白線の向こう側
「髪には、絶対に触らせない」
鏡の中の女が、そう言った。
淡い藍色の競技用ジャケットを羽織り、髪を肩先で切りそろえた女。目元は必要最小限に整えられ、唇の色も控えめだった。誰が見ても、競技前の緊張を押し隠している二十代半ばの選手に見えるだろう。
だが、鏡の前にいるのは篠原澪ではない。
神谷玲司、二十七歳。かつて地方のスイミングクラブで指導補助をしていた男だった。今はそこも辞め、借金と使い道の決まらない焦りだけを抱えている。
胸元の内側に固定した補正具が、呼吸のたびにきしんだ。厚手の競技用インナーの下には、形を整えるためのパッドと、折り畳んだタオルが何枚も入っている。腰には硬いコルセット。いずれも服の外から見えないように整えたものだった。
汗をかけば崩れる。誰かに触られれば終わる。
それでも玲司は、鏡の女に微笑ませた。
今日、ここで勝てばいい。
《アクア・クラウン》は、全国から招待された選手が競う成人限定の水泳イベントだった。正式な公認大会ではないが、配信スポンサーがつき、優勝賞金は三百万円。競技種目は二百メートル個人メドレー。女子部門として設けられたその枠に、玲司は偽名と偽の経歴を使って滑り込んだ。
金が必要だった。理由はそれだけで十分だった。
ロッカー室の外から、係員の声がした。
「篠原選手、入場まで十分です。本人確認の再チェック、お願いいたします」
「はい、今行きます」
声は、鏡の女にふさわしい高さと柔らかさだった。
玲司は一度だけ深く息を吸い、ロッカーの扉を閉めた。
そのとき、隣の鏡に別の女が映った。
黒髪を低い位置で束ねた、背の高い選手だった。白いジャージを着て、ゼッケンを整えている。名札には「水城奈緒」とある。落ち着いた目をした女で、余計な動作がなかった。
鏡越しに視線が合った。
「緊張してる?」
水城奈緒が言った。
玲司は笑った。
「少しだけ」
「それなら、同じね」
奈緒はそう言って、わずかに口元を緩めた。
その声が、玲司の胸の奥に小さな違和感を残した。
低いわけではない。むしろ、よく通る女の声だった。
だが、どこかで聞いたことがある。
その感覚を押し込めたまま、玲司は呼び出しに応じた。
大会の三日前、玲司は借りたワンルームの床に座り、招待状を見ていた。
紙の端には、金色の箔で《アクア・クラウン》と印字されている。招待選手として扱われること、優勝者には賞金が支払われること、虚偽申告が判明した場合には資格を取り消すこと。書かれている内容は簡潔だった。
玲司は最後の一文だけを、何度も読んだ。
資格を取り消す。
それは、ただの失格より重い言葉に見えた。
自分には最初から資格などなかったのだ、と言われているようだった。
テーブルの上には、知らない男から受け取った封筒が置かれていた。中に入っていたのは大会の登録書類と、当日の連絡先が書かれた紙一枚だけだった。手続きの細部を聞かなかったのは、聞けば断れなくなると分かっていたからだ。
玲司は、その男に「泳ぎさえすればいい」と言われた。
自分の得意なことだけで金になるなら、やるしかないと思った。
だが実際には、泳ぐ前から、自分の名前も経歴も、選手として積み上げてきた時間も、すべて別人のものに置き換えなければならなかった。
その夜、玲司は何度も鏡の前に立った。
鏡の中の姿を整えるたび、見慣れない人間が完成していく。声を変え、歩幅を調整し、笑うタイミングまで考える。けれど、それは演技というより、失敗を隠すための手順だった。
誰かになりたいわけではない。
ただ、神谷玲司のままでは、この大会に入れなかった。
それが、彼にとっては一番都合のいい言い訳だった。
大会当日、受付前の廊下には、選手たちの家族やコーチらしい人々がいた。励ます声、ゼッケンを直す手、早口の作戦確認。玲司は一人だった。
受付台の向こうにいた女性スタッフが、にこやかに言った。
「篠原澪選手ですね。お待ちしていました」
「はい」
「緊張されていますか?」
「少し」
「大丈夫ですよ。ここまで来た皆さん、同じですから」
