本ってどれ?」


 背後でまたも気の抜けるような声が聞こえてくる。見れば、カウンター脇の返却本を乗せたカートを腰を丸めて眺めていた。付いては来たもののすることなしと判断したらしい。


「そこには無いのよ」

「え、何で?」

「いつも自分で元あったところに返してくれるの、図書委員だから当然だって」


 優しいわよねぇ、と自分の息子を想うような穏やかさで話す。自発的に手伝いを申し出てくれるからいつも助かっているそうだ。

 この人が今回のことを知ったらどうなってしまうのか。そのことにばかり思考が向いてしまう。もし本当に彼がやったことならばどうしようもない。そう思うけれどこんな悲惨な話、絶対に聞かせられない。聞かせたくない。

 何も知らない大森さんは、記憶を辿ろうと視線を上げる。


「確かJの棚の下の方じゃなかったかしら。タイトルは……」


 大森さんの言うJの棚は丁度僕の立っているところにあった。香田さんが小走りにやって来て、聞いたタイトルを探し始めた。僕は入れ違いにカウンターに近付くと大森さんに話し掛ける。

 

「こちらに来た時の渡瀬君の様子はいかがでした?」

「様子というのは?」

「そわそわしていたとか急いでいたとか。……落とし物をしそうな雰囲気だったか、みたいな」


 聞き方が思った程上手く行かず、怪しまれないかと僕自身がそわそわしてしまう。が、相手は割と鈍感なようで何も気にすることなく考え込んでいる。……有り難いけどとても心配だ。

 しかし結局首を横に振った。


「特になかったわ。いつも通りに来て、本を戻してくれて」

「そうですか」


 彼の供述通りなら、時間の面から考えてもすぐに出ていかなければいけなかった筈だ。でないと伊岡さんとかち合う前に堀氏を訪ねることは難しくなる。元々の予定で言えば気にする必要はないが、実際それぞれが誰にも会っていないのだからそこは注目すべきだろう。つまり彼は堀氏を訪ねるつもりはなかった、堀氏が盗みを働いたかどうか彼は知らなかったんだ。


「あぁでも、珍しく挨拶せずに帰ったわね」


 ふとそう口にして、大したことじゃないけど、と打ち消そうとするから慌てて詰め寄った。それが手がかりになるかもしれない。


「あ、挨拶とは?」

「さよならとかそんなものだけどね。いつも一言声を掛けていくのに、それがなかったなと。言われてみれば少し表情が暗かったかしら。

 ……そういえば窓の前でじっとしてる様だったけど、その時に落とし物に気が付いたのかしらね」


 余程大切なものなのね、と呟くのを僕は意識の外で聞いていた。

 じりじりと移した視線の先に香田さんの姿が映る。本を手にして、ふと窓の外に目をやる背中に少年の後ろ姿を重ねた。

 やはり彼は図書室(ここ)で何かを見たんだ。庇わなくてはと思わせるような何か。それなら答えとはひとつしかない。――新垣さんだ。


 本を棚に返す時、ふと別棟を見下ろして彼女がそこに入っていくのを見た。物理準備室――自ら踏み入る筈のない場所に彼女が入っていく。

 それに気付いた時、人はどんな行動を取るのか。彼女の姿を追う? どうしてと問い詰める? 

 彼にそんなことができるだろうか。想いを伝えることもせず守ると決めた男だ、彼女の行動に意見することはないだろう。寧ろショックの方が大きいかもしれない。そうであれば何故その場に向かわなくてはいけなかったのか、すぐに知りたくなる筈だ。しかし彼は暗い表情ではあったが慌てるでもなく出て行ったという。

 ……それはもしかすると急ぐ必要がなかったということなのではないか。彼女の行動が彼には受け入れられた、そんなところなのかもしれない。だが嫌悪している相手の元へひとりで向かうのを受け入れられる理由があるのか? なかなか出てこなければ不安になって様子を見に行く方が普通だろうし、一刻も早く、何があってもいいように近くに行こうとするような気がする。無事出てくるまでは気になって仕方ないだろう。でも急ぐ様子はなかった。

 ――出ていくところも見ていた?


