幕引き【夜】
「私を静かにさせておいてくれ。 私が静かにそっとしておれるものなら、いますぐにでも、全世界をだって、 タダの一文で売り渡したいくらいものだ。」
フョードル・ドストエフスキー
深夜、イェストにて。
「面倒なことになりましたね。」
少女ーールイは、急いでいた。
とはいえ、焦っているのではない。【強欲】の化け物である彼女には、焦るという感情がまず存在しない。それが在るのは、制限時間を持つ人間だけだ。
故に彼女は、ただ『急いでいる』のである。何故か、といえば。
「先日、彼女の媒体だった人間が死んだから。」その言葉に尽きるだろう。
『彼』が死ぬことは、彼女の予想の範囲内だった。だが、あの場で死ぬのはーー否。あの場で“消滅”するのは、想定外だったのだ。
彼は、彼女の手の届く所で消える筈で。彼女の目の届く所で、【正義】は戻ってくる筈で。それは数十年前から張り巡らせてきた伏線の結果で、今更変えることは出来ない筈だった。
だが。
そんな彼女の想定や予想は華麗にひっくり返され、だからこそ、このような不本意極まりない結果に終わってしまったのだった。
その原因はわかりきっている。
「……あのクソ犬……。」
そう、彼女と同じ大罪の一つ。【暴食】の化け物であり、【喰夜狼】を取り込んだ罪深き少年。
彼の存在そのものが、彼女にとっては唯一のイレギュラーだったのである。
「流石、『大罪殺し』なだけあるということでしょうね。」
いくら化け物とはいえ、長年に渡る計画を叩きのめしてくれた彼に、苛立ちが募らない訳が無い。表情こそ平静を装ってはいたが、彼女の優秀にして歪んだ思考は、さてどう報復してやろうかと、そればかりを考えている。
「ふざけたことしてくれやがったお礼は、ちゃんとさせて頂きましょう。」
それでも思わず当たり散らしたくなる衝動を抑え、彼女は懸命に小さな足を動かしていた。何故なら、彼女は急いでいたのだ。それこそ、なりふり構わないくらいに。
「でも、まずはーーーー【正義】の、回収を。」
そう。
彼女は一刻も早く、【正義】と【憤怒】を引き離さなければならなかった。折角『彼』を消滅させたというのに、【正義】が殺されてしまっては意味がないのだから。
無論、【憤怒】に大罪殺しの能力はない。つまりあの少女には【正義】を殺せる可能性すらないのだけれどーーただし、【暴食】がどう動くか明確でない以上、行動は急ぐべきで。
イレギュラーの厄介さを身を持って知ったばかりの彼女は、ひたすら夜の街を駆ける。目指すは、『シュバルツ・オブ・ヴァイス教会』。
ため息を一つ零して、路地を左に曲がる。
彼女は知っていた。この道は狭いが、目的地まで最短距離で行けることを。
彼女は知っていた。この調子で進めば、朝までには到着出来ることを。
彼女は知っていた。着きさえすれば、後はどうとでもなることを。
だが、彼女は知らなかった。
最も重要なことを、知らなかった。
「はぁい、【強欲】ちゃん。ハジメマシテ。」
「、っ!」
思わず喉が引き攣る。
深夜で路地裏。とはいえあくまで繁華街の中だ。誰か先客がいるだろうとは彼女とて思っていた、が。まさか自分の前に立ちはだかるとは、そしてまさかその『先客』というのがーーーー【傲慢】の化け物であるとは、いくら何でも想定のしようが無かった。
「な、んで。」
「さぁて、何故でしょう?……なんて、わかりきってるよね。」
うん?と、【傲慢】は黒い目を細めて笑う。灰色の髪が風に靡いて、背に生えた白い羽が惜しげもなく晒されて。
それは、理想郷に隠居してからの彼女の姿ではなかった。燃え盛るような朱ではなく、焼き尽くしたような灰色。まさしく、堕ちる前のーー全盛期の彼女の姿。
「知りませんよ、化け物……!」
ルイは、頭の奥で警報が鳴るのを感じた。『全知』の能力が告げているのか、または自身の本能が告げているのか、わからないが。