その言葉に、玲司は一瞬だけ目を伏せた。
同じではない。
ほかの選手は、自分の名前でここにいる。
玲司だけが、借り物の名前で立っている。
受付を終えると、後ろから明るい声がした。
「篠原さんですよね?」
振り返ると、短い髪の女性選手が立っていた。胸元の名札には安西真紀とある。準決勝の別組で泳ぐ予定の選手だった。
「去年の地方大会、見ました。最後に追い込む泳ぎ、すごかったです」
玲司の胸が詰まった。
篠原澪の経歴として書かれていた大会名だ。もちろん、玲司は出ていない。
「……ありがとうございます」
「私、あのとき四位だったんです。だから、今日は絶対に勝ちたいなって」
安西は照れたように笑った。
「互いに、いいレースにしましょう」
玲司は返事をするまでに、ほんの一拍遅れた。
「そうですね」
安西は去っていった。
玲司はその背中を見送った。
嘘は、書類の上だけにあると思っていた。
違った。
誰かが自分に向けてくれる期待の中にも、嘘は広がっていた。
それでも彼は、引き返さなかった。
## 1 水面の上の名前
会場は古い市民プールを改装した屋内アリーナだった。天井から落ちる照明が水面を白く切り、観客席にはスポンサーの旗が並んでいる。塩素の匂いと湿った空気が混じり、スタート台の周囲にはスタッフが慌ただしく動いていた。
玲司は「篠原澪」として、第二レーンに立った。
隣には、水城奈緒。
スタートの合図が鳴った。
最初のバタフライで、玲司は自分の身体がまだ使えることを確かめた。水に入れば、服も髪も、鏡の中の女も関係ない。腕を前へ出し、呼吸を整え、次の壁を目指すだけだ。
高校を卒業するまで、玲司は毎日泳いでいた。全国に届くような選手ではなかったが、水の中にいる間だけは、自分が何者かを疑わずに済んだ。
今は違う。
水の中にいる間さえ、彼は嘘を抱えている。
背泳ぎに入るころ、隣のレーンから一定の水音が聞こえた。奈緒だった。乱れがない。玲司が一度だけ息を乱した瞬間、その差は半身分に広がった。
平泳ぎで追い、自由形で抜く。
玲司は一位で壁に触れた。
電光掲示板に「SHINOHARA MIO」の文字が出る。会場の一角で拍手が起きた。
奈緒は二位だった。
水から上がると、係員がタオルを渡してきた。玲司はそれを肩にかけ、表情を崩さないようにした。競技用のインナーは水を含んで重く、内側の補正具がわずかにずれたのが分かった。
早く戻らなければならない。
その背後で、奈緒が言った。
「きれいな泳ぎだったね、篠原さん」
「ありがとうございます」
「でも、最後の十五メートルで少し息が上がった」
玲司は振り返った。
「見てたんですか」
「競争相手だから」
奈緒の口調は穏やかだった。それがかえって、玲司を警戒させた。
「次は、抜かせてもらう」
そう言って奈緒は去った。
玲司はタオルを握りしめた。
競技そのものでは負けない。そう思いたかった。
しかし、奈緒の言葉には、泳ぎ以上の何かを見抜いているような響きがあった。
控室に戻る途中、玲司は壁際に貼られた大会規約を見つけた。
そこには、太い文字でこう書かれていた。
――参加資格に関する虚偽申告、本人確認書類の改変、競技の公正を損なう行為が認められた場合、即時失格とする。
玲司は目をそらした。
今さら読んだところで、何も変わらない。
むしろ変えられるのは、結果だけだ。
## 1・5 折り返し地点
予選が終わると、選手たちは短い休憩を与えられた。
玲司は人の少ない観客席の最上段に座った。会場を上から見ると、プールはただの長い四角形に見える。八本のレーンが同じ方向へ伸び、白線が水底までまっすぐに引かれている。
泳いでいるとき、選手はその白線だけを見ている。
それなのに、陸に上がると、線の外側にあるものばかりが気になる。
玲司のスマートフォンが震えた。
今度は、昔のクラブ仲間からだった。
――大会に出てるって本当? 配信で見た人がいるらしい。
玲司は返信しなかった。
誰かが自分を見ている。
それは、選手なら本来うれしいはずのことだった。けれど、今の玲司には監視と同じだった。
