何にも代えがたいもの
今年のクリスマスは平日で、金曜日でした。
つまり、クリスマスイヴも平日だったことになる。
付き合い始めた初めてのそれは社会人の私達には嬉しくない結果となった。
お互い別の家から出勤し、始業から終業まできちんと働き、おまけに残業までした。
私自身は仕事はそこまで立て込んでいなかったのだけど、藤代さんが残っているのに帰るのもちょっと、と思ってしまったから。
だから、何となくその日にやらなくても良い仕事まで片付けてしまった。
パソコンに向かい、余計な残業のせいかだらだらと仕事をしていれば携帯が小さく唸り声を上げる。
手に取り画面を指で操作すればそれは藤代さんからのメールだった。
もうすぐ帰るけど、どうする?
私と彼は交際してる事自体隠している。
だから、同じように残業をしている時はどちらか目処が立った方がこうやってメールをする事にしている。
最初の頃は思わずにやけていた顔も、すっかり平常心を保てるようになった。
大丈夫です
そう返しながら質問の答えとしては間違っているような気がした。
帰れますとか終われますとか、そういう方が正しいだろうと顔を上げ、彼が居る方を見ればちょうど同じように顔を上げた所で目が合い小さく頷かれた。
偶然一緒に帰る事になるというのを装うように出ないといけない。
暗黙の了解でメールを出した方が先に立つ事になっている。
「俺そろそろ帰るね、せっかくのイヴだし」
周りでまだ残業している彼の同僚に言いながら立ち上がると大きく伸びをした。
それを見守りながらこそこそと帰り支度をする。
鞄に携帯をしまいパソコンの電源をそっと落とす。
彼が鞄を持ち私の横を抜けた後に、そっと立ち上がり周囲の人に声を掛けた。
「私もそろそろ失礼します。お疲れ様でした」
ぺこぺこと頭を下げれば、お疲れと声が掛かりそれを受けオフィスを出た。
手にコートとストールを持ち、足早にならないよう気を付けて歩く。
藤代さんの後を追っているのだと決して気付かれないように、細心の注意を払って。
「蓮見」
会社を出た一番最初の曲がり角、が俺たちの待ち合わせ場所になっている。
駅へ行く道では無くそこへ向かう大周りをする道は大抵の社員は通らない。
その上、普段使う南口では無く、線路の下を通り北口へと出れる道になっていた。
誕生日に貰ったダークグレーのカシミアのマフラーに顔を埋めながら待っていれば恋人の姿を見つけ声を掛けた。
「すいません、お待たせしました」
事務所を出た瞬間に早足になったであろう蓮見依子は少し息を切らせていた。
顔を埋めるように巻かれた淡い桃色の大判ストールはこの日より前にあった誕生日に贈った物で、彼女は嬉しいから毎日使いますとの宣言通り毎日使ってくれている。
それにそっと笑みを浮かべ大丈夫だよと言いながら彼女の手を取る。
ここで待っていた俺の冷え切った手は出てきたばかりの彼女の手の暖を少しでも分けて貰おうと、それを握りしめた。
「わ、冷たくなってる。藤代さん、手袋くらいして下さい」
彼女は暖めるように同じく握りしめてくれ、そのまま俺から歩き出せばすぐに着いてくる。
「必要無いでしょ、お招き出来るんだから」
くすくす笑いながら蓮見の手ごと左ポケットへ入れれば、ただ、ただ、嬉しそうな顔をする。
そういう顔が見たいんだよね、と思いながら普段よりずっとゆっくり歩いて駅に向かった。
繋いだ右手はそのまま時折左手で肩からずれるストールを巻きなおすそれに合わせるよう、秘密の散歩を楽しみながら辿り着いた先の駅ではそっと手を離す。
誰かに見られたらというどちらからとも言えないいつも通りの仕草。
ややホームで待った後に乗った電車がラッシュを過ぎているにも若干車内が混んでいるのはきっと今日がイヴだから、だろう。
電車の中には手を繋ぎ合うカップルやケーキの箱を持った中年男性が多く見られた。
彼女とはこの日を迎える前に平日だね、と話してある。
どっちにしてもゆっくり出来ない日にあわあわやるよりはその後の休日にそれっぽい事をしようと話が纏まっているから、そういう空気に俺たちは乗れていない。
「すごいクリスマスっぽいですね」
電車自体はいつもと変わらないはずなのに、そう思うのは彼女も一緒だったらしい。
「ほんとにね、日本人ってイベント好きだよね」
