「こんばんは」の聞こえる朝を【夜】
ぎし、と敷布団の軋む音がして、俺の意識は唐突に浮上した。泥の中から這い出ているような怠さに弱い頭痛まで合わさった、嫌に現実じみた状態になってみて、ようやく自分が長い夢を見ていたことに気付く。
随分と懐かしい夢を見たものだ。
あんなの、とっくに忘れたと思っていたのに。
そう思いながら、静かに目を開けて。
そして俺は、眼前に広がる光景に一瞬息を詰まらせた。
「……は?」
「あ、!」
乾いた喉が鳴らした声は酷く間抜けにひびき、思わず見開いた目が彼女の姿を鮮明に映す。
ーー俺に覆いかぶさるようにして、パタパタと慌て出したリリィの姿を。
「何してんだ?お前、」
「あ、え、別に、その、良からぬことをしようとしていた訳ではなく!」
痛みも怠さも吹っ飛んだ脳内が、寝起きとは思えないスピードで空回りし始めたのがわかる。要するに、俺は混乱していたのだ。だがそれも、目の前で何故かよくわからない言い訳をするリリィの醜態のおかげで、何とか無表情を作れるぐらいには回復している。大体、『良からぬことをしようとしていた訳ではなく!』って自白してるみたいなもんだぞ。
「誰もそんなこと思ってねぇ」
「うぇ!?あ、はいそうなんです!」
まぁ、こいつだからありえないけど。
成り行きとはいえ一緒にいた中で、こいつが重度のビビりでチキンなのは把握済みなのだ。医者は「【犬】時代のトラウマかなんかじゃないかな……多分」なんて下手くそなフォローをしていたが、俺は生来の性格であると確信している。いくら犬でも、風に揺れる旗に驚いたりしないだろう?つまりこいつは究極のビビりで、他に類を見ないチキンで、世間知らずの子どもで。だからこそ、妙なことなんて出来る筈がない。逆に、そんなのを一度でもすれば罪悪感や緊張感で心臓が破裂しかねない奴なのだから。
「とりあえず降りろ、話は後だ」
「はい、」
このままでは埒が明かないと判断し、俺はとりあえず目先の問題を解決しようと思い立つ。『目先』といえば勿論、この体勢のままこいつと会話していることだ。前述の通りやましいことは一切ないが、何分絵面がよろしくない。
ただ、俺としてはそれだけの理由だったんだけれど、リリィは別の意味に解釈したらしい。
「す、すみませんすみません今降りま、」
びくりと一瞬その肩が跳ね、彼女は足元もろくに見ずに体を起こす。どう見ても不安定で覚束ないその動きに、思わず声をかけようとした。が、それより先に。
途切れた言葉。襖ごしに差し込む月明かりに照らされて、淡く光る薄紫の髪。自分で自分の服の裾を踏んだ、小さな体がぐらりと傾いて。呆然と揺れる両目。そして、伸ばしかけた俺の手は間に合わず。
ここがベッドの上でなくて良かったと、なんとなく思った。
「降りろとは言ったけどな、落ちろとは言ってねぇよ」
「はいー……」
リリィは勢いよく、とは言わないまでも強かに打ち付けた頭を押さえて、涙目のまま起き上がる。それを横目に、俺も布団から起き上がった。
前言撤回。
さっきこいつはビビりでチキンだと言ったけれど、少し違うらしい。若干感じてはいたんだが、今のではっきりした。
つまりはそう、ビビりでチキンでーーーー
「お前ってドジだよなー……」
「そんなことないですよ!?」
果てしない、天然なのだと。




