愚者の愚行
―なんでこうなった?
俺の目の前には小柄な人が一体立ち塞がっている。いや、人じゃない。肌は濁った緑で、目と思われるものは濁っていて焦点が合ってるように見えない。身に着けている衣服は腰に簡単に巻いてあるぐらいだボロボロの布。その右手掴んでいる重量感あふれる棍棒は一撃でも喰らったら致命傷になるようにも感じる。
「ぐあっががが・・・」
その口か不快な音が漏れる。口からは黄色く汚れた薄汚い牙が鈍く光沢を出している。
魔物、ゴブリンだ。
俺は今魔物の前に立っている。何故こうなったかというと、ことの発端は俺が夕方頃まで寝ていたことである。駄目人間を体現するかのように休日をほとんど寝て過ごしていた。
そのせいか夜になっても睡眠欲は欠片も訪れず、しかたなく近くの森を散歩していた。もともと村付近では魔物の「ま」の字すら聞かなかった。そのせいか、ゴブリンを見かけた時思わず声を上げてしまった。ゴブリンはその声に反応し、餌を見つけたかのように俺を追ってきた。そして現在にいたる訳である。
追ってきているゴブリンは一体だけ。恐怖は少なからずあるものの、はっきり言って逃げられる。ゴブリンの移動速度はその小柄な体や、持っている棍棒が起因してそこまで速くない。ただの村人である俺でも何とか振り切れそうな速度である。逃げようと足を動かそうとする。
―それでいいのか?
意味の分からない疑問が頭をよぎる。
いいに決まってる。ただの村人である俺に魔物と遭遇したときの行動なんて「逃げる」の一択のみだ。
―それでいいのか?
また同じ疑問が頭をよぎる。いいんだ!!自分に強く言い聞かせる。俺はあいつとは違う。どれだけ頑張っても一生あいつには追いつけない。可能性なんて甘い言葉は無い。そんなのは幻想だ。だから、いいんだ・・・。
―それでいいのか?
うるさい!!!分かってる。分かってんよ!!本当に俺がしたいことぐらい。でも、しょうがないじゃん。俺に何が出来るっていうの?俺は腕っぷしが強い訳じゃない。足が速い訳じゃない。魔法だって使えない。頭だって良くない。じゃあ、下手な夢見ない方がいい。だって、失敗するのなんか火を見るより明らかだし。死ぬのはやだ、怖い、どうせ無理、死んだら全部終わり、命あってのこそのこと、別に無理する必要ない、自惚れるな、身の程を知れ、馬鹿馬鹿しい。
どんどん自分を擁護する言い訳がでてくる。甘い誘惑に流される。
―あぁ、そうだよ。無理に頑張る必要ないじゃん。
頭の中に一人の後ろ姿が映し出される。そいつは、前に進んでいた。その足は決して止まることはない。体中になまなましい傷が出来ている。目を向けれないほど深い傷もある。しかし、そいつの歩みは決して止まらない。どれだけ、痛くても歯を食いしばる。泣きたくても歯を食いしばる。怖くても唇を噛んで恐怖を打ち消す。もう立てないはずなのに、もうとっくに限界のはずなのに前に進もうとする。
――なんで?なんで、俺はあそこにいない?