そうぽつんと呟けば隣に立って吊革を掴む彼女はずりおちたストールを肩に戻しながらくすくす笑う。
「藤代さんだってそうじゃないんですか?誰よりイベント好きって顔してますよ」
その言葉に、ご名答ですと言いたくなる。
今日が平日じゃなかったらレストランでも予約して、その後はホテルに一泊というコースを企画していた。
ただ、そう出来ないのが大人の残念な所だと思う。
大人になるというのは自由に見えて実はひどく不自由だ。
堂々と蓮見と付き合ってると言えないのだって、そうだろう。
「そりゃね、好きだけど。自分が楽しめなかったら、楽しく無いでしょ」
まして休前日じゃなければ、それは倍になる。
今日が休前日だったらよかったのに、と思う。
俺はクリスマスイヴという一年に一回しかないこの日を普段通り、彼女が先に降りるのを見送らないといけない。
「そうですね。でも、週末に振り替えたんだからそんなにがっかりしなくても良いじゃないですか」
そりゃあ、そうだけど、と思う。
そりゃあ、明後日には蓮見はきっと料理の腕を奮ってくれ、クリスマスらしい食事を家で楽しみながら映画を見て、その後プレゼントを交換するのは悪くない。
けど、それってさ、クリスマスじゃなくても出来るじゃない。
一年に一回のこの日だから特別なんであって、どんなにそういうつもりで居たって街の装いは新年に向けて切り替わってしまっているし、特別感が薄れるんだ。
「分かってますよ、子供じゃないから。たださ、蓮見と初めてのクリスマスだから思い出に残る日にしたいの。……今日、来る?」
前を向いて会話していたそれを止め彼女の居る方を向けば驚いた顔をしている。
あの試していると言われた日以来こういう事は言わないようにしてきた。
俺がそう言えば彼女が困るのも知っていたし、そんな事を言わなくても週末には俺の所に来てくれるのは分かっていたから。
だから、今日は試したんじゃない。
ただ、我儘を言っただけだ。
「……え、えっと……」
彼女が口を開き掛けたその時、電車が駅に着く。
そこは俺より少しだけ会社に近い彼女の最寄り駅で溜息を吐きながら吊革から手を離す。
「うそうそ。ちょっとからかっただけだよ。ほら依子、乗り過ごすよ」
開いたドアから人が続々と降りていくのを見ながら早口で言い、右ポケットから小さな包みを出して降りるのを迷っている彼女のコートのポケットにさっと滑り込ませた。
それに戸惑うその背をそっと押してやればそのまま振り返りながら彼女は電車から降りていった。
窓ガラス越しのその恋人に手を振ってやればすぐに電車は発車した。
今起きた出来事がよく分からず手を振った藤代さんを見送った。
どうしてこんな風に二つも一緒に起こすんだと思う。
彼は何て言った?
私の事を蓮見では無く依子と、確かにそう言った。
今まで一度だって名前で呼ばれた事は無い。
あの朝、リサと呼んだのは私の名前では無いし、その後はそれを気にするように彼は言わなかった。
「……えぇ?!」
ようやく呆然としていた頭がはっきりし、今、私は名前で呼ばれたのだと認識する。
顔が熱を帯びていって恥ずかしくって俯いて足早にそこから脱しながらポケットに手を入れればそこにはもう一つがしっかりとやっぱり入っていた。
エスカレーターに乗りそれを取り出せば、クリスマスらしく赤い包装紙に金のリボンが掛かった、本当に小さなプレゼントがある。
エスカレーターの終点を迎えそれを降り端に寄ってからリボンを外す。
開けるのが勿体ないと思ったのは二回目だけれど、開けないと中が何か分からないし、そうやって大事に取っておくのは相手に対し失礼だ。
だからなるべく綺麗に、包装紙を破かないように開けば透明な袋にベージュの細切りになった紙のクッションが敷かれその上にブローチが乗っていた。
透明なビニール袋に入っているからそれがきらきらしているんじゃないと思う。
鈍い金の台座の上には薄い紫と薄いピンクのガラスが市松に二つずつ埋め込んであった。
それはまるでアイスボックスクッキーのようにきちんと均等な正方形になっている。
そこから真横に伸びる大きな安全ピンも同じ鈍い金だった。
「……これって」
包みを開ける事無く今巻いているストールに合わせればそれは、ぴったりだ。