落ち着かなければとは気付いているのに、意識が理性を裏切っている。震えは止まらないし、動揺も収まる気配はない。それも仕方が無い。なにせ、今ルイの目の前にいるのは圧倒的に最強にして完全なる完璧の象徴。【傲慢】ことルシファー、その人なのだから。
「んん?どうしたの、なんか怖がってる?」
おどけた様な仕草で一歩一歩向かってくる彼女に、一歩一歩後ずさりながら必死に声を振り絞る。ルイに出来るのは、それだけだった。
「なんの用ですか?まさか、復讐って訳でもないでしょうに。」
「まぁね、そこまでつまんない生き方してないよー。」
「、じゃあどうして」
「見ての通りだよ。」
彼女は、声を上げて笑う。明らかに怯えているルイを見据えながら、子供のように楽しげに。
「君を殺しに来たのさ。」
その瞬間周囲の温度が著しく下がった気がして、ルイは無意識に自分の体を抱き締めた。
化け物である彼女が、死という事象に恐怖することはない。『所詮は余生』そんな考えが、常に存在しているからだ。故に、大罪殺しにだって恐怖を抱いたことはない。
それでも、今彼女を襲ったのは間違いなく恐怖だった。殺される、とか痛めつけられる、といった類の未来を想像したからではなく、ルシフェルという存在そのものが。
彼女にとっての、『恐怖』で。
「ねぇ、どうして人を殺しちゃいけないんだと思う?」
だが一方のルシフェルは、そんな事を気にした様子もなく。まるで世間話でもするように、先ほど「殺す」と宣言した少女に向けて声をかけた。
「自分が殺されても文句は言えないから、とかじゃないんですか?」
「んー、君にしては随分と月並みだねぇ。ナンセンスな回答だよ。」
「……うるさいです。そもそも、人を殺しちゃいけないっていうのが間違ってます。」
「ーー死ぬべき人間は死ぬべきだ、って?まぁ、君はそうだよね。そうじゃなかったら、あの子を消滅なんかさせないか。」
「じゃあ、貴女はなんで殺しちゃいけないと思うんですか?」
ルイは、反射的に答えを返す。彼女にしては珍しく、言葉以上の意味は含まれていなかった。
算段を。此の場から、無事とは言えないまでもせめて生存したまま、逃げきる算段を。『全知』と称される能力を駆使して練っていただけで。
そのための時間稼ぎ、というだけの会話で、回答で。返答だったのだけれど。そんな生半可な覚悟で立ち向かうには。
ーー少し、相手が悪かった。
「理由が無いから、かな?人を殺す理由が、この世には存在していないんだよ。屁理屈なら山程あるけれど。」
「理由、ですか。」
「そう。言い換えれば、人殺し程楽な娯楽もない訳だよね。刺しても縛っても括っても撃っても抉っても削いでも千切っても晒しても殴っても蹴ってもバラしても潰しても愛しても、人間は死んじゃうもの。」
些か芝居がかった仕草で、ルシフェルは両手を広げてみせた。彼女は現世切りどころか、ナイフの一本も持っていない。全くの丸腰だ。
さて、それでどうやって自分を殺すのだろう?ルイは内心首を傾げながら、油断なく彼女の一挙手一投足に意識を向ける。ルイに余裕や慢心は欠片も無い。むしろ細心の注意を払って、最大の恐怖を持って相対している。そうしなければならない程に、彼女は危険だった。
だが。
「ではでは。
化け物を殺すには、何が必要でしょーか!制限時間は、十秒っ。」
彼女に相対する。
その状況を招いてしまったことが、既に『驕り』であり。
「は、?」
「じゅーう、」
呆然とするルイへ、彼女は跳ねるように近付いていく。もはやルイには、後退する選択肢すら残されてはいなかった。
カウントダウンは、続く。
「きゅーう、」
「ちょ、っと待って下さいよ。貴女には、私を殺す理由はないでしょう!?」
ルイの決死の叫びも、彼女には届かない。
