弐
「どういう、意味ですか。」
「そのままの意味よ。いつものお願いと同じじゃない?」
あはは、と乾いた笑みが彼女の唇から漏れ出して。僕を見ない両目が、僅かに細められた。泣いているのかと思ったけれど、涙は流れていない。あくまで彼女は笑っているのだ。
笑っている。嗤っている。嘲笑っている。微笑っている。
泣きそうなのは、僕一人だ。
「何が、あったんですか。」
そう問えば、彼女は少しだけ口を噤む。言いたくなさそうだった。つまり、そこが鍵なのだろう。
一歩ずつソファへ近づきながら、僕は同じ問いをもう一度繰り返す。
「僕がいない間に、何が。」
もう、足元の死骸なんて気にならなかった。だって彼女を見つけた瞬間から、僕の意識は丸ごとその姿に向けられているのだから。
「お嬢様。」
頑なに口を開こうとしない彼女を問い詰めるようにそう呼ぶと、彼女は浅いため息を吐きながらゆっくりと顔を上げた。
ふわふわと揺れる灰色の瞳が、僕を写す。
「声がするの。吐きそうなくらい不快で、聞いたこともない声が。」
「喧しくて喧しくてしょうがないんだけれど、全然黙ってくれなくてね。」
言うが早いか、彼女は頭を抱えるように耳を塞いだ。まだ、聞こえているのだろうか。その声が。
声。
ーーーーーーーー声、?
「こんな風に耳を塞いでも、はっきり聞こえてくるのよ。それが嫌で嫌で……『受け入れてしまいたいんだけれど、受け入れちゃいけない気がしているの』。私が、違ってしまいそうで。」
受け入れる、声、受け入れてはならない、はっきり聞こえて、喧しくて、黙らない、不快な。
声。
そして、蝶ーーーー
まさか。
まさか彼女は、まだ。
【大罪】を。
「だけど、自傷している間は聞こえなくなるから。だから色々、まぁ自殺未遂を繰り返していたの。そしたら今度は、蝶の死骸っていう『幻覚』が見えるようになっちゃって。」
貴方には見えていないんでしょう?
彼女は、鮮やかに笑う。
悲しげに、苦しそうに。
「声が聞こえた時にね、実感はあったの。私の嘘は色々なものを傷付けてきたから、その罰なんだろうなって。だけど、それを認めてしまったらーーーー」
助けたい、と思った。どうすればいいのかはわからない。人助けなんて、したことないんだから。僕がしてきたのは、『停滞』だけで。でも、もう目を逸らすことなんて出来なくて。
「ねぇ、ノート。もう嫌だよ。」
「誰にも愛されないのも、誰も愛せないのも。私は、全部壊してしまってきたから。」
「世界も理想郷も人間も嘘も真実も、幸せだってもういらないから、お願い、」
涙混じりの、か細い哀願。
これが嘘なら、この世界に真実はないだろう。
僕が一番守りたくて、一番好きで、一番助けたい人。
嘘つきなサクヤ様が嘘を捨てて、僕に望むのは。
救済なんかではなくて。
「私を、殺して。もう終わりにしよう?」
いつもと同じ、人殺し。
所詮僕に出来ることなんて、こんなものなんだろうか。一番大切なのに、今手を伸ばすことすら出来ない。
その笑顔が曇ってしまうのが怖くて。
僕を救い出してくれた彼女に、応えたくて。
守るために、側にいるために、これまで生きてきた筈だったのに。
僕は、全て彼女のものだ。
心も体も、彼女が望んだ通りに動く。例えそれがどんなに罪深い行為だろうと、ただ彼女が願ったから。そんな風に生きてきたし、そんな風に生きていくのだ。それでいいと思うし、思ってきた。
ならば。
迷ってはならないのではないか?
だって僕は彼女の物だ。
そう、頭の中で結論付けて。
利き手の逆、左手で白い剣を抜く。それを見た彼女は薄く笑って、真っ直ぐに僕を見た。伸ばされた白い手が僕の頬に触れて、そこでやっと自分が泣いていることに気付く。涙。泣くなんて、何年ぶりのことだろう。みっともないけれど、どうやらこの雫を止めるのは無理そうだ。
張り裂けそうに胸が痛んで、上手く息が出来なくなる。こんな感情を抱いたのは初めてだから、どう吐き出していいのかがわからない。
ただ、ただわかるのは。
これが僕なりに考え抜いた結果ということで。
僕はその左手を、躊躇いなく振り下ろした。
鮮血が、舞う。