背後から、足音がした。
「ここ、座っていい?」
水城奈緒だった。
玲司は返事をしなかった。奈緒は二つ離れた席に座る。
しばらく、二人はプールを見ていた。
「あなた、昔から泳いでた?」
奈緒が聞いた。
「どうして」
「水に入るとき、迷いがないから」
「それだけですか」
「あと、壁際で一度だけ左手を握る癖」
玲司は反射的に左手を隠した。
奈緒は笑わない。
「昔のクラブでも、そうだったんじゃない?」
玲司は奈緒を見た。
「どこまで知ってる」
「さあ」
「答えろ」
「答えたら、あなたは何をするの?」
玲司は黙った。
奈緒の横顔は静かだった。黒い髪の間から、耳元に固定用の小さなピンが見える。普通なら見逃すほど小さなものだったが、玲司には目についた。
髪を固定するためのもの。
自分も、同じように髪を固定している。
玲司はふと、奈緒の首元を見た。ジャージの襟元はきっちり閉じられ、競技用インナーの線が見えない。動きにも無駄がない。
完璧すぎる。
玲司は思った。
この女も、何かを隠している。
「お前こそ、何者だ」
思わず、声が低くなった。
奈緒はゆっくりこちらを向いた。
「私は水城奈緒」
「それ、本名か」
奈緒の表情がわずかに固まった。
玲司は続けた。
「偽名を使う人間の顔は分かる。俺は、そういう顔を毎日鏡で見てるから」
言ってから、自分の失言に気づいた。
奈緒は目を細めた。
「面白いことを言うね」
「冗談です」
「そう」
奈緒は立ち上がった。
「でも、鏡は便利だよ。自分が見たいものだけ映してくれるわけじゃない」
それだけ言って、奈緒は階段を下りていった。
玲司は一人残った。
手の中のスマートフォンには、未読のメッセージがまた増えていた。
――決勝に残れ。
――余計なことはするな。
短い文が二つ。
それを読んだ玲司は、スマートフォンを握り潰しそうになった。
誰かの指示に従っている。
それを認めたくなかった。
自分で選んだのだと思いたかった。
だが実際には、選んだ瞬間から、彼は誰かの都合のいい道具になっていた。
観客席の下で、安西真紀がコーチと笑っている。彼女は次のレースの話をしているのだろう。誰かに脅されている様子も、借り物の名前を背負っている様子もない。
玲司は目を閉じた。
彼女のように、ただ速くなりたいと思って泳いでいた時期が、自分にもあった。
思い出すのが、いちばん苦しかった。
## 2 黒い髪の選手
準決勝までの待機時間、玲司は人の少ない通路を選んで歩いた。ロッカー室の中央には選手やスタッフが出入りしている。誰かと肩が触れるだけでも、衣服の下に仕込んだものの位置が変わるかもしれない。
角を曲がると、水城奈緒がいた。
窓のない通路の壁にもたれ、スマートフォンを見ている。濡れた髪をタオルで押さえながら、画面に何かを打ち込んでいた。
玲司は通り過ぎようとした。
「篠原さん」
呼び止められた。
「はい」
「さっきから、少し無理してない?」
玲司は笑みを作った。
「そんなことないです」
「そう」
奈緒は一歩近づいた。距離が近い。玲司は反射的に半歩下がった。
奈緒の視線が、玲司のジャケットの前合わせに落ちた。
「水泳は、嘘をつくのが難しい競技だよね」
玲司の背中に冷たいものが走った。
「何の話ですか」
「水に入れば、呼吸も、疲れも、癖も出る。陸の上でどれだけ取り繕っても、全部きれいには隠せない」
「意味が分かりません」
奈緒は少しだけ首を傾げた。
「分からないなら、いい」
そのとき、通路の先からスタッフが来た。奈緒は何事もなかったように笑い、玲司の横をすり抜けた。
すれ違いざま、彼女の髪から微かな整髪料の匂いがした。
玲司は動けなくなった。
その匂いを、知っている。
以前、クラブの更衣室で、ある男が使っていた香りだ。
名前が出かかったが、思い出せない。
玲司は自分の手のひらに爪を立てた。
考えるな。泳げ。
準決勝では、玲司は一位で通過した。奈緒は別組で一位。決勝でぶつかる。
だが、レース後にロッカーへ戻ると、玲司のバッグが床に倒れていた。