勝ち豚が負け犬の遠吠えを聞かないように、または神が、人間の言葉に応えないように。
「はーち、なーな、ろーく、」
「っ、あ。や、やだ……!」
「ごー、」
たん、っと彼女が着地したのは、ルイの真っ正面。二人の間に、もう大した距離は残っていなかった。ーー丁度、四歩分程度しか。
「よーん、」
「っ何だって言うんですか!私は、貴女には何もしていないでしょう!?どうして、」
ルシフェルが一歩踏み出す度に、ルイは心臓の奥が冷えるような感覚を覚えた。血液が、筋肉が、内臓が、ルシフェルに逆らうのを拒否しているかのように。
ルシフェル。またの名をルー。彼女は、それ程までに絶対で。
とはいえ、ルイもここで殺される訳にはいかなかった。折角【正義】は復活させたというのに、今死んでは元も子もない。
故に、ルイは無謀にも。
「さーん、」
「、!」
くるりと体を反転させ、先ほど来た道を駆け戻る。震える足は何度もつまづき、乾いた喉からは熱い吐息が吐き出されるが、なおも彼女は走った。
走って走って走って。遠くで聞こえるルシフェルの声から、懸命に意識を逸らして。
「にーい、」
咄嗟に飛び込んだ曲がり角。
そこで彼女は、戦慄した。
「いーち、」
ついさっき。本当に数秒前まで後方にいたルシフェルが、目の前で微笑んでいる。信じられない光景に、彼女は声にならない悲鳴を上げ、
「ーーーー零。」
がちゃん、と音を立てて額に突きつけられた銃口にも、反応することは出来なかった。
「そういえば『知って』た?最近は、これで死ぬのが流行ってるらしいよ。」
艶消しを施された、闇のように黒い銃。その引き金に指を添えると、彼女は。
笑って。微笑って。嗤って。嘲笑う。
「ばーん。」
それは今回彼女が初めて見せた、嗜虐的な笑顔だった。
「ーーさて、と。そろそろ、シンデレラの魔法も切れる時間だね。」
「答え合わせをしようか。『化け物を殺すのに、必要なものは何か』。」
暗い暗い路地裏を控えめに照らす、一本の街頭の下。ルシフェルは、徹底的に淡々とした口調で言った。先ほどまでとは打って変わった、冷たい表情を浮かべて。
「それは『殺意』。後は『衝動』。これだけで、化物は充分死ねるんだよ。理由も屁理屈も、要らない。」
「だから私が君を殺したことにも、明確な理由は明確に無いんだーー好きな人のためでもないし、友達である『彼』の復讐でもなければ、文字通り移し身なセラのためなんかでも誓ってない。」
「強いて、強いて強いて強いて言うならば、線引きなのかな。ほら、書き間違えた時に、消しゴムを使わず一本横線を引いて『無かったこと』にする人がいるだろう?あれと同じだよ。」
当然、『彼女』からの返事は無かった。だが、ルシフェルの一人語りは続く。
「そんなもんさ……その程度の存在なんだ。君も、私もね。どれだけ足掻いたって、脇役でしかーー番外編でしか、いられないんだよ。」
「だからこそ、私達は指を咥えて見ているべきなんだ。あの子たちが作るストーリーを、観客としてね。私達の物語は、またいつか始めよう。」
くるんと体を反転させ、ルシフェルはゆっくりと手を伸ばした。掌越しに見える金色の月が、真冬の夜空に淡く滲む。
「ではでは、これにて終幕。折角の最後だーー私達らしく、借り物の言葉で締めようか。」
足元に広がる赤い水溜りにも、もう動かない“何か”にも、背を向けて歩き出す。この時の彼女の表情を、目撃した者は誰もいない。やはり笑っていたのか、あるいは泣いていたのか、それはもはや知り様のない真実だけれど。
「from、ベートーヴェン。」
翌日の朝。
その小道に何一つ残っていなかったことを思えば、彼女の心中は、やはり明らかなのだった。
「『友よ拍手を。』」
ーーーーーーーーー「『喜劇は終わった。』」
「とにかくね、生きているのだからインチキをやっているのに違いないのさ。」
太宰 治




