裏表シンドローム
最終章突入!
「おい、【昼】。」
声。
「いつまで続ける気だ?こんな子供騙し。」
聞き慣れた、というか日常的に聞いている声が脳内に反響して、僕の意識は白と黒の世界へ引き摺り込まれた。
引き摺り込まれたって表現が正しいのかはわからないけれど、それ以外にこの感覚を的確に表現する言葉を僕は『知らない』。
とにかく、世界が白黒になったのである。色も勿論だが、一昔前の映画みたいに音すらも全くない。
ーー僕と、あいつの存在を除いて。
要約するならそういうことだ。
「この白々しい知らん振りも、いい加減飽きたんだけどな。」
力を抜いた手から自然と滑り落ちた皿が、音もなく割れるのを黙って見下ろして。それからゆっくりと視線を上げる。
そこに在ったのは、『僕』だった。
面倒臭そうに頬杖を付いて、少し離れた席に座っている。
モノクロの風景の中でも不気味に映る黒い髪と、僕と同じ青い目。
どこぞの革命家と変人の二番煎じみたいだ、と思う。それぐらいに、僕とあいつはよく似ていた。
正反対な筈なのに。
黒と白のように、そっくりだ。
自分のこととはいえ相変わらずの類似性に、思わず溜め息が漏れる。
そう、僕はこいつのことを『知っていた』。もしかしたら、自分のこと以上に。
「飽きるの早いよ。始めてから一ヶ月も経ってないじゃん。」
「飽きたもんは飽きたんだよ。大体、こんな滅茶苦茶な国で隠す必要なんざ始めっからなかっただろ。たかが『二重人格』程度の異常を、」
どうでも良さげにあっさりとネタばらししたところを見ると、どうやらあいつにはこれ以上隠し通す気が本当にないようだ。
確かに最初から乗り気ではないと感じていたけれど、にしたって突然過ぎる。
もしかしたら僕が眠っている間にーーーー否、正確には夜が訪れている間に何かあったんだろうか。物語を一気に結末へ進めてしまうような転機が。あるいは、心情を動かすような転換が。
別にどっちだっていいけれど、残念ながら僕にそんな都合の良い事はなかった訳で。
「そうもいかないんだよ。『二重人格』です、なんて言ったらなし崩し的に昔のことまで言わなきゃいけなくなるじゃないか。未だに二重人格の原因は精神苦痛だって印象が強いんだから。」
「ふーん?」
……実際はそうとも限らないらしいけどね。
そんな僕の言葉に反論するでも否定するでもなく、ただ気の無い返事を返してあいつは笑った。
とてもとてもつまらなそうに、笑った。
「言うって、あの化け物にか?それとも人形の方にか?」
思わず目を見開いた僕をちらりとだけ見上げたあいつは、文字通り『音もなく』立ち上がる。
「化け物」と「人形」。
その言葉が当てはまる人間を、僕はあの二人しか『知らない』。どちらが「化け物」でどちらが「人形」なのかはまだ『知り得ない』にしても、それがあの二人であることは火をみるよりも明らかだ。ーーそう。『緋』をみるよりも、明らかだ。
「俺はお前に従う。が、こんなくだらねぇ台本の通りに黙って動いてやる程お人好しでもねぇんだよ。お前の目を通して見たのがほとんどだけれど……あいつらの正体が予想通りなら、俺もお前も笑えるくらいに単純だぜ?」
まるで物語の要点をすでに読み終えているかのように、何もかも知り尽くした青い目が、輝かない太陽を見つめて僅かに細まる。器用に吊り上げられた口元が嘘くさく弧を描き、それからやっと、あいつは初めて正面から僕を見た。
出会った時から何も変わらない不吉な笑顔と、よくわからない『服従』の姿勢。
さっき『化け物』がどうとか言っていたけれど、本来ならその言葉はこいつにこそ向けられるはずなのだ、と思う。理解出来ない気まぐれさと、想像を絶する程揺らがない意思の中で生きていて。
膨大な時間を一瞬のように捨て去って、未来を余生としか思っていなくて。
普通じゃ考えられない価値観。
だからこそ、だ。
『人でなし』ーー化け物であって、『人じゃ無い』。
「まぁ、お前の言う通り俺は正真正銘の化け物だからな。わかりやすく『二重人格』なんて言ってはいるがーー言い換えてはいるが、正確にはやっぱり少し違う。どこまでいっても所詮は敵同士だ。ただ、俺はお前を利用しようとしていて、その代償に従っているってだけで。俺の方は、因果応報っていうか……自業自得なんだが。」