中身が散らばっている。
替えのタオル、化粧道具、スポーツテープ、そして予備として持ち込んでいた小さな袋。
玲司は息をのんだ。
袋の口は開いていた。
中には、衣服の形を整えるために使う予備の布とタオルが入っていた。普段ならただの荷物に見えるかもしれない。しかし、今の玲司には爆弾と同じだった。
慌てて袋を閉じ、バッグに押し込む。
周囲を見回す。
誰もいない。
だが、遠くの洗面台の鏡に、黒い髪が一瞬だけ映った。
水城奈緒。
玲司は追いかけた。
ロッカー室の外へ出ると、奈緒は廊下の先を歩いていた。
「待って」
声をかけると、奈緒は振り返った。
「何?」
「俺のバッグに触った?」
言ってから、玲司は自分の声が少し低くなっていたことに気づいた。
奈緒の目が細くなる。
「今、なんて言ったの?」
玲司は咳払いをした。
「私のバッグに、触りましたか」
「触ってない」
「嘘だ」
「嘘を言っているのは、どっち?」
奈緒の声が冷えた。
玲司は言い返せなかった。
廊下の端に監視カメラがある。ここで騒げば、余計な注目を集める。
奈緒は玲司を見つめたまま、ゆっくりと言った。
「決勝の前に、やるべきことをやったら?」
「何を」
「自分の顔を、よく見ること」
そう言って、奈緒は去った。
## 2・5 見えない線
準決勝の直前、玲司はプールサイドの端でストレッチをしていた。
近くでは安西真紀が、コーチらしい年配の女性と短く話している。
「焦らない。前半で置いていかれても、あなたの泳ぎを崩さない」
「分かってます」
「勝ちたいなら、まず自分のレーンを信じること」
そのやり取りを聞きながら、玲司は目を閉じた。
自分のレーンを信じる。
昔なら、玲司にも分かった言葉だった。隣の選手が速くても、自分の泳ぎを崩さない。水中で他人を見るな。壁までの回数を数えろ。
今は違う。
彼は隣のレーンだけでなく、観客席、監視カメラ、受付の書類、ロッカーの扉まで気にしていた。
泳ぐ前から負けているようなものだった。
そのとき、背後から水城奈緒が近づいた。
「安西さん、速いよ」
玲司は振り向かなかった。
「知ってます」
「あなたは、彼女に勝ちたい?」
「当然でしょう」
「本当に?」
玲司は立ち上がった。
「何が言いたいんですか」
「勝ちたい相手が誰なのか、聞いてるだけ」
奈緒は視線をプールに向けた。
「安西さん? それとも、あなたの中にいる別の誰か?」
玲司は拳を握った。
「私を試してるんですか」
「試す必要はない。あなたは自分で、ずっと綱渡りをしてる」
そのとき、招集のアナウンスが流れた。
奈緒は何もなかったように歩き出した。
玲司はその背を睨んだ。
レースの途中、玲司は自分の呼吸が乱れていることに気づいた。奈緒の言葉が頭から離れない。ターンのたびに、衣服の内側の固定具が存在を主張する。水を吸った布が重くなり、自由形の最後で腕が沈みかけた。
それでも壁に触れた。
掲示板を見る。
玲司は一位。安西は二位。
安西は水から上がると、悔しそうにタオルを受け取った。しかし、玲司の方を見て、すぐに笑った。
「決勝、頑張ってください」
その言葉が、玲司には痛かった。
「……安西さんも」
「私は、次に向けて頑張ります」
安西はそう答えた。
自分は負けても、次へ進むのだ。
玲司には、その当たり前の強さがなかった。
ロッカー室へ戻ると、またバッグのファスナーが少し開いていた。
さっきと同じだ。
玲司はバッグを抱え、誰もいない洗面台の前へ移動した。中身を確認する。化粧道具も、タオルも、予備の衣類もある。
だが、スポーツテープの箱が開けられていた。
箱の底には、小さなメモが入っていた。
――決勝までに、言われた通りにしろ。
玲司は紙を握り潰した。
水城奈緒の仕業ではない。
あの知人たちが、玲司を監視している。
何をさせるつもりなのかは分からない。だが、逃げれば終わる。言う通りにしても、終わるかもしれない。
玲司は洗面台に手をついた。
鏡に映る顔は、整っている。だが、目だけがひどく怯えていた。
そこへ、奈緒が入ってきた。