「渡瀬君は窓の前に長く居たんですか?」

「いいえ、じっとと言っても一分位なものだったと思うけど」


 彼女の言葉を信じるとすれば、当然入室から退室までは暫くの時間が必要だろう。ものの一分で供述通りの行動ができるとは考えにくい。しかし彼が彼女の退室を見ていないとはもう思えない。

 『新垣さんは一分程度で準備室を後にした』。『渡瀬君は図書室からその出入りを見ていた』。

 彼女が体操服を自分で置きに行ったことと、彼が図書室に来たことだけを取り出せば、そんなシンプルな構図が出来上がる。そしてそれが示唆するのは、供述に根を生やした嘘の存在。――誰かを想う嘘は時に驚くほど真実味が溢れるから、厄介だ。


「香田さん、行こう」

「何か分かった?」

「ある意味振り出しに戻ったけどね」


 僕が言えば、何の事かと首を傾げる。その手には彼が借りていたらしい文庫本が。挟んだ指はまだ、最初のページから進んでいなかった。





「あたしがこんなこと言っちゃいけないって分かってるんだけど……犯人なんてもうどうでもよくない?」


 別棟へと向かう廊下の途中で香田さんは不意に立ち止まり、そんな風に打ち明ける。ここに来て少なからず衝撃のある言葉だった。


「改めて考えるとさ、やっぱ堀だし、最低な奴だったし。死んでよかったなんか言いたくないけど……仕方なかったって、言えなくもないと思う」


 振り返れば、揺れる意志が瞳に不安げな色を宿していた。生まれた正反対の思考のどちらに従えばいいのか、自分の中で迷子になっているようだ。

 遺体を前に彼女が呟いた言葉を思い出す。

『父さんはどんな気持ちで被害者を見て、どんな気持ちで犯人を捜したのかな……同じように思えるのかな』。

 あれはそういう意味なのだと気付く。誰が見ても被害者の方が罪深く、自己防衛や誰かへの思い故の行動がその人を加害者にならせたのなら、それは暴くべき罪なのかと。被害者の人となりを知っている彼女だから、必ずしも加害者を悪と見なければならないのかと疑問に思ってしまったのだろう。様々な事件を追った筈の父親は、それでも職務を全うしたのか、自分は同じ状況でそうできるのか。

 彼女は彼等の中で最も不安定な位置でこの事件を見ていた。犯人が誰かはこの際関係なかった。


 まだしとしとと雨が降り続いている。廊下の屋根を鳴らすほどの強さはないが、針のような尖った雨粒が地面に刺さるように落ちて、土に溶け入ることもできずに水溜まりを作っていく。その雲は青空を完全に隠し、指先さえ入る余地がないように思えた。


「君は、晴れると思うかい?」


 僕が問うと、彼女は不思議そうな声を漏らしながら隣に並んだ。同じく空を見上げたのが目の端に映る。明るい毛先は曇り空の下でも光っているように見えた。


「憎んだ相手を殺せば、その憎しみは晴れると思うかい?」


 上空は風があるのだろうか、雲が勢いをつけて流れていく。雫が風に乗って頬に当たって、思わず目瞼を閉じた。暗い視界の中で香田さんがこちらを振り返ったのが分かったけれど、僕はそのままでいる。絶え間ない静かな雨音を聞きながら、広がる青を思い出していた。その色は今日も同じだろうか。

 ――僕には分からないんだ。気が付けばそう口にしていた。


「凶器の重み、降り下ろした音、漂う血の臭い……。罪の感触を忘れることはできるんだろうか。五感に受けたその一瞬をなかったことにできるんだろうか。それはまたその人を苦しめてしまわないのか。

 僕には分からないけど、それまでと同じように笑うのは難しいだろうとも思うんだよ」


 罪の定義も悪の基準も、分かる筈がないけれど。ただ死が全てを終わらせる訳ではないことを知っている。悲しみと脱力感とやるせなさと、そうしたものしか生まれない。断ち切りたい憎しみや恨みはそのまま、遂げた時の喜びは一瞬で消えて。結局何の意味もありはしないんだ、きっと。逃れるための選択肢に挙げるべきではないんだ、こんなこと。心が重くなるだけなんだから。


「だから、たとえそこにどんな理由があったとしても自分の犯した罪と向き合ってほしいと思ってる。

 だって哀しいじゃないか、自分さえ誤魔化しながら生きるなんて」


 もっと彼女の助けになるようなことが言えたら良かったのに。何のお返しにもならなかった。

 そんな自分が少し恥ずかしくて、僕はそれ以上何も言わずに歩き出した。後ろで遅れて歩き出した足音に混ざって、そうだね、と聞こえたのは多分空耳じゃなかった。




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