18650円の愛
最初に訂正です。
前話のタイトルが間違っていました…
正しくは『「こんばんは」の聞こえる朝を』です。
昔、昔の話。
僕が、まだ人間じゃなかった時。
18650円で売られていた時。
「いいわ、私が買ってあげる。貴方も、貴方の大罪である『虎』も。今この場所この時間をもって、貴方は私の玩具になるの」
本物の笑顔で言われたそんな言葉を、僕は今でも覚えている、
鮮烈で、強烈で、凶悪で。
あまりに劇的だった、言葉を。
「サクヤ様……」
と。
呟きかけて伸ばした手が綺麗に空振った瞬間、僕はふと目を覚ました。
相変わらず明かりの無い部屋。だけれど、彼女の自室よりは禍々しくない僕の部屋。
狂狂しくない、というか。
どうせなら彼女の狂気を肩代わりして差し上げたいのだけれど、それはきっと僕には荷が重いのだろう。そういうのは恋人とか家族とか、友人とかの特権で、たかが玩具に務まりはしない。
わかっている。
わかっている。
わかっている。
「馬鹿か、僕は」
思わず漏れた自虐。
これも、毎朝のことだ。
毎朝毎朝目を覚ます度に彼女への想いを再確認して、身の程知らずな感情に呆れ返って。
それでもまだ、好き、だなんて、
恋か愛か、あるいは忠誠か。彼女に抱いた感情の名前は、未だにはっきりしていないけれど。考えるのも馬鹿らしい程に、深く重い感情なのは確かだ。
「ノート、居るー?」
ほら、こうやって名前を呼ばれただけで、嬉しくてたまらない。
「まったく、めんどくさいことをしてくれるわよね」
最近の彼女は、いつも忙しそうだ。聞いた話によるとその原因はとある通り魔らしい。一般人だけではなく、暗黒街の重鎮やその部下にまで手を出したものだから、お偉いさん達が処刑処刑と荒ぶっているのだと。
何処で誰がどんな風に、あるいはどんな理由で殺されたって僕は全然構わないんだけれど、彼女を困らせるのは止めて欲しいと思う。
ま、それはともかく。
「名声目当てなら名乗りでも上げてくれればいいのに。正体不明ってのが厄介よねぇ」
そう嘘を吐いた彼女の元へ紅茶を運びながら、その一言一言に耳を傾ける。おそらく彼女はそいつの殺害を命じるだろうから、その時を聞き逃さないように。
……なんて、思い込んでいたのに。
「まぁいいわ。今日の私は、機嫌が良いから見逃してあげる」
彼女は、笑って言った。
「だからね、ノート。今日は別のことを頼みたいのだけれど構わないかしら?」
いつもは背筋をぴしりと伸ばして座るソファに体を横たえて、肘掛けへ頭を乗せたサクヤお嬢様が上目遣いで僕を見る。悪戯を思いついた子供みたいなその笑顔は、まるで本物のようだった。いやいやあり得ないとは思っているけれど、迂闊にも夢見てしまいそうになる。
サクヤお嬢様は嘘つきだ。
自分を偽ることで生き延びた、自他共に認める大嘘吐きなのである。
ずっとそばに居たんだ。それぐらい知っているよ。
だから、ーーーーだから。
「かしこまりました、お嬢様」
今だけは、騙されたフリを。
いつか覚める夢でも構わないから。
……なんて。少し、我儘だろうか。
こうして、僕の人を殺さない日は始まったのだった。
とはいえ、特に何があった訳ではないのだけれど。
物語としてはつまらなくとも、遺書としてならなかなか重大な日にあたる。
今思えば、そんな、一日だった。