「大丈夫?」
玲司はメモを隠した。
「何でもない」
「本当に?」
「あなたには関係ない」
奈緒は近づかなかった。ただ、鏡越しに玲司を見た。
「関係ないなら、さっきのメッセージは誰から?」
玲司は顔を上げた。
「見たのか」
「床に落ちてた。拾っただけ」
「返せ」
「もう返したでしょう」
玲司は気づいた。握り潰した紙の裏に、赤いインクで小さな数字が書かれている。奈緒はそれを見たのだ。
「あなた、誰かに脅されてる?」
「違う」
「違わない」
「分かったようなことを言うな」
玲司は声を荒らげた。
奈緒の目が少しだけ揺れた。
「分からないから、聞いてる」
その言葉が、玲司には意外だった。
奈緒は続けた。
「私はあなたを助ける気はない。あなたがしたことをなかったことにもできない。でも、誰かに使われているなら、それは別に見なきゃいけない」
「何者なんだよ」
「今は、ただの競技者」
奈緒はそう言って、ロッカー室を出た。
玲司は鏡の中の自分を見た。
助ける気はない、と言われて、なぜか少しだけ安心した。
## 2・8 沈黙の練習
決勝までの空白は、玲司にとって一番長い時間だった。
泳いでいるあいだは、考える暇がない。スタート台から飛び込み、決めた順番で腕を動かし、壁を蹴る。苦しさはあっても、そこには単純な規則がある。
しかし陸の上では違う。
声の高さ、姿勢、呼ばれたときの反応、他人と距離を取る理由。自分で作った「篠原澪」を、玲司は一秒ごとに管理しなければならなかった。
休憩室の隅には、大会公式のパンフレットが置かれていた。表紙には過去の優勝者たちの写真が並んでいる。
玲司は何気なくページをめくった。
そこには、昨年の女子部門優勝者のインタビューが載っていた。
――競技を続けてきたことで、自分の名前に少し自信が持てるようになった。
短い言葉だった。
玲司はそこで手を止めた。
自分の名前に自信がない。
だから別の名前を借りた。
それは事実だったが、だからといって他人の居場所を奪ってよい理由にはならない。
分かっている。
分かっていても、今さら戻れないという気持ちの方が強かった。
休憩室のドアが開き、水城奈緒が入ってきた。
玲司はパンフレットを閉じた。
「またあなたですか」
「ここは共有スペースだから」
奈緒は空いている椅子に座った。
「決勝、棄権しないの?」
玲司は顔を上げた。
「するわけない」
「なぜ」
「勝てるから」
「勝ったあと、どうするの」
玲司は答えなかった。
奈緒は机の上のパンフレットを見た。
「賞金を受け取れば、終わりだと思ってる?」
「終わりにするために来た」
「違う。始まるだけだよ」
玲司は苛立った。
「お前は何なんだよ。俺の人生を知ったふうに話すな」
奈緒は数秒、黙った。
「昔、似たような人を見た」
「誰」
「水泳が好きだったのに、負けるのが怖くて、練習より言い訳を覚えた人」
玲司は視線を逸らした。
それが誰のことを言っているのか、聞かなくても分かった。
昔、クラブの大会で負けた日。玲司はタイム計測が悪い、レーンの水流が違う、相手がずるい、と何度も口にした。相沢だけが、黙って荷物を片づけていた。
その沈黙が、当時の玲司には腹立たしかった。
今になって、それが失望だったのだと分かる。
「説教なら、もういい」
玲司は立ち上がった。
奈緒は引き止めなかった。
ただ、背中に向けて言った。
「決勝の後、あなたが一人で終われると思わない方がいい」
玲司は振り返らずに部屋を出た。
廊下の奥で、警備員が大会スタッフと話している。聞こえてきた言葉の中に、「入室記録」「機材庫」「スポンサー関係者」という単語が混じった。
玲司は歩みを止めた。
誰かが、この大会を競技以外の場所で動かしている。
自分もその歯車の一つにされている。
それでも、彼の頭には決勝のコースと、三百万円の数字だけが浮かんでいた。
## 3 借金と賞金
玲司は個室のトイレに入り、鍵を閉めた。
鏡を見る。
頬の化粧は崩れていない。髪も大丈夫だ。ジャケットの内側も整っている。
