参
「え、?」
呆けたような彼女の声が、耳の奥で木霊する。からんと軽い音を立てて転がる剣。床に広がった赤い赤い水溜り。
そういえば。いつの間にかあの夥しい数の蝶の死骸が、跡形もなく消え失せていた。跳ね上がった右腕を目で追った先で、ぼんやりとそんなことを思う。
「ノート?」
子供のように何度も問いかける彼女に僕は微かに微笑んで、それから残った左腕をゆっくりとその背に回した。いつでも彼女が逃げられるよう、ゆっくりと。
だけど思ったより『哀願の結果』に驚いていたらしく、サクヤ様はぴくりとも動かない。それでもゆっくり、ゆっくりと。
僕の血で汚す訳にはいかないと体を捻って抱きしめた彼女は、想像よりずっと温かくて。少し戸惑いながら、僕は腕に力を込める。
今までこの手は、絶対に彼女へ届かないと感じていた。でも実際のところ、案外遠すぎる存在でもなかったようだ。
なら、まだ、手遅れじゃない。
「な、なんで……!?」
信じられないと、僕と僕の右側を交互に見た彼女が言う。
「なんでこんなことしたの、」
なんで。
なんで、か。
「貴女を傷つけるような腕なら、要らないと思っただけです。それに、やっぱり罰は必要でしょう。」
やっと止まってくれた涙の代わりに、精一杯の笑顔を作って。言葉は不恰好でも、ちゃんと伝わるように。
「サクヤ様、これから僕は貴女に背きます。少しの間だけ、聞いて下さい。」
必死に強がってみても、声は震えていて。情けないな、とまた自嘲した。そう、僕は怖くて怖くてたまらないのだ。
傷を負うのが怖いんじゃない。痛いのなんて慣れている。そんなことじゃなくて。そんなんじゃなくて。
必要とされなくなるのが、ただ怖くて。
だから僕は彼女のためになんだってしてきたし、出来るんだと思ってた。
でも。
だけどさぁ。
「僕は、貴女を殺したりなんて出来ません。」
ここで命令通りに彼女を殺してしまったら、何にも無いのと同じだろう?
何も無い世界で生きて行くことは、酷く無意味だって。無駄なんだって。
あの檻の中で学んだんだよ、僕は。
「へ、?」
「貴女に死んで欲しくないんです。」
つらつらと。溜め込んできた言葉は一気に溢れ出した。もう後戻りはできない。一度堰を切った思いを、また抑え込むなんて。不可能だ。不可能であって欲しい。
だから全部言ってしまえ、と若干ヤケクソ気味になった脳みそが吐き捨てる。
「お願いしますーーーー生きて、下さい。一人が嫌なら、僕が絶対に傍にいると約束するから……!」
そこまで口にしたところで、やっと状況を理解したらしい彼女が僅かに顔を上げた。その目は、相変わらず深い深い黒を宿していて。
「馬鹿ね。私を一番殺したいのはーーーー、私を一番殺さなきゃならないのは、貴方の筈よ?」
気遣うような仕草で、肩の辺りを彼女の手がゆるりと撫でる。あー、段々眠くなってきた。血を流しすぎたらしい。このまま死ぬんだろうか。二度も奇跡は起こるまい。でもそれもいいかもしれない、と思う。どうせあそこで消えていた命だ。
余生としては、充分過ぎるくらいだった。だって、伝えられたのだから。
ああだけど、まだ。
一番伝えなきゃいけないことが。
「そんなこと、ないですよ。」
「『嘘』、でしょう。わかってるわ。恨まれるようなことは沢山してきたもの、今更……。」
ふっと微かに笑って、肩から頬へと移った細い指。その中指には、鈍く輝く赤いリング。
そうして、僕はやっとわかった気がした。
彼女の本心と、彼女なりの『嘘』の吐き方を。
なんだ。
結局、貴女も同じじゃないか。
どれだけ強がっていたって、どんな風に遠ざけたって。
結局、何もかも手放すなんて出来っこなくて。
赤い糸が本当に必要だったのは、僕よりも貴女の方だったんだ。
目に見える形で、繋がっていたかったってだけ。
そこには目論見も目的も、目標すらもなかった。
ただ、この街のルールに従って。流されて。
欲望と自由の国ーーーー理想郷。
もしかしたらサクヤ様と同じことを願った誰かが、この国を作ったのかもしれないなんて。
そんなことを思う余裕すらも、今の僕にはあって。
「馬鹿は、貴女ですよ。恨むとか、あり得ないじゃないですか。だって僕は、」
僕は、笑って。
微笑って言った。
「ーーーー貴女を、愛しているんですから。」
死んでしまいそうな程、甘ったれた言葉を。
それから。
耳まで紅潮した彼女が、慌てて僕を押し離すまで、あと1分。
《……此れは又、随分と久しく視る顔だな。【蝶】よ。》
《こちらの台詞だね。長らく引きこもって居たかと思ったらーー、早速邪魔をしてくるなんて、らしくない真似を。》
《そうだな。我も、まさか貴様に干渉する日が来るとは思いも寄らなかった。》
《全くだよ。【猫】じゃあるまいし、私は餓鬼の色恋沙汰なんて興味はないんだけれどね。》
《そう云ってやるな。最近は、餓鬼の色恋が世界を欲動させる時代らしいぞ。》
《それで私は餌を逃した訳か。不愉快極まりない話だねぇ。》
《ーーほう、諦めるのか。》
《諦めるも何も、退きざるを得ないだろう?君が彼ごと彼女を『止めて』しまった以上、どうしようもないのだからね。》
《そうか。それは悪いことをしたな。》
《心にも無い事を。まぁ、僕はさっさと帰らさせて頂くよ。》
《それでは皆様、御機嫌よう。》
次回より最終章、『さよならユートピア』です!




