夕暮れバス❷
ぐるぐると当たり前のことばかり考えてる脳にいい加減呆れ始めた僕へ、本当に不思議そうに、本当に本当に不思議そうに問いが突きつけられた。ここですでに充分な不意打ちだが、しかもそれを言ったのがあの化け物だというのだから、アンバランスというかギャップというか、如何ともし難い感情が余計に湧き上がってくる。
必然的に訪れた沈黙。
それがなんとなく居た堪れなくなって立ち上がってはみたものの、やっぱり返事は見当たらなくて。どころか、あの青い目を真っ正面から見てしまい余計に居づらくなって。完全完璧に墓穴。何してんだか。
「人間の情動はよく知らねえけど、好きでもない奴のために死のうと思う奴はいないだろ。」
「いやほら、世界を守るためとか。」
「黙れ偽善者。」
まぁ、同感である。となると、僕はなんとために死のうというのか。そう、それを悩んでいたのだった。あの子のため?それも少し無責任な気がするような。だってこの気持ちは、本来僕のものじゃないのだから。
「そこがよくわからねぇんだけどな。お前があいつを好きってのは、そんなに悪いことなのか?人間なんて誰かを好きになったり嫌いになったりする種族だ。そこに気持ちが偽物だとか本物だとか、追求するだけ無駄だろ。」
「……わかんないよ。」
顔ごと目を逸らしながら言えば、あいつはそれ以上問い詰めてこなかった。ただじっと僕を見下ろして、何かを見通すように目を細めただけで。不思議と威圧感は感じないけれど、だからって空気が緩んだ感じもしなかった。
「まぁ、俺には関係ねぇんだが。」
先に口を開いたのは、あいつの方。
「結局お前は、何がしたくて俺を呼んだんだよ。遺言くらいなら、聞き届けてやらなくもないけど、」
それは。気味が悪いほど落ち着いた声だった。否、無理に自分を押さえつけていると言うべきか。相変わらず下手くそな嘘。本当、無駄に人間っぽい化け物だと思う。
「別に、別れの挨拶ぐらいしとこうってだけだったんだけど。……遺言、か。」
さて、と思考を切り替えて。鈍った脳で真剣に考える。多分これが最後だ。いや、時間的にはもうちょっとあるけれど、この先何かを遺すチャンスがあるとは思えない。つまり、最後で最期だ。
やり残したこと。出来なかったこと。やっぱりそんなの見当たらないんだけれど。
ーーああ、そういえば。大事なことを忘れていた。
「セラちゃん、とルー。」
「ん?」
「あの二人、今どうしてんの?」
僕は今日、一度も二人の姿を見ていないのだ。ついでに言えば、最初から話題に上がっていた『二人の関係』もまだ謎のまま。余計なことに首を突っ込むというのは、ルイちゃんのやり方に似ている気がして少し嫌だけど。でも、これぐらいははっきりさせておくべきだろう。
「絶賛喧嘩中。割と物騒な方へ進んでる。殺すか殺さないか、というか。」
「え、それは困る。セラちゃん死んじゃったら意味無いじゃん。」
「あー、まぁそうだな。」
コートの裏に刀を仕舞って、あいつは近くの席に腰を下ろした。僕の言わんとしていることを予測しているように、どうでも良さげな笑みを浮かべて。
「ーー好きかどうか、わからないんじゃなかったのか?」
「わからないよ。でも、追求するだけ無駄だって言ったのはお前だろ。」
僕も笑う。随分と久しぶりに。
なんだ。散々考えた癖に、結局は元の場所に戻ってきたのか。だったら、死ぬ理由も、それでいいのかもしれない。
多分今僕が彼女を助けなくても、本当の僕が必ず助けに行くだろう。ひょっとしたら、僕よりずっと良い方法で『救済』するのかもしれない。そりゃあそうだろう。だって、あくまであっちが正しいのだから。だから、僕やあいつが彼女を救うなんて、酷く無価値で無謀で、無駄な行為なのだ。だけど世界のために、顔も知らない誰かのために死ぬぐらいならば、作り物の感情でも確かに好きだった彼女のために死にたいと。それはきっと僕のエゴで、でも正直な気持ちで。
所詮は余生。おまけに、ここは欲望を提唱する国だ。だったらちょっとくらい、出しゃばったっていいだろう?
たとえ偽物でも、人を好きになったりその人を助けたいと思ったり、出来れば忘れないで欲しかったりっていう気持ちは間違ってないんだって。
分別過ぐれば愚に返る。どうせ正答なんて無いんだから、結局は無意味だったとしても。
僕の、最後の我儘ということで。
「二人を助けて欲しい。」
するとあいつはゆっくりと目を伏せて、それからきっぱりと言った。
「却下。」
「……え?」
「んな面倒なの引き受ける訳ねぇだろ。俺は、あいつらがどうなったって別にいいし。」
不意に伸ばされた指先が『止まります』ボタンの上を滑り、かちんと音を立てて押し込む。ボタンは、“まだ”灯らない。
「つっても、遺言聞いてやるって約束はしたからな。妥協してやるよ。っつーことで、ルーの方は引き受けるから。セラの方は、お前が何とかしろ。まぁ、安心しろよ。最後の我儘なんだったら、救世主の真似事くらい許されるさ。」
その瞬間、夕焼け空が朱に戻り始める。水彩絵の具を垂らしたように、街並みは滲み出して。一気に鮮やかになった外に思わず目を瞑ると、ずっと止まっていたバスが揺れた。
開いた目に映ったのは、古ぼけたバスの車内。イルミネーションのように淡く光るボタン。誰もいない座席。
まるで、さっきまでの会話全てが幻だったのではないかと思えるくらい、平凡にして平常な光景がそこにはあって。背もたれに頭を押し付けながら、僕はゆるりと前を見上げる。
行き先を示す電光版。そこに映し出されていたのは、紛れもなく見覚えのない地名だった。北でも東でも西でも南でもない。だけど、そこが終着点であることは誰の目から見ても明確で。
『シュバルツ・オブ・ヴァイス前』
きっと其処に、彼女は居る。
時刻は4時30分。今の季節なら、そろそろ日は完全に沈むだろう。だから明日、あの子に会いに行こう。
お人好しで世話焼きの化け物が作ってくれた別れの機会で、僕があの子のために動ける最初で最後の時間だ。精々、悔いの残らないように。
そう思うと、予期せず薄い笑みが漏れた。
「ああ、畜生。幸せだなぁ。」
そして。
心の中で化け物へのお礼を伝えながら、僕は静かに目を伏せて夜を待つ。
辺りは、深い静寂に包まれていた。