と。
そうは言われたものの、ぶっちゃけた話こいつとの因縁も過程も覚えていない僕としては、その話はどう頑張っても推測でしか把握できそうにない。
気づいたらそこにいた、故に深くは『知らない』あいつ。
出会った後ーーいや、気付いた後に何度かこうして会話してはいるものの、それにしたってこいつとこれだけ長く話すのは初めてなのだ。少なくとも、僕の記憶にある中では。
故に。
こいつの言う『因果応報』『自業自得』という言葉の意味も、理解はしているのだけれど実感がない。
僕が教えてもらった『因果』が確かなら、今の状況はまさしく『応報』だ。
なるべくしてなった、結果。
でも僕がそれをすっかり忘れてしまっている以上、今なお現状に甘んじる必要は……ない、ような気がする。
いや、知らないけどさ。
聞きかじった情報しか持ってないんだから、正確な判断とは言えないし。
まぁ何にせよ僕は、早く『知る』必要があるのだ。こいつとの『因果』と、自分自身のことを。
ーーあっ、と。じゃあそろそろ話を戻そうか。
「なんだ、今日は随分とよく喋るなお前。」
「俺は元来そこまで無口じゃねぇんだよ。むしろ饒舌な方だ。」
要するに今僕が悩んでいるのは、この状況で何を語られるのかが予想出来ないということだ。
意思疎通が限りなく不可能なことはなんとなく察しているけれど、会話まで成立しないんじゃあコミュニケーションの取りようがない。
そして、心の準備も難しい。
ちょっとしたやりとりぐらいなら数日あれば筆談でも事足りるし、実際に何度かそれで会話したことだってある。だけど、今回あいつが選択したのは『対話』という直接的な手段だ。
その用件がどうでもいいものである訳がないし。
……僕にとって無関係な内容である訳もないのだから。
おまけに、随分とまぁ回りくどい言い方をして明らかに本題をずらそうとしている様子から見ても、こいつがとんでもないことを言おうとしているのは間違いないだろう。
でも生憎と僕に心当たりは無いんだよなぁ。
とはいえこのまま待っていても話が進みそうに無いから、少し助け舟を出すことにした。
「で、結局何なんだよ?わざわざ直接話に来てるんだ、何かあったんだろう?」
すると、あいつは意外にも口をつぐむと答えにくそうに目を逸らしてきた。
思いもよらないその反応に、見ている側にまで緊張が走る。
なんだ、なんなんだ一体。
「何かあった……というか。
そろそろ『タイムアップ』が近い、んだよな。」
ーー時間切れ?
そう口にしたあいつは、言い訳気味な口調で続けた。
「俺は第三者だから、あくまで傍観に徹するつもりだったし、お前の記憶喪失に関しても特に何かする気は無かったんだが。」
ああ。それは、理想郷にくる前に聞いた。
助けないから助けるな。いつまでも無関係を装え。
って。
僕はそもそも二重人格すら隠しておきたかったんだし、別にかまわなかったんだけれど。
今更それがどうしたというのだろうか?
まったくピンときていない僕が、内心焦り出しているのを他所に、あいつはその深刻さを隠そうともしない。
まるでこれから死刑判決を言い渡す裁判官のようなーーーーあるいは、これから世界の終わりを告げる予言者にも似た表情。
さっさと話を進めるつもりでいた僕も、さすがに言葉が出て来なかった。
どころか、無駄に焦らされた分嫌な想像ばかりが脳内を駆け巡って。
僕は無意識に、ぎっちりと拳を握りしめる。
記憶にある中では最高レベルの緊張感が、勢い良く湧き上がっていくのを確かに感じていた。
必然的に訪れた、居心地の悪い沈黙。もともと音のないこの空間では、それが顕著に現れる。試しに近くのテーブルを叩いてみたけれど、やはり何も響かずかえって虚しくなった。先ほどまではまだ二人分の『声』があったから、特に気にならなかったのに。
重苦しくてどうにも嫌だ。嫌すぎる。
あいつが口を開いたのは、そして気まずい空気感がしばらく続いた後のことだった。
「お前の『記憶喪失』なんだがな。今すぐに治す方法が、一つだけあるんだよ。だからまぁ、罪滅ぼし的に治してやろうかな、と。その相談をしにだな、」
……えっと。
えっと、つまり?
