夢の続きを【昼】
助けて、とか。嘘だよ。
「ーーーーーー帰れ。」
自分でも驚くぐらいの低い声。まるで脅しているみたいでした。隅から隅まで最低なことをしますね、私は。折角助けに来てくれたというのに、こんな言い方しか出来ないなんて。
でも、出てしまったものはしょうがないですよね。この反省は、半世紀くらい後に活かすとしましょう。
さて、これで帰ってくれるなら苦労しないんですけれど。ーーそうはいかない、多分。
「ごめん。」
そう言いながらも、彼が足を止める気配は無い。まったく、大した度胸だと思いますよ。ええ。私の背後でぐちゃぐちゃになっている色々なものに気がつかない筈がないですし、それをやったのが私であることに気がつかない程、彼は馬鹿ではないのですが。
怖くないのでしょうか?それとも、自分は殺せないと高を括っているのでしょうか。わかりません。
わかりませんが、私的にはさっさと尻尾を巻いて逃げて欲しいものです。あんまり、理性がもう保ちそうにないので。
この手が、この指が、彼を殺さないうちに。
逃げて。
「ふ、あ、ははは?」
なんて、ちょっと手遅れですかねぇ。
「ばーか。」
言うが早いか、私は目の前の彼に飛びかかった。その首を掴んで、体ごと座席の方へ放る。大して力は入れてないんだけれど、彼は思いの外軽々と吹き飛んだ。やれやれ、化け物ともなると腕力も化け物並みになるんですね。
と、ため息を吐いたつもりだった。でも、実際に零れたのは小さな嘲笑。
ああ、あんな勢いでぶつかったら痛いだろうなぁ。怪我とか、してないといいけれど。
そんな考えが頭をよぎります。でも、がしゃあん。っていうなんとも小気味いい音を立てて座席に衝突した彼は、予想とは反対に一切合切声を上げませんでした。無言です。無音です。
もしかして即死しちゃったんでしょうか。いやいや、きっとそれはないでしょう。彼の落下点となった席と席の間、ーーここからは丁度死角になりますがーーから少しだけ覗いたあの手は、間違いなく彼のものでしょうから。
とはいえ、あまり無事とも言えなさそうです。弱々しく動くその手はやがて背もたれの部分を掴みましたが、力が入らないのか、彼が立ち上がる気配はありません。そりゃそうですよね。
「私、警告しましたよ。」
自然と口角は持ち上がり、緩やかに弧を描きます。どうやら私は、思った以上に愉しんでいるようです。それにしたって胸の奥が泣きたいぐらいに痛みますが、何故なんでしょう?
……彼を殺せば、この痛みは消えるでしょうか。
わかりません。でも足は勝手に、そちらへと歩を進め始めました。こつこつ、コツコツという音が、教会内で反響します。
ようやく体を起こした彼の、揺れる青い目を真っ正面から見据えれば。写し出された私の顔が、酷く歪んで見えて。
「『帰れ』って。」
ーーそれだけのことが、なんだかとっても愉快で。
「そんなに、死にたいんですか?」
静かに目を見開いた彼が、私の指が這う自身の首に視線を移します。それはただ単純に驚いているようにも、ただ素直に怖がっているようにも見えました。
だから私はあくまで笑ったまま、言う。
「それとも、私を殺したいんですか?」
彼の体ごと向きを変え、前座席の背もたれの裏へとその背を押し付ける。すると思わず指先に力が入ってしまって。締め上げられる息苦しさと、背骨が軋むほどの圧力に、彼の口から初めて声が漏れた。
とはいえそれは、もっぱら吐息に近かったけれど。
「ああ、『迎えに来た』とか言ってましたっけ。もしかしてあれ、本気だったんですか?一緒に帰ろうって。あは、そんな筈ないですよねぇ。」
縋るように体を寄せて、途端にぐっと跳ねた喉を両手で押さえつける。
あれ、おかしいな。これじゃあ反対だ。だって本当なら私が彼に殺されて、彼が私を殺して。
……ああ、あれは夢なんだっけ。甘くてあったかくて、少し苦いけど幸せな一夜の夢。
「っ、本気、だよ。」
あーあ。
どうして。
どこで何が、違ってしまったのだろう。
何度も何度も、貴方に殺される夢を見た。
それもいいかもしれないと思った。
貴方に殺されるのなら、私は微笑って死ねそうだって。
なのに殺されるのは貴方で。
殺すのは私で。
「じゃあ、」
【兎】に魅入られた私は、もう。
ーーもう、戻れない。
進めない。止まれない。
「私を殺して下さいよ。」
さて、何が、本当だったんだろう?




