百合の花束【鎖】
「私はどうすれば良かったのか、教えて貰えませんか?」
18650円。
それが、私の値段です。
手首に掛けられた重い枷も、向けられる蔑みの視線も、『家畜』を示す赤い首輪も、もう慣れっこでした。嫌だなんて、今更過ぎるので思わないことにしました。【犬】って名前で、奴隷になってからは。
今日も私たちは、頑張って働いています。四階建てのビルの中で、荷物を運んだり牛の世話をしたり。時には檻に容れられて、ショーの道具として。
私たちのご主人様は、見せ物小屋のオーナーでした。牛と牛を闘わせたり、大人と大人を闘わせたり、大人に子どもを殺させたりしていました。どういう訳かこの国では、そういう残酷なショーが好かれているらしいのです。いつだってお客さんは満員で、牛や大人や子どもが死ぬのを楽しそうに見ていました。だから私は、大人が嫌いなのです。ご主人様は鞭で叩くし、怒鳴るし、お客さんは生きようと一生懸命な私たちを笑うから、大嫌いでした。でもそれを言うとまた叩かれるから、一度だって口には出しません。誰だって痛いのは嫌なんです。
なんて考えていたら、目の前を見慣れた少女が横切りました。彼女は私を見ると慌てて戻ってきて、安心したような笑顔を浮かべます。その柔らかい頬には、昨日まで無かった青い痣が。
「リリィちゃん」
「あ……レンちゃん」
レンちゃん、というのは私とおんなじ奴隷の女の子です。私より少し早くここに来て、働いているのだと聞きました。とても臆病で、いつも人の目を気にしていて。そんな彼女が、怯えながら話しかけてきたのです。自由時間はあと5分ですから、それまでに聞ける部分は聞いておこうと思います。
「どうしたの?」
するとレンちゃんは挙動不審に周りを見渡して、ご主人様がいないのを確認してから私にそっと耳打ちしました。昨日、また子どもが5人死んだこと。ご主人様の機嫌が悪くて、なぶり殺しにされたこと。そして少人数の子どもたちが、それに怒っていることを。
「皆、『もう我慢出来ない』って。だからね、ーーーー脱走、しようって」
その言葉を聞いた途端、私は背筋が凍りました。『脱走』。それはここから逃げ出すということです。
「本気、なの?」
気がついたら私は、レンちゃんの手を握り締めていました。嘘だと言って欲しかったのです。だって脱走なんてしてもし失敗したら、例外なく殺されてしまうのですから。
「ダメだよ、」
引き止めようと思いました。申し訳ないけれど、彼女たちが成功するとは思えなかったからです。でも彼女は、珍しく興奮した様子で私の手を握り返して。
「大丈夫、大丈夫だよ。このままここにいたって、いつか殺されるんだ!なら、少しでも可能性に懸けようよ。もしかしたら私たち、自由になれるかもしれない」
ねぇ、リリィちゃんも一緒に行こうよ?
彼女から伝わってくる体温は酷く冷たくて、昨日片付けた死体の感触が、頭の隅をよぎりました。彼女もあんな風になってしまうのでしょうか?そして、この誘いに頷いたら、私も。
心臓が煩いぐらいに高鳴って、息が詰まります。言い表せない不安感が押し寄せてきて、手足が震えて。万が一話を誰かに聞かれていたらと思うと、怖くて怖くて。彼女の姿まで、歪んで見えて。
「む、りだよ。私、」
思わず、彼女の手を払ってしまいました。驚いているような悲しんでいるような、複雑な視線を送るレンちゃんから顔を背けて、ガクガクと震える体を必死に抑えながら。昔の、ここに来たばかりの私なら確かに飛びついたであろうチャンスです。でも私は、あの頃の私ではありません。形の無い奇跡を信じるには、体に教え込まれた恐怖が大き過ぎたんです。
しばらくの間、私たちはその場に立ち尽くしていました。とはいっても休憩終わりの鐘は鳴らなかったので、実際はそう時間が経ってはいなかったのかもしれません。だけど私には、すごく長い時間に感じました。
その後。
レンちゃんは静かに手を下ろすと、恐ろしいぐらいににっこりと微笑んで言ったのです。
「……じゃあ、いいよ。ばいばい」
普段の彼女なら、考えられない言葉です。『ばいばい』っていうのは、私たちにとって死ぬ直前に言う言葉でしたから。レンちゃんはそれだけ、切羽詰まっていたんだと思います。私より長くここで生活していたから、限界が来るのも私より先だったのです。
走り去って行く彼女の背を何も言えずに見送って、私はため息を零しました。もうすぐ休憩時間も終わるでしょうし、彼女を追いかける暇はなさそうです。
「ごめんね、」
そう呟いてみても、返事が返ってくることはありませんでした。
「何してんだ!さっさと運べって言ってるだろうが!」
突然パンッ、と勢いよく頬を叩かれて、床に思い切り体を打ち付けました。
痛い。
「ご、ごめんなさい」
「このグズが、次やったらどうなるかわかってんだろうなぁ!?」
「はいっ」
反射的に浮かんだ涙を慌てて擦って、落としてしまった布袋を持ち上げます。それは少し重くて真っ直ぐ歩くだけで大変でしたが、また遅くなったらもっと痛いことをされるのでしょう。痛いのは、嫌だ。
「っ、う」
私はよろよろと立ち上がって、懸命に足を動かしました。早く、早くと自分を叱咤して。目指すは焼却場。布袋の中に入っている、ーーーー男の人の頭部を、捨てるために。ここで出た死体は、全部焼却場に捨てることになっているのでした。埋葬とか成仏とか関係なく、ただ場所を取らないからという理由で。
私もいつかこんな風に死んで、こんな風に処分されるのでしょう。そう考えるととレンちゃんの笑顔を思い出してしまって、咄嗟に私は頭を振ってそれを振り払いました。逃げることしか出来ないこんな自分が嫌になりますが、今すぐに改善出来る問題ではないのです。
今でも、時々夢にお母さんが出てきます。借金を払う代わりに、私を売ったお母さんの顔が。痛いことをされた日の夜藁の中で眠るとき、その温もりをついつい探していました。
「助けて」
って。
何度呼んでも、助けは来ないと知っているにも関わらず。こんな所から救い出してよと、期待せずに祈りながら眠りました。レンちゃんは無事に逃げられたのでしょうか?とにかく今は、成功したのだと信じるしかないのです。だから外から聞こえる悲鳴なんて、きっと気のせいだと思い込ませて下さい。
だけど、翌日に。
私が片付けた死体は、残念ながら間違いなくレンちゃんのものでした。
どうすれば、良かったのだろう。
別に友だちが死んで悲しい訳じゃない。そもそもこの腐った場所には、【友だち】なんて制度は無い。馬が意思を持たないまま群れるように、羊が何の意味もなく集まるように、私たちも『ただ一緒にいるだけ』だ。そこに愛情や友情なんて、存在しない。だから私がレンちゃんを【友だち】だと思ったことは無いし、レンちゃんも私を【友だち】だと思ってはいなかっただろう。悲しくはない。だけど、あまりにも理不尽な最期だった。彼女が求めたものは、彼女が欲した自由は。殺されなければなけないくらい欲深い願いだったのかな。
だとしたら、なんてーーーー
なんて、残酷な世界。
私は、どうしてこんなに無力なんだろう。どうして、こんなに弱いんだろう。もっと強かったら、もっともっと立ち向かう強さがあったら。狂った国も狂った人も、全部変えられたのに。
「誰だってーー神様だって、構わないから」