それなのに、鏡の中の女は、もう自分を守ってくれるようには見えなかった。
スマートフォンが震えた。
知らない番号からのメッセージだった。
――三百万円、取れるんだろうな。
次に、もう一通。
――取れなかったら、次の話はない。
玲司は画面を伏せた。
大会に出ることを勧めたのは、昔の知人だった。登録の手続きも、偽名の書類も、すべて相手が用意した。玲司は深く考えなかった。考えれば、引き返さなければならなくなるからだ。
水泳だけはできる。
それを利用して金に変える。
最初は、その程度の計算だった。
しかし今、控室の外では本物の選手たちが、決勝に向けて身体を整えている。積み重ねた練習と、正面から戦う覚悟を持っている。
玲司だけが、別の入口から入ってきた。
「……今さら、まともぶるな」
鏡に向かって呟いた。
まともでいられたなら、ここにはいない。
そのとき、個室の扉が軽く叩かれた。
「篠原選手。失礼します」
女性スタッフの声だった。
「決勝進出者について、追加の確認がございます。大会本部へお越しください」
玲司の喉が鳴った。
「今ですか」
「はい。全員です」
全員。
それなら、ただの手続きかもしれない。
だが、奈緒の顔が頭に浮かんだ。
玲司は返事をせず、しばらく動けなかった。
## 4 確認室
本部の確認室には、決勝に進んだ八人の選手が集められていた。机の上には登録書類、身分証のコピー、健康状態の申告書が並んでいる。
大会実行委員長の夏目は、落ち着いた声で説明した。
「今大会では、外部から不正参加に関する情報提供がありました。そのため、決勝前に登録内容の再確認を行います。選手の皆さんの名誉を守るためでもあります。ご理解ください」
玲司は椅子の背にもたれた。
手のひらが汗ばんでいる。
奈緒は部屋の隅に座り、書類を静かに眺めていた。表情は変わらない。
一人ずつ確認が始まった。
名前、生年月日、所属、緊急連絡先。
玲司の順番が近づく。
そのとき、部屋の外が騒がしくなった。スタッフが慌てた様子で入ってくる。
「夏目さん、機材庫のドアが開いています。入室記録に不審な点が」
夏目は眉をひそめた。
「警備に連絡を。選手はこのまま待機してください」
玲司の脳裏に、さっき倒れていたバッグが浮かんだ。
奈緒が仕掛けたのか。
それとも、あの知人が何かをしたのか。
混乱の隙に、玲司は席を立った。
「すみません、気分が悪くて」
夏目がこちらを見た。
「休憩室を使ってください。スタッフが付き添います」
「一人で大丈夫です」
答える間もなく、玲司は部屋を出た。
廊下を曲がり、機材庫のある裏手へ向かう。
自分でも分かっていた。逃げているのではない。確かめに行っているのでもない。
誰かに先回りされる前に、何かを消そうとしている。
それが一番、駄目な行為だと分かっていた。
## 4・5 決勝前の通路
確認室を出たあと、玲司は指示された休憩室へ向かわず、再びロッカーのある通路に戻った。
決勝まで二十分。
このままでは泳げない。誰かが自分を脅している。奈緒は何かを知っている。夏目たちは再確認を始めた。
すべてが自分の方へ閉じてくる。
玲司は壁に手をつき、息を整えようとした。
そこに、安西真紀が現れた。
「篠原さん?」
玲司は振り向いた。
「安西さん。まだいたんですか」
「コーチを待ってて」
安西は玲司の顔を見て、眉をひそめた。
「顔色、悪いです」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない人ほど、そう言うんですよ」
玲司は苦笑した。
「そうかもしれません」
安西は少し迷ったあと、手に持っていた未開封の飲料を差し出した。
「これ、よかったら」
「いりません」
言葉が強くなった。
安西は手を引っ込めた。
「すみません。余計でした」
「……いや。ごめん」
玲司は言い直した。
「ありがとう。でも、今は飲めない」
安西は頷いた。
「決勝、見ますね」
その言葉に、玲司は目をそらした。
見ないでくれ。
そう言いたかった。
だが、言えなかった。