「うああああああああああああああああああああああ!!!!!!」気が付いたら俺はゴブリンのいる方に走り出していた。
喧嘩なんてしたのはどれぐらい前の話だろうか?はっきり言ってここ最近は全くと言っていいほどそんなことはしていなかった。それらしい思い出と言えば小さい頃苛められていた幼馴染を助けた時ぐらいだろう。助けたと言ってもその時幼馴染を苛めていた子供は単体ではなく複数だったので数の利を覆すことなど出来ず、結局ボコボコにされてしまったが・・・・。
目の前に死が迫っている。死神がすぐそこで手をこまねいている。でも、それがどうした?そんなのはお構いなしだ。上半身を思いっきり捻る。そして標的に向けて拳を突き出す。
放たれた拳はゴブリンの横っ面に直撃して、鈍い音を響かせる。しかし、ゴブリンはこれといってたいしたダメージを受けた様子を見せない。所詮は素が放つ拳。しっかりと体重を乗せた威力のある拳は放てないようだ。というか、殴った俺の方がダメージを受けた気がする。手の甲に痛みが走る。ゴブリンはこちらを見て口の端を吊り上げる。どうやら完全にこちらの方が格下だと理解したらしい。ゴブリンは右手で掴んでいる棍棒をゆっくりと持ち上げる。そして、俺の頭めがけて振り下ろす。
チッ
棍棒が俺の髪の毛を掠った。なんとか紙一重で躱せたという安心も束の間。空を切った棍棒はそのまま地面に激突した。棍棒の重量がかなりあったせいか地面に転がっている小石などが飛び散る。飛び散った小石が目に入ってしまい一瞬視界を奪われる。
「ぐっ!!」
その一瞬が命取りだった。ゴブリンが棍棒を振りかぶっていた。振り切られた棍棒がオデコ辺りにモロに直撃した。
「がっ!!!」
後ろの方に吹っ飛ばされ、太い木の側面に背中を激突させた。強い衝撃に一瞬息が止まる。頭から血が流れているのが分かる。視界が歪んでいる。意識が飛びそうだ。頭がボーっとする。
ゴブリンがゆっくりとこちらに向かってきているのが分かる。ゴブリンが歪んだ笑みを浮かべている。まるで、猫が鼠を追い詰めたかのような表情だ。とても、残虐性に満ちている。
―あぁ、なんでこんな似合わないことしたんだろうな。
逃げればよかった。そんな考えが俺の頭を埋め尽くしていく。魔物を倒せるはずがなかった。だって俺はどこにでもいるようなただの村人だ。身の程を知るべきだった。
―俺死ぬのかな?
まぁ、いいか。思ったよりも俺の心は充実感に包まれていた。ただ偶然あったゴブリンに挑んだだけなのになと俺は苦笑する。俺が死んだら誰か悲しんでくれるかな?母さんや父さんに悪いことしたな。もっと日頃から親孝行しとけばよかったなぁ。俺が死んだって知ったらあいつ悲しんでくるかな・・・・。っ!!
―俺何考えてんだ!!?
そうだよ、俺はまだ死ねない。死んでたまるか!!俺はあいつの前にまた行かなきゃいけねえんだよ。こんなとこで簡単にくたばる訳にはいかねえんだ!!!
死の淵にあった体を無理矢理叩き起こす。壮絶な激痛が体を駆け巡る。意識が何度も飛びそうになる。足がガクガクと震える。歯を食いしばり、体全体に力を込める。必死の思いでなんとか立ち上がる。
俺はすでに虫の息だと思っていたのかゴブリンは驚いたような仕草をする。ゴブリンの動きが一瞬だけ止まる。
「うがああああああああああああああああああああ!!!!」
ゴブリンの懐に勢いよく飛び込む。ゴブリンは状態を崩し、思いっきり近くにある木に後頭部をぶつけ、森に鈍い音を響かせる。
俺はもう限界だ。頼むからこれで気絶してくれと願う。しかし、無慈悲にもゴブリンは気絶することはなかった。むしろ、目を真っ赤に充血させ怒っていた。
思わず俺は目を強く瞑る。
しかし、一向にゴブリンの攻撃はこない。
ドスッ
地面に何かが落ちる音がした。恐る恐る目を開けてみると地面には棍棒が落ちていた。ゴブリンの方に目をやるとゴブリンは固まっていた。
ゴブリンの首から上がゆっくりと横にスライドしていく。
ゴトリッ
地面にゴブリンの頭が落ちた。
一体何が起きたのか皆目見当もつかない。しかし、自分が助かったということだけはわかる。その事実だけ分かると俺は意識を手放した。




