街の罪と望欲
同日、【夜】
古びた石畳の階段を、ゆっくりと降りていく。もう夜中だというのに、下の方では昼間とそう変わらない数の人間が闊歩しているのが見えた。
「っと。流石に顔見られたらマズイかもな」
壁にぶら下げられた赤やオレンジの提灯のおかげで、やっと足元が見えるほどの暗さである。よっぽど注意深く観察されなければ大丈夫だと思うけれど、万が一ということもあるのだから、念には念を入れるべきだろうな。
「一応、隠していくか」
そんな結論に達して、俺はコートのフードを深く深く被る。良くも悪くも悪目立ちする、この両目を隠すために。
これで準備は万端だ。
刀は持ったし、まぁ変装もしたといえばしたし。あとはせいぜい楽しめばいい。
「折角、『理想郷』まで来たんだから。それなりには愉しまないと損だよな」
そして。
誰に聞かせるでもなく呟いた俺が街中へ足を踏み入れたのは、それから十分程度経った頃だった。
「そこのお兄さん。ちょっと寄ってかないかい?」
「丁か半か、さぁさお賭けなすってぇ」
どこか色めき立つ歓楽街『ウェスト』。
国中に響き渡る笛と小太鼓の二重奏。
夜更けの理想郷は、やっぱり昼間とは少し違って見えた。なんというか、タガが外れた。もしくは、踏み越えてはいけない一線を飛び越えてしまったような。そんな風に、『無規律』を上回って『無制限』になったと。
ーーなんて。
「くだらねぇ……」
回りくどく例えてはみたけど、どちらにしろただの烏合の衆だってことに昼夜の変わりはない。どいつもこいつも理性や常識を投げ捨ててしまっていて、自分の国が狂っていることにも気づかないんだ。
まったく理想郷とはよく言ったもんだな。
正直、何も考えなくて済むっていうのは信じられないくらい楽で愉しいってことを、俺はよく知っている。それに加えて自由と快楽。確かに、『理想郷』の名にふさわしい堕落だ。国単位の現実逃避。
つまりくだらないんだが俺には関係無いし、ぶっちゃけこっちの方がやり易いから心底どうだっていい。道徳とかそういうのは、俺の分野じゃあないんだよ。むしろ対極に位置するものだ。
「世にも珍しい人魚の鱗、一枚500円だよー」
「玉安堂限定、花豚の肉饅頭いかがですか?」
だから、だろうか。
この国は酷く息がし辛くて居心地がいい。矛盾だらけで、だけど無理やり均衡を保っているーー自分自身を見ているようで。
尋常じゃないくらい息が詰まるのにそれを不快だとは思えない、救い様のない矛盾が存在して。
なんて。
またらしくないことを、と自分で自分を笑った、そんな時。
「よぉ兄ちゃん。見たことねぇ顔だな、新入りか?」
「ちょっと面貸せよ、なぁ」
どん。と何かにぶつかって、散々考え事に費やしていた意識がふいに戻ってくる。足元には俺のものではない足が左右合わせて10個。ということは、最低でも5人は周りにいる訳だ。
何だ、向こうから来てくれるとはな。
「おい兄ちゃん、聞いてんのか」
「聞いてる。ついてってやるからちょっと黙ってろ、あんたら酒臭いんだよ」
顔を上げながら言えば、真正面の男の表情がぴくりと歪む。こういう奴らこそ安いプライド持ってるもんだ、大方俺の反応が気に食わなかったんだろう。で、リンチでもして金を奪ってやろうって魂胆か。わかりやすいなオイ。
「、いい度胸じゃねぇか。たぁっぷり遊んでやるよ」
「……どうぞ、お手柔らかに?」
まぁ、ありがたいっちゃありがたいか。
「あんたらさぁ、一つ言っとくけど」
さっき抜いたばかりの愛刀で空を切るたびに、眼前の男が大袈裟な悲鳴を上げる。どうやらとっくに彼の酔いは醒めたようで、その目にはもはや恐怖しか浮かんでいなかった。
「弱いくせに喧嘩売るなよ、面倒くせぇ」
ぱしゃんと跳ね上がる血液に靴を汚してわざとらしくゆったりと近づけば、男は血の気の失せた顔を更に青ざめさせてずりずりと後退る。そういえばこいつ、最初の一人を殺した時からずっとこの調子で這いずっていた。腰でも抜けたのか?だとしたら、喧嘩以前の問題だな。
死に直面した時に逃げることすらできない奴は生き物として失格だ。
「余計な手間かけさせやがって、」
うわ言みたいに命乞いし続ける男の鼻先に刀を突きつけて、地面に投げ出された足を手加減なく踏みつける。想像以上に大きく鳴った、骨の軋む嫌な音。
「ひっ!いた、痛い痛いぃ!
頼む許してくれ、許してくれ許してくれ許してくれーーーー」
そんな、必死になって足を下ろさせようとする男の姿が少し面白くて、俺は更に体重を掛けた。嗜虐心とは違う感情だ。だから間違ってもサディストじゃない。マゾヒストでもないけれど。まぁ単に俺は、自分で言うのもおこがましいほど生温く中途半端な
「嫌だね」
ただの破壊主義者、ってだけだ。
「あー、つまんねぇ」
刀身に着いた血液を軽く払ってから、小気味いい音を立てて刀をしまう。鍔の無い日本刀はこういう時便利だ。何と言ってもコートの裾に隠しやすい。
「もう夜明けじゃねぇかよ、畜生」
そんなことを考えているうちに東の空が白んできて、思わず頭を抱えた。理想郷まで来てわざわざこんな喧嘩買うとは、時間の無駄にも程があるだろう。我ながら勿体無いことしたなぁ。
「……とりあえず、帰るか」
まだ登らない朝日に向かって背伸びした俺は、後悔をそこそこに切り上げて今来た道を逆に辿る。どうせしばらく居座るんだ、今日の発散不足は明日にでも解消することにしよう。まずは急いで帰らないと、約束の時間に間に合わない。
この国は随分自由らしいが、こっちはそうもいかないんだ。当たり前に制限があることも、やっていいこととやっちゃいけないことも重々承知してる。普通に不自由で、当然有限で。
もっとも、制限のあることが必ず不幸ではないんだけれど。現に俺がこの人生を、なんだかんだ言いつつ満喫しているように。
足元を遮る死体を蹴っ飛ばして進む。思ったよりこの理想郷は犯罪者に優しい作りらしく、こんな時間になっても路地は真っ暗だ。
そのおかげで、帰り道俺の姿が誰かに認識されることはなかった。
次回より第一章『革命家の愚かなる野望思想』が始まりますー。