ゆきふるよるに【夜】
しんしんとふるゆきは、
同日『夜』。
「ああ、雪かぁ。」
嫌だなぁ。
彼女はそう言って、透き通るような白い掌を掲げる。月の光を反射して煌めくこの現象が、彼女はーールシフェルは、少しだけ嫌いだった。
そもそも彼女は、白い物質を好まないのだ。全てを塗り潰して塗り替えしてしまう、この色が。
「本当、腹が立つよね。」
とはいえ雪が降るのに、彼女の好みは関係ない。何があろうと重力に従って、舞い降りてくるのみだ。
現に、彼女が髪や肩に積もったそれを鬱陶しいと思う頃には、雪はすでに街全体を白く染め上げていた。
彼女はその光景に僅かながらも目を細めーーーーそして、背後で聞こえた小さな小さな物音に、ゆるりと口角を上げる。
足音。
忍び寄るわけでも襲いかかるわけでもなく、冷静にして淡々とした音。まるで闇の中で牙を鳴らす【狼】のような不気味さを滲ませながら、一定のペースで確実に近づいてくる誰かの気配。
今だに振り返ろうとしない彼女には、勿論それが誰のものなのかわからない。わからないけれど、それでいいとは思っていた。
彼女は無知である。知ったかぶっているだけで、知っているふりをしているだけで。実際のところ、夢見る少女と同程度の無知さと言っていいだろう。
だけど彼女は知っていた。『無知』というのがどれだけ危険なことかを。それから、夢見る少女では決して手にできない、力。
自分に宿る、どうしようもない『最強性』を。
自覚していた。理解していた。
「“恐れをもつことは不幸だ。それゆえに、勇気をもつことが幸せなのではなく、恐れをもたないことが幸せなのだ。”」
どんなイレギュラーが起ころうとも。どれだけ苛立たしい想定外が現れようとも。怒りはするが焦りはしない。だて彼女は、最強なのだから。誰が相手になったって、彼女を打倒することなんて不可能なのだから。
この足音の主はまず間違いなく招かれざる客だが。ルシフェル、またの名をルー。本当の名をルシファー。そんな彼女の相対する敵としてはあまり陳腐であることを、彼女はよく『知っていた』。
故に。
足音の主が自分のすぐ背後に立ち、拳銃を抜くのが視界に入ろうとも、ルシフェルは変わらぬ様子で笑う。
「……カフカって作家の言葉なんだけれど。本当、その通りだと思わない?」
ガチリ。
とあまりにも手慣れた仕草で、『彼』はあっさりと弾を装填した。それから銃を手の中で一回転させ、同時に撃鉄を起こす。
訓練されたというよりは単に『撃ち慣れている』だけの、酷く安定感のない撃ち方だった。合理性と速度しか追求していないような、荒削りな動作で。
当然ながら狙いは頭部。
その上、絶対に外さない様にと直接銃口を押し付けながら。
「君やあたし【私】には当てはまらないんだろうけどさぁ。」
「お前と一緒にすんな。」
素っ気ない声。無遠慮な言葉。
冷たいね、と。
そう言って、彼女はようやく振り返った。
そこに居たのは見覚えのない少年。とはいえ、特別幼いというわけではない。昔で言う『高校生』ぐらいだろうか。大人になり切れず、子供に戻ることも許されない哀れな年齢。
まぁあくまで、見た目の話だが。
なんて、少しずれたことを彼女は思う。
ルシフェルは彼のことを知らない。
知らないけれど、知っていた。
彼が見た目通りの何倍も生きたり死んだりしていることも。
彼が、自分を殺せる可能性のある唯一の存在であることも。
「で、何か用かな?あたし【私】今忙しいんだけどー。……ああ、あとね?」
「あたし【私】、貴方のこと大嫌いだから。早く済ませてもらえるかな?かな?」
すると彼ーーーー【暴食】の大罪は、躊躇いなく引き金を引きながら応える。
「ああそうですか。」
勢い良く発射された銃弾は一直線に彼女の頭部を撃ち抜き、貫通して、眼下に広がる国へと落ちていく。重力に逆らうことなく、真っ逆さまに。そして、本当に手の届かないところに行く直前で伸ばされた白い手が、ぱしりと手のひらでそれを受け止めた。
「鉛玉。」
自分の頭を撃ち抜いた銃弾を月に翳して、ルシフェルはどうでも良さげに呟く。先ほど空いた銃痕は、もう綺麗に無くなっていた。
それこそ、最初から存在しなかったかのように。
「こんなのであたし【私】を殺せるって、本気で思ったの?」
「最近はそれで死ぬのが流行りらしいぞ。」
「ああそうですか。」
貴方だって死なない癖に。
そんな風に嘲笑してやろうと、感情のままに口を開きかけて。そして、彼女は結局静かに口を噤む。
賢い化物。
堕ちたとはいえ、カミサマの一旦であるルシフェルとしては。
本当は言ってしまいたかっただろう。
正しく罵倒するつもりだったかもしれない。普段ならともかく、今は特に機嫌がよろしくないのだから。
自分のことを棚に上げ、彼が起こした罪を糾弾し、自分勝手に無責任に追い詰めて、盛大な八つ当たりをするつもりで。
出来なくはなかった。
最適な言葉も浮かんでいた。
ただ、しなかっただけだ。
無論、彼の境遇に同情していたとか良心が痛んだとか、そんなことは全然なく。
ただ感情のままに行動するという事実の『人間らしさ』が、彼女は雪よりも何よりも嫌いだったのだ。カミサマの一旦であるという、唯一無二の誇り。
「そこまで人間っぽさが嫌いかよ?流石【傲慢】なだけあるな。」
対して彼は、そういったことを気にした素振りも無く『感情のままに』言葉を紡ぐ。誇りどころか、形振り構わずに。
ーーって、あれ?
「そーいう君はどうなのさ。悪者ぶっちゃって、一体何の御用かな。リリィちゃんを連れてこないってことは、何か悪いことをする気なんでしょう?」
その瞬間、今まで平静を装ってきた彼がピクリと表情を強張らせて、引き金へ掛けたままの指に力を込めた。それが妙に嬉しくて、というか何だか少し勝った気分になって、彼女は自慢げに身を乗り出す。その様子は嫌いな『人間らしい仕草』そのものだったが、どうやら自覚はないようだ。
「あ、何々図星?図星なんだ?何する気か知らないけど、悪いことにルーちゃんは協力出来ないからねぇ。ほら、あたし【私】いい子っぽいから!」
「……いい子っぽいってことは『いい子』ではねぇんだな。」
打って変わった笑顔を見せるルシフェルに、彼は半ば呆れたようにため息を漏らす。それから、静かに話出した。
「別に悪事を働こうってんじゃねぇよ。」
白に彩られた理想郷を、悠々と見下ろす塔の上。欲望と快楽を象徴する巨大な銀の旗が、無風であるにも関わらず靡く。理想郷を見守るように、または嘲笑うように。
「ただ、お前らの喧嘩を仲裁しようってだけだ。」
夜は、まだ終わらない。
きみのすがたによくにていた。




