壱
羽を失った黒揚羽は、
鉄筋造りの階段を、一段飛ばしで駆け上がる。時間が無かった。そして、余裕も無かった。
先ほど貫かれた腹には、痛みどころか僅かな違和感すら無いんだけれど。化け物曰く「『完治』の副作用。」である倦怠感は、今だに体の奥に居座っている。体は上手く動かないし息が切れるのも早い。風邪すら滅多に引かない僕としては今年最高の絶不調である。
故に、僕は走っていた。
ゆっくり歩けば、途中で立ち止まってしまいそうだったから。
立ち『止まって』しまったら。
そこで、きっと終わりだ。
根拠は無いけれど、そう思っていた。
今も思っている。
「こ、の。出来損ない……!」
まだ『停滞』しようとする自分へそう吐き捨てた僕は、全力で無理矢理に足を動かし続けた。
目的地は勿論、彼女の所。
「一応教えといてやるが、お前の知り合いに【大罪】が居るなら出来るだけ早めに対処しろ。」
つい数十分前。
僕を刺した少女と彼女の思想について軽く話し合い(今思えば、殺し合いした相手とまともに会話が成立したのは奇跡に近かった)、もう夜が開けるからと【猫】の女の子と共に帰ろうとしていた化け物が、唐突に切り出した話。
彼らと同じくここから去ろうとしていた僕も、さすがに聞き逃せない言葉で。
「間に合わない可能性が大きいが、かろうじて間に合う可能性も無くは無いからな。どうにかして、大罪とそいつを分離させりゃあいい。」
「……どうやって?」
「さぁな。そいつを救ってやるとか願いを叶えてやるとか、色々あるだろ。
【大罪殺し】って呼ばれている奴も、
一人いるっちゃいるし。」
ただ。
そう言って、化け物はぷつりと笑顔を消した。代わりに浮かんだのは、耐えるような冷たい表情。
「最も手っ取り早いのは、宿主ごとぶった斬るって方法だ。ーー忘れんなよ。」
ぶった斬る。
殺す。
死なせる。
どんな状況なったって、僕にそんな手段が選べる筈がない。
当たり前だ。
だからと言って。
僕が彼女を救うことが出来るかといえば、……情けないが、答えは『不可能』。
僕は所詮道具で。
どれだけ糸を手繰ったって、彼女に触れることは出来ない。
どれだけ近くに居たって。
間に引かれた境界線を、飛び越えることなんて出来っこないのだ。
あの、嘘つきな少女は。
手遅れだというのなら、【大罪】に寄生される前からもうとっくに。
踏み外している。
迷っている。
「は、」
思わず漏れた自嘲の笑み。
手遅れとか、まったく何を言っているのやら。
自分こそーーーー
救いようがない程に、狂っている癖に。
【大罪】すらも受け入れて。
否定することなく、ただ許容して。
それでも止まることを選んだ癖に。
進化どころか退化だってしてない奴が、偉そうに何を言うか。
【虎】。
そりゃあそうだろう。
地面に這いつくばっている虎が、空を舞う蝶に届く訳ないだろう。
憧れ、羨むだけで。
手も伸ばせない愚鈍な獣。
僅かに触れたドアノブを、力任せに回す。みし、と付け根の辺りが手のひらの中で軋んだけれど、それに気を使う暇もなく、勢いを殺さないまま部屋の中へ飛び込んだ。
飛び込んだ先。
見慣れた室内。有るのは必要最低限の家財道具と一輪の紅椿。灯りは無い。外からの光を受け付ける窓も、たった一つだけ。誰かが喋らなければ音もない。どこか陰気で、古ぼけた写真の中のようなこの空間、彼女の選んだ城。
ーーそんなものは、もはや何処にも存在していなかった。
「なん、だよ。これ。」
酸欠でぼやける視界。だけど確かに見える異常に、僕の口から漏れたのは間抜けな疑問符だった。
問いつつも、何が原因でこうなったのかはわかっている。正確には、それ意外にあり得ないだけなのだけれど。
……そこにあった『異常』とは。
『蝶の死骸』。
見たこともない色をした、鮮やかで不気味な蝶が群れをなして死んでいるのだ。
羽を捥がれていたり、壁に貼り付けにされていたり。時には、原型をとどめない程バラバラにされている。
反射的に口元を覆った右手が、微かに震えているのがわかった。今から数時間前にここを出た時は、蝶なんて一匹もいなかったのに。
決まっている。
原因が【大罪】だってわかりきっているのだから、この現象の意味も。
その、結果も。
「、お嬢様!」
出来るだけ蝶を直視しないようにしながら、急いで奥へと進む。周りを取り囲む状況に、吐きそうになる弱い自分を叱咤しながら。壁に手をついて、とも考えたけどすぐに止めた。辺り一帯が死骸塗れなのだ。それに少しでも触れたら、押さえつけた嫌悪感が溢れ出してしまいそうで。
きっと、心の底で思っていたんだろう。
僕はこの結果をも受け入れて。
許容しなければならないのだと。
何故なら。
「お嬢、様。」
「……あら、ノート。早かったのね。それとも、遅かったのかしら?」
彼女の【大罪】を見過ごしたのは、僕なのだから。
部屋の中心にある、黒塗りのソファの上。足元に散らばった蝶の死骸をまったく気にすることなく腰掛けて、彼女は、ゆるりと笑っていた。狂った、なんてレベルじゃなく。
何もかもを無くしてしまった廃人みたいな、虚ろな目で。
「ねぇ、早速で悪いんだけど、次のお願いを聞いてくれる?」
掻き毟られた右手首。血が伝う足。指のあとが残った首筋に、引き裂かれたドレス。痣が覗く白い肌。少し腫れた頬。それから、焦点の合わない目。
「私を殺して頂戴。」
冷たく響いた彼女の声は、今まで浴びせられてきたどんな罵声よりも、深く鋭く僕の心臓を抉ったのだった。
泥に塗れて。




