『起』
意外なあの子が登場します。
さて。
あの超常現象の後、僕は何事もなく宿へ戻った。別に何をするでもなく、というかすることがないから戻ってきたんだけれど。
そもそもな話、僕を理想郷に連れてきたのはあの馬鹿ーー僕の中に巣食っているあの化け物なのだ。確か『歯車』がどうとか、『大罪』がどうとか言ってた、筈。ぶっちゃけあんまり覚えていない。
興味が無かったから、というのも勿論そうだけど。どうやらそれ以上に、僕の頭は随分物事を忘れやすいらしい。困ったものだ。いや、冗談だ。
忘れたことの重要さすら忘れているんだから、大して気にしていない。例えるなら、今すれ違った人の顔を覚えていないみたいな感覚で。ほら、あんまり困りはしないだろう?
まぁ要するに何が言いたいかというと、現在僕にはすることが全く無いのである、ってだけ。
さらに補足すれば、この長ったらしい説明も暇つぶしの一貫なのだった。
自己完結。
「さて、と。」
ぼふ、と朝から敷きっぱなしだった布団に背中から飛び込んで、本日何度目かの「さて」を合言葉のように呟く。だが残念ながら、その続きは見つからなかった。枕元に置かれた懐中時計が示すのは、AM08:09。
「暇だねぇ。」
そういえば、あの化け物の言っていた『記憶を戻す』とはどういう意味なのだろう。すっかり失念していたけれど、割と大問題じゃないだろうか。これ。一番の問題は……あいつにそんな繊細なことが出来るかどうか、だ。いやいや、どんな方法を取られようと文句は言えないんだが。
「ーーあんまり痛くないのを希望するかな。」
最悪昔の電化製品みたいな扱いをされかねないなと、苦笑まじりにそう言ってみた。勿論、あの化け物からの返答はない。別に最初から期待してないから、構わないんだけど。
所詮今の僕が何をしたって、何を考えたって暇つぶしでしかなくて。深刻な問題ではないのだった。無意味にして無駄な自問自答である。はい終了。
「暇だねぇ……。」
ちらりと横目で伺えば、先ほどより2メモリ程度進んでいた長い針。なんだ、思ったより時間は潰れなかったな。
苦し紛れの脳内論議もこの辺が限度。無趣味ってこういう時大変だな。
ちょっと反省。改善はしないけれど。
「こうなるともう、寝るぐらいしか選択肢はないかな。」
暇つぶしに頭を使うのも些か億劫になってきた。と、迷うことなく目を瞑る。自堕落ってのも、たまにはいいだろう。
なんて、思った矢先のこと。
こん。こん。
と、軽いノックの音が薄れかけていた僕の意識を覚醒させた。
控えめで、だが躊躇いはなく。同じ間隔で繰り返される同じ強さの音に、僕は内心首を傾げながら体を起こす。
さて、誰だろう?僕がこの旅館に泊まっていることを知っている人なんて、限られているはずなのだけれど。
しかも、暇なのを見計らったようなタイミングで訪れる来客とは。
……なんとなーく、嫌な予感がした。
とはいえ、来客に帰る様子はなく。
どうやら僕が中に居ることを知っているようで。
「うーん、と。」
居留守を使うかどうかで少し迷ってから、観念して僕は扉に手を掛けた。
「どちら様ですか、?」
扉の向こうに居たのは、小さな女の子だった。髪も目も服も闇のように黒く、ただ微かに覗く肌だけが異常に白い。
何処かで見たことがある、とは反射的に感じた。だけれど、何処で見たのかが思い出せない。
「こんにちは。セラちゃんの彼氏のーー偽物さん。」
ーーああ、そうだ。確か、あの孤児院に居たんだった。子どもらしくない無表情が印象に残ってて。セラちゃんでさえ、『考えが読めない子』と語っていて。そんな子どもで。
名前。名前は……
「わたしは【強欲】の大罪。みんなにはルイちゃんって名乗っている。第9話参照。」
そう、ルイだ。
ってあれ、大罪?
「お兄さんの吐き続けた嘘を、バラしにきたの。」
呆然とする僕を他所に、彼女は淡々と言う。やっぱり子供らしくない仕草で、ただただ真っ直ぐに此方を見上げながら。
「【強欲】の罪人であるお兄さんの、最低な嘘を。」
雪が降る。
汚い地上を覆い隠す、白い雪。
それはある意味救済のようで
間違いなく断罪のようで
目の前にいる彼女も、もしかしたらそういう風な事をしに来たのかもしれない、なんて。
本気で考えている『僕』が、遠くの方で笑った気がした。