薄い桃色の生地に鈍い金色も薄い紫も薄いピンクも、ぴったりだった。
それを持ったままそっと息を吐きだす。
何だやっぱりイベント好きなんじゃないですか、と思いながらにやけた顔で透明な袋を開いた。
さて、どうかな。
依子は喜んでくれるだろうか。
それとも御怒りのメールが来るかもしれない。
依子とずっと呼びたかった。
リサと前の恋人と間違えて呼んでしまった時からずっと気にしていたんだ。
ただ、それをいつどうやって呼んだら自然に出来るか分からなかった。
電車はすぐ俺の降りる次の駅に着き、ホームに立てば彼女からメールが来た。
ありがとうございます。
大切にしますね。
と、簡潔なそれはひどく依子らしいと思う。
多分、俺の事は修二とすぐには呼んでくれないと思う。
けれどそれでも良い。
俺がどんだけ依子を特別に、依子だけを想っているのか、それで少しでも伝われば、それで良いんだ。
歩きながら依子のそれに、どういたしまして。驚かせてごめん、とだけ送り改札を抜けた。
それから駅近くのケーキ屋へと足を向けた。
藤代さんがサプライズでプレゼントをくれたその日、結局もう一度電車に乗って会社近くまで戻った。
イヴだからと彼がいつもより少し早めに切り上げてくれた残業の御蔭でデパートはまだ開いていた。
本当は土曜日か日曜日にデートがてら来て好きな物を買えば良いと思ってた。
初冬に誕生日を迎えてしまっているし、サプライズするにしても限度があるから。
付き合って間も無く、そこまで彼の好みを熟知しているわけじゃない。
ストールとマフラーという似たような物になったのだって、それが無難だからだ。
もちろんそれでも藤代さんからの贈り物というだけで価値は跳ねあがりお気に入りの物のひとつにはなっている。
ただ、よく考えれば彼がそうやってサプライズをしても何ら可笑しく無い。
そういう人だと思う。
女の子を喜ばせる事を自然と出来て、それをスマートにこなす。
それに比べ私はそうじゃない。
何て言うか、男の人と付き合った事が無い訳じゃないけど、恋愛に不器用なんだと思う。
そこは私と彼の大きな違いだろう。
足早にエスカレーターを駆け上り向かった先は紳士物を扱うフロアで、真っ先にそれが売っている売り場へと向かう。
大きさが色々あるのを見て自分のと比べながら、思い出しながら、シンプルなダークグレーの手袋を買った。
そのまま下の婦人物のフロアに行き、同じようなシンプルなストールと同じような色の手袋をひとつ買う。
これは自分へのクリスマスプレゼントにしようと思い包装は断った。
手袋を贈っても彼だけがそうなら着けてくれないかもしれないと思った。
蓮見がしないなら俺もしないよ、と平気で言いそうだし、片方だけされても困る。
私自身は彼のお招きを受けるのは嫌いじゃないし、そうしたいとずっと願っていたのだから不満は無い。
ただ、もっと自由に手が繋ぎたいんだ。
ポケットの中にひっそりと隠した繋いだ手じゃなく、堂々と手を繋いで歩きたい。
それがもちろん会社の周囲で出来ない事は分かってる。
でも、休みの日はそうやって堂々と手を繋ぎたい。
もう、私達は隠れて会って負い目を感じる間柄じゃなくなったんだから。
お招きではなくお見せ、したいと思っている。
電車に揺られながら、彼の返事を確認した。
手袋は土曜日に渡そうと思っていたけれど、それを見てやめようと思った。
明日、帰りに渡せばまだクリスマスプレゼントになる。
彼のメール通り驚いたけれど、嫌じゃなかった。
むしろ嬉しいという方がずっとずっと強い。
だから、彼にもそれを感じて欲しいと、思った。
「ケーキ?」
依子はそう手袋越しに繋いだ手のまま呟いた。
前日と同じよう待ち合わせた依子の手には薄い桃色の手袋があった。
へぇ、と思いながらお招き出来ないなと少し息を吐けば彼女は鞄からクリスマスらしく緑色の包装紙に銀のリボンのそれを取り出して両手で持って向けてきた。
そう言う事をしそうに無い子だったから本当に驚いた。
中から出てきたのはマフラーと同じダークグレーの手袋で、まるで測ったかのように俺の手にぴったりだった。
これからは手を繋いでる所を見せつけませんか。
そう少し顔を赤くして告げる彼女を抱きしめそっと口付けをすれば、彼女は他の人に見られるともがいて逃げた。