記憶喪失の有力な治療法が見つかって、それを実践するために許可が必要だったってことか。
筆談や文通じゃ時間かかるもんな。うん。
どんな方法かは『知らない』が、なんというか。
喜劇王もびっくりな酷いオチだ。
だから、真っ先に口をついたのが感謝や驚愕の言葉ではなく、一つのため息だったのも、致し方ないことだろう。
急転直下。肩透かしもいいところだ。
「お前、それ言うためだけに来たの?」
呆れと、微妙な安心感。
あんなにシリアスな空気を作っておいてーーむしろシリアスなことしか言っちゃいけないような空気を作っておいて。衝撃の事実を暴露するとかならまだしも、たかが了承を得るためとは如何に。
いやいや僕にとっては非常にありがたい申し出だし、一筋の光明と言っても過言ではないのだけれど。
ただ、あれだけ勿体ぶっただけに(まぁ自覚はなかったと思うが)そのチープさは否めなかった。
「んだよ、悪いか。」
あいつは不機嫌そうに顔を背けると、言い出したのを若干後悔しているのか、ほんの少し……ほんっとうに少し気まずさを滲ませて、さっきと同じ椅子に座り込む。
なんとなく。
まるで人間のようだ、と思った。
「悪いっていうか、別に男がツンデレったって可愛くも何とも無いんだよっていうか。」
「……ツンデレったって何だ動詞なのかそれは。」
ぶっきらぼうに、でも律儀にツッコミまで入れてくる化け物に僕は苦笑する。
存外に意外。どうやら早々に前言を撤回する羽目になりそうだ。
記憶を失う前の僕も気付いていたかはーー『知って』いたかは定かではないけれど。
どうしようもない程に化け物で、どうしようもない程に異質なこいつが、人間である僕よりも人間らしいというのは。
もしかしたら、当然なのかもしれなくて。
喜劇とか悲劇とか歌劇とか狂言とか、台本通りに進む舞台を見るように。人間の中で、人間を客観視してきたこいつは。
化け物であるが故に化け物らしさを求めず
人外であるが故に飾ることを知らない。
人間の都合に合わせて生き、非日常を夢見ることもない。
普通の癖に異常へ憧れる人間と比べれば、圧倒的に『普通』なのだった。
化け物だからこそ、誰よりも人間らしい。
……なんていう、矛盾だろうか。
「まぁ、遠慮なく頼むことにするよ。」
「あっそ。」
これもまた、記憶を失う前の僕が『知って』いたか、定かではないことだけれど。
もしかしたら、『知らない』フリをしていたのかもしれないけれど。
今の僕は、ようやく『知った』のだった。
目の前にいる化け物が、不吉で不気味で不死身で饒舌なこいつが。
僕なんかよりずっとずっと、単純明快な奴だってことを。
難しく考える必要なんて最初からなかった。
企みとか意図とかの陰謀論を、気まぐれで行動してるような奴に適用するだけ無駄だったのだ。
協力してくれると言うのならーーーー
「……ありがとな、【夜】。」
ただ、お言葉に甘えていよう。
またこいつの気が変わるまでは。
すると当の本人は、振り返らないままちらりと僕を見て。
「うるせぇよ馬鹿。次言ったら殺す。」
無愛想に、そう吐き捨てた。
「ふ っ」 と。
蝋燭の灯を吹き消すように、あっさりと戻ってきた色彩。遠くの方で聞こえる喧騒。誰も座っていない椅子と、空席の隣。
全て白昼夢だったのではないか?
なんて思える程にいつも通りな世界が、そこにはあって。
だけれど。
床に散乱した皿の破片が、僕の足元で「それは現実だ。」と主張していた。




