昔の話【赤】
【夕暮れ】
茜色の空の下。夜に向けて人が多くなる歓楽街。柔らかい風が慰めるように頬を撫でる中央通りを、私は一人、歩いていた。隣にもうあの人はいない。きっと今頃は宿に入っていて、受付とかしているんだろう。本当は私も早く孤児院に戻るべきなんだけれど、それでもこんな所を行く当てもなくうろついているのは。
自分に居場所なんて無いことを、悟ってしまっているから。
「馬鹿、だなぁ」
今帰ったら、必死に抑え込んだ色々な物が溢れてしまいそうだった。それがどんなにいけないことかは、よく知っている。私は一生『私』であり続けるんだ。だから、『私』じゃないことをしては駄目。ーーなんて、自分を偽らなきゃ居られない場所を、本当の居場所とはいえないでしょう?故に、私には『心許せる場所』とやらがない訳で。
「忘れちゃった、んだよね」
さっき会った彼。「前に会ったことある?」と訊かれて咄嗟に「ない」って答えたけれど、実を言うと一度、会ったことがある。会った、というか一緒に過ごした、というか。もう随分前の話だけれど、私は一度も彼を忘れたことがない。ずっとずっと覚えていたし、ずっとずっとーーーー
「しょうがないなぁ」
彼が私を忘れていますようにと、願ってたんだ。
思わず漏れた苦笑い。もうしばらく街をうろつくつもりだったのに、気が付けば足は勝手に孤児院へと向かっていた。空でもすっかり太陽は沈んでいて、うっすらと月が浮かんでいる。
この国は、夜になるとまた表情を変える。ルールは無くとも常識として守られていた一線が弾け飛んで、もはや誰にも止められはしないのだ。当たり前のように人が死んで、当たり前のように堕落が繰り返されて。ぐちゃぐちゃぐるぐるに掻き回された沢山の感情が、人間の姿で闊歩している。流石の私も、そんなのに構っていられない。早く、早く帰らなくちゃ。
ああでも、帰りたくないなぁ。
彼のせいで一向に落ち着かない脳内は、さっきからずっと脈絡も無いことを考え続けてる。見るもの全部に思考が飛んで、自分が何を言ってるのかもわからない。わからない。わからないよ。
私は今、どうしたいの?忘れていて欲しいなんて勝手に思ってたくせに、胸が苦しくなって。聖人君子になれる気はさらさらしないけれど、せめていい人になれたなら。
こんなに、嫌なことを考えなくても済んだんだろうか。
私は『私』の、彼が好きだと言ってくれた『私』のままで、ここに居られたのかな?
……わからない。私は、何にもわかっていない。
「酷い傲慢だ」
なんて自嘲して、空を見上げて。
すると突然、背後から明るい声が投げかけられた。
「セラちゃんだー!!」
ああ、見つかっちゃった。
という言葉は心中だけに留め、私は笑顔で振り返る。
「ユニアちゃんもルイちゃんも、どうしたの?ここは危ないよー」
そこにいたのは、予想通り孤児院の子どもたちだった。何をしに来たのか、何をしているのかはわかりきっているけれど、とりあえず知らんぷり。
「セラちゃんを迎えに来たんだよー!」
「……かえって、こないから。みんな、しんぱいしてる」
口調や表情に違いはあっても、二人とも咎めるような目をしていたことに変わりはない。どうやら私が思っていた以上に心配されていて、私が思っていた以上に、皆真剣になって探してくれていたみたいだ。ちょっと申し訳ないなぁ。大人気なかった、とも言う。
「ごめんごめん。もうすぐ帰ろうと思ってたんだよ?」
「駄目だよー!セラちゃん可愛いんだから、悪い人に連れてかれちゃったらどうするのっ」
「あはは……」
「……さっきのひとが、わるいひとだった……?」
「っは!そうか、そうだったんだね!?」
「いやいやいや違う違う」