それを見て依子だ、と思いながらすぐに手袋を嵌めて手を繋いだ。
例え誰かに見られても構わないじゃない、と思った。
見られた方が本当は良いんだと思う。
誰かに見られて付き合ってると知られた方が、本当は、依子は安心するだろう。
他の誰でも無く依子と付き合っているという事実があった方が良いと思った。
「そう、ケーキ。クリスマスっぽいじゃない?」
「でも、明日やるんで……」
言いながら予約票を出し箱詰めされたそれを店員が俺たちに見せればそれをを見て彼女は言葉を止め息を小さく飲んだ。
店員が持っている箱はひとつじゃない。
やや小ぶりで小さな箱を二つ持ってみせてくれている。
四号サイズというその小さなケーキは大体直径十二センチくらいだ。
二人でなら一回にワンホール食べれちゃう大きさ。
俺も依子も甘い物は嫌いじゃないから、きっと、食べれちゃう。
バウムクーヘンを喜んでいたんだし、明日も明後日も休みだから、その間には無くなってしまうだろう。
「二個あれば、良いでしょ。明日もそういう気分に浸れて」
言えば、えぇ、まぁ、と言葉を濁しながら困った顔をしていた。
チョコレートケーキと普通のクリスマスケーキのそれはどっちも同じようクリスマスの飾り付けがされていて、それで大丈夫だと告げて代金を支払った。
二人でひとつずつ持ちながらゆっくり歩いて帰る。
ケーキ屋を出た後に寄ったコンビニで買ったアルコールは俺が纏めて持っている。
ただ手はどうしても繋ぎたくて片方に寄せたそれらが非常に歩きにくかった。
「ケーキ二個なんて初めてです。どうしてですか?」
そう聞かれ、うーんと呟きながら口を開いた。
「だって、クリスマスもちゃんとやりたいし、明日も楽しみだったからさ。どっちもケーキがあった方がさまになるじゃない」
それに依子はくすくす肩を震わせた。
「やっぱり藤代さんはイベントが好きなんですね。それも全力で楽しもうとしてるなんて」
それに肩を竦めて見せ、そのままどちらを先に食べるかなんて話しながら帰宅した。
一生で一回しか、それは無いんだ。。
依子と過ごすクリスマスもバレンタインもお正月も、全部、初めては一回しか無い。
ずっと依子に我慢させてたから、ずっと俺も控えていたから。
だからこそ、ずっと記憶に残るような特別な物に、ただ、したかったんだ。
隣で笑ってる、その、嬉しそうな顔が、ただ、見たかった。
依子のその笑顔は、この瞬間の笑顔は特別な物、だから。
何にも代えがたい尊い物、だから。
アパートに着き手一杯な俺は彼女に向けて声を掛ける。
「依子」
そう呼んだのは昨日呼んでから初めてで、ぼんっと音を立てるよう真っ赤になった顔を見て笑いながら言う。
「依子、開けてくれる?俺、手一杯だから」
俺が名前で初めて呼んだ後の顔を見れないのはひどく残念だと思っていたけれど、杞憂だったようだ。
依子は充分それを再現していてくれて、昨日ホームでそうやって赤くなっていたのかと思えばくつくつ笑えてくる。
「そんなに笑わないでください、藤代さんっ!」
アパートのセキュリティを解除してドアを開けた彼女は真っ赤になったまま怒って先に入り、通り過ぎる時にきらりとストールを止めたブローチが光った。
それを見て頬を緩めながらごめんごめんと謝りながら後を追う。
前を歩くその背を見ながら笑みを消しそっと口を開く。
「どうか修二って呼んでくれますように」
小さく呟いたそれが聞き取れなかったようで依子は振り返り、何ですか?とまだ怒ったまま言う。
それに何でもないよと答えながら首を振った。
イヴは終わってしまったけど、きっと、サンタクロースは俺の欲しい物をいつかくれると思う。
俺が良い子に依子だけを見て居れば、きっと、大人になっても、いつか俺の願いを叶えてくれるだろう。
いつかそう呼んでくれる日が来るのを、俺は楽しみにしている。
一月十九日 追記
親作品の七篠りこ様よりお褒めの言葉を頂戴いたしました。
「読んでびっくりしたのは、作者以上に藤代の気持ちをわかってらっしゃるということでした!」
こちらは勝手に七篠様の活動報告から引用させて頂いた物ですが、これは二次創作をしたという事において最高の褒め言葉だと思っています。
そう言って頂けて書いた甲斐があったと思いました。
本当にありがとうございました。