安西が去ったあと、通路の奥から黒い影が動いた。奈緒だ。
玲司は追いかけ、誰もいない器具置き場の前で腕をつかんだ。
「待て」
奈緒は振り返る。
「何」
「さっきから、俺を追ってるのか」
奈緒の表情が変わった。
玲司はすぐに声を整えた。
「私を、です」
「追ってはいない」
「嘘だ。俺の……私のことを知ってる」
「知っていることはある」
「何を」
奈緒は答えない。
玲司は苛立ちのまま、奈緒の上着の袖をつかんだ。
「言えよ」
奈緒は玲司の手を外した。
「離して」
「答えろ」
「その前に、あなたが答えて」
奈緒の声は低く、硬かった。
「何を隠しているの」
玲司は一歩詰めた。
奈緒の髪の結び目が、わずかにずれていることに気づく。いつも乱れのない彼女にしては不自然だった。
玲司は反射的に手を伸ばした。
奈緒が腕を払う。
「触るな」
その言い方に、玲司は止まった。
自分がさっき、同じことを言ったことを思い出した。
「お前も、隠してるだろ」
「……そうかもしれない」
「だったら同じだ」
「同じじゃない」
「何が違う」
「隠している理由と、その先で傷つける人間が違う」
玲司は笑った。
「きれいごとだ」
「そう思うなら、決勝のスタート台で考えればいい」
奈緒は去ろうとした。
玲司は背中に言った。
「俺は負けない」
奈緒は振り返らなかった。
「勝てるなら、勝ってみて」
その言葉は挑発ではなかった。
玲司には、判決のように聞こえた。
数分後、玲司のスマートフォンに新しいメッセージが届いた。
――機材庫の黒いケースを確認しろ。決勝の前に。
差出人は、例の知らない番号だった。
玲司は画面を見つめた。
行けば、何かに巻き込まれる。
行かなければ、もっと悪いことになるかもしれない。
だが彼は、すでに分かっていた。
自分はずっと、選ぶべきでない方を選んできた。
だから今回も、機材庫へ向かった。
## 5 機材庫の扉
機材庫の扉は半開きだった。
中には、予備のスタート台部品、計測用の端末、スポンサー用のパネルが積まれている。薄暗い室内の奥で、誰かが棚を探っていた。
「誰だ」
玲司が言うと、その人物は振り返った。
水城奈緒だった。
白いジャージの上着を脱ぎ、黒い競技用の上着だけを着ている。
「やっぱり来た」
奈緒は言った。
「何をしてる」
「それはこっちの台詞」
玲司は扉を閉めた。
「俺のバッグを荒らしたのも、お前か」
「違う。むしろ、あなたのバッグを荒らした人間が、ここにも来ていることを調べてた」
「意味が分からない」
「分からないふりは得意でしょう」
奈緒の声が、わずかに変わった。
普段より低い。
玲司は目を見開いた。
その声を、知っている。
「相沢……透か」
奈緒は一瞬だけ黙った。
それで十分だった。
相沢透。玲司がクラブで働いていたころ、同じく指導補助をしていた二十五歳の男。競技を辞めたあとも、筋の通らないことを嫌う厄介な性格だった。
「久しぶりだな、神谷」
奈緒――相沢は言った。
それまでの女の声は消えていた。室内に残ったのは、昔から聞き慣れた男の声だった。
「お前も同じことをしてるじゃないか」
玲司は吐き捨てた。
「女のふりして、ここに入って」
「俺は、優勝するために来たんじゃない」
「じゃあ何のためだ」
「お前らが何をしてるか、証拠を取るため」
相沢はスマートフォンを見せた。画面には、大会関係者らしい人物と、玲司の知人が写っていた。入場口の近くで何かを受け渡している。
「外部の賭けが動いている。偽名の選手を混ぜて、配当を操作するつもりだった。お前はその駒だ」
玲司の背筋が凍った。
「知ってたのか」
「全部じゃない。でも、調べれば不自然な登録が多すぎた。だから俺も偽名で入った」
「正義の味方気取りか」
「違う。俺も規約違反だ。俺も失格になる」
相沢は自嘲するように笑った。
「でも、誰かが止めないと、本当に努力してきた選手が踏みにじられる」
玲司は近づいた。
「だったら最初から通報すればよかっただろ」
「証拠が足りなかった」
「だからって、お前が俺を追い詰める理由にはならない