百合の花束【光】
「救世主はいないから」
「起きろ、時間だ!」
がぁんと檻を叩く音に、思わず飛び起きる。まだ夜中だ、就寝時間ならともかく起床時間には早過ぎるはず。
「出て来い」
疑問に感じつつ外に出るとニヤニヤ笑うご主人様と目が合って、尚更パニックになった。今まで一度だって、こんなことはなかったから。
「(嫌な予感がする)」
まるで底の無い沼に片足を突っ込んだような、言い表せない寒気が背筋をかけ上げる。それでも立ち止まる訳にはいかなくて、何人かの子どもたちと共にご主人様の後をついて行く。
進むたびに聞こえる下卑た嗤い声。
私はこの声を知っていた。
そう、これは、私が大嫌いな
「それでは楽しい楽しいショーを始めます!」
お客さんの、歓声だ。
ショーのための特別な鉄籠の中には、一頭の大きな虎。確か最近仕入れたばっかりの猛獣で、二頭揃えたら勝負させるんだって言っていた。なのにどうして、もう籠の中に居るの?
あそこの、食い千切られた死体は何?
「これからこの虎に『犬』共を喰わせます。愚かにも醜く泣き叫ぶ『犬』の醜態を、どうぞお楽しみください!」
ご主人様がそう言って恭しく頭を下げれば、お客さんたちは更に熱の込もった声を上げる。待って、待って。言っている意味がわからないよ。ご主人様の言葉が正しいなら私は……否、私たちは虎の餌ってことでしょう?違うよ。だって私たちは生きていて。
「ほら、早く入れ!」
まだ、生きていて。
「嫌、いやぁぁあぁああ!!!」
がしゃん。
鍵。
目の前で入り口の鍵が閉められて。
押し込まれた籠の中。
誰かの悲鳴が遠い近くで木霊して。
真っ赤に染まった虎が来る。
私たちを食べに来る。
大嫌いな嗤い声が。大嫌いな血の匂いが。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌嫌嫌嫌いや嫌、
死にたく、ない。
私たちは、生きている。死んでいい命なんかじゃ、消えていい命なんかじゃあーーないっ!
生きたい。死にたくないよ。
「ひっ、」
なら逃げ、なくちゃ。
「っ、うわぁああああ!!」
聞き覚えのある少年の声に弾かれて、私たちは一斉に駆け出した。ただ、もう少しの間生きていたくて。バラバラに、籠の中という狭い空間を走り回る。戦おうとした子はいなかったと思う。皆、襲いかかってくる『死』から必死に逃げた。ご主人様の思惑通り、滑稽な姿を晒して。
「ぎあぁ!」
「あ、ぐぅ」
どんどん死んで行く同類たちから、目を逸らして。10、5、2、と残された命が消える現実に気づかないフリをした。
「やめてぇ!お願い、助け……」
皆あっと言う間にあっさり殺されて。いたるところに鮮血が舞って。もはや残っているのは、私一人だけ。ということは当然、次に狙われるのは私だ。
「、あ」
怖い。
一旦そう感じてしまってからは、頭が上手に働かなくなった。足の力ががくんと抜けて、立ち上がることすら出来ない。逃げなきゃ死んじゃうのはわかっているのに体が止まってしまって、自分の意思では指一本動かせないまま
壊れたみたいに溢れる涙が、静かに視界を歪めていく。
「さぁ最後の一匹です!」
高らかに宣言するご主人様の声。
私を嘲笑うお客さんの、催促の手拍子。
血の匂いと死の感覚。
ーーーーああ、私、死ぬんだ。
皆と同じく、レンちゃんのように。
誰からも忘れられて、思い出されることもなく、ここで死ぬ。
痛いかなぁ。痛くないと嬉しいんだけれど。
……これで、終わり。
私たちはどこで間違えちゃったんだろう。どうして、人間と違うんだろう。
もしも間違えていなかったなら。
もしもみんなと同じだったなら。
こんな風に、ゴミみたいに死ななくて済んだのかな。
もっと、もう少し、生きていられたの?
わかんないな。
……わかんないよ。
「死にたく、ないなぁ」
呟いた言葉は誰の耳に届かず雑踏に消えて行き、血の味に取り憑かれた虎の牙が迫る。私は正直それを見ていられなくて、咄嗟にきつく目を閉じた。
死。
なんて一言が、 体中を支配して。
その瞬間。
「……めんどくせぇ」
聞いたことのない澄んだ声と、破壊音が響きわたった。
「おいガキ、目ぇ開けろ」
ゆさゆさと乱暴に両肩を揺すられて、私は怯えながらに目を開ける。するとそこにいたのはやっぱり見たことのない少年で、驚愕が恐怖を上回った。
フードの裾から覗くキレイな青い目と、真っ黒な髪。お客さんにも『犬』にも、こんな人はいなかったはずだ。
「ガキ、名前は」
「り、リリィ、です」
「ふーん」
ご主人様の怒声が、ずっと遠くで聞こえる。籠を突き破って倒れている虎は、もう生きていないだろう。もしかして、助けてくれたのかな?でも、何で。
「理由はこいつら片付けた後で話す。だから大人しくそこに座ってろ」
18650円の私。
手首に掛けられた重い枷も、向けられる蔑みの視線も、『家畜』を示す赤い首輪も、もう慣れっこだった。嫌だなんて、今更過ぎるので思わないことにしていた。『奴隷』って名前で、売り物になってからは。助けを求めたのなんて、最初だけだったんだ。助けなんて来ないんだって知ったから。
ーーなのに。
救世主はいない、絶望の底みたいな場所まで届いたぶっきらぼうで無愛想な彼のセリフ。救世主と呼ぶには少し乱暴だったけれど、私を助けてくれたのは間違いなく彼だ、神様でも聖者でも、お母さんでもなかった。あっさりと、多分気まぐれで差し出してくれた手。
縋ってみようか。もう一度だけ、だから。だって私は、『死にたくない』。
「私を、助けてくれますか……?」
「『ついで』でいいならな」
ちらりと私を見た彼は、すぐに目を逸らして口元を吊り上げた。にぃ、と愉しそうに闇を裂く黒い刀を肩に乗せて、靴を汚す血の海を気にも留めず。
正義とはかけ離れた強さの象徴。
そんな彼との出会いを、私はこの先一生忘れないと思う。
「私を助けてくれたのは闇」