ついさっきまで彼氏だなんだと言っていたのに数時間で不審者になるとは、子どもの発想力って恐ろしいなぁ。なんて思いつつ、彼の名誉のため懸命に否定した。犯罪者の巣窟みたいな理想郷だけれど、私みたいな物に手を出したとか、あまりにも不名誉だ。
「ちょっと、うん、『道に迷っていただけ』だよ」
二酸化炭素を吐き出すように嘘を吐き、酸素を吸うように笑顔を作る。それだけ子どもたちーーいや、ユニアちゃんの方は納得してくれた。こういう時、彼女の素直な性格はありがたいよね。良く言うなら騙しやすい。悪くいえば純粋。
だけど、前述の通り納得してくれたのは。
騙されてくれたのは。
純粋でいてくれたのは。
ユニアちゃんだけで。
子どもらしくない方ーールイちゃんの方は。
良く言っても悪く言っても聡い彼女は。
きっぱりあっさりすっきり騙されてはくれなかった。
「ちがう、そうじゃ、あなくて」
どころか、純粋ですらいなかった。
言うならむしろ純真だ。純なる真実と書いて、純真。我ながらすごいこじつけだけれど、こう表現をするのが一番相応しい、とも思う。
「あのひとの、せいで?泣いてる、でしょ」
子どもであるが故に、心の奥まで見通して。
「そ、そんなことーーーーーー」
私は、否定しようとしたのだと思う。いつもみたいにいつも通り、「そんなことないよ」とか「違うよ」とか。現に私の脳は言い訳の言葉を考え出していたはずだ。
はずだった。
なのに、開いた唇から漏れたのは今まで散々吐いてきた嘘のどれでもなくて。
「ふ、うぅ」
耐えきれない、嗚咽。
「え、ちょ、セラちゃんどうしたの!?」
「……泣かない、で……」
駄目だ。駄目駄目だ。
私が泣くのは、理不尽だ。
そんなの充分わかっている。だけど、一度零れ出した涙はもう消えてくれない。
どころか、胸の奥で冷たく軋んだ心臓が哭く。
「っ、ふぇ」
足に力が入らなくなって、私はその場にしゃがみ込んだ。自分よりかなり歳下の少女の前で泣きじゃくるというのはあんまり良い光景とは言えないけれど、私の意思に反して体が動く。感情に従って、理性を裏切って。
「、ひっく。ひぅ、うう」
せめてもの抵抗で口元を押さえ、赤くなるのも構わずに目元を擦る。心配そうに私の顔を覗き込んだり、落ち着かせようと頭を撫でたりしてくれている子どもたちに、「大丈夫だよ」と笑いかける余裕もなかった。ただ、逆上せた脳に彼のことが浮かんでは消えていく。
「せ、セラちゃん~」
「大、丈夫?大丈夫……?」
彼は、私を知らない。覚えていない。
予想は出来ていたことだ。いつかこんな日がくるんだって。それでもいいと決めたのは、他でもない私じゃないか。何を今更。
また彼が苦しい思いをするぐらいなら、私のことなんて忘れたままでいい。彼の涙をみるぐらいなら、私が泣いていた方がずっといい。私の涙なんて、時間がたてば枯れるのだから。明日には、もうヘラヘラ笑えているだろう。それが私だ。
例えこのまま、誰の記憶にも残らず消えるのだとしても。
《今度こそ、助けるよ》
あの言葉が私を、今まで生かしてくれたから、私は今も彼を思い続けることが出来ている。それだけで、充分だ。
充分なのだ。
「うぅ、うわあああああああんっ!」
こうやってみっともなく泣くのも、これで最後だ。最後にする。だからせめて今日だけは、誰のためでもなく自分のために泣こう。
明日また、笑えるように。
一番星が瞬いて、色とりどりの提灯が灯り出す。いよいよ夜を迎えて、活気づいたこの国の隅。小さな少女たちに見守られて、私は子どものように声を上げて泣いた。何年ぶりかは覚えてないけれど、かなり久しぶりだったことは間違いない。それくらい私は泣いた。情けなく泣いた。馬鹿みたいに泣いた。
それから、ふと考える。
きっと明日は晴天だろうと。
純粋に純真に、そう思った。
「あーあ、残念でしたね?セラ。終幕まであと44日。精々頑張らないで下さいね。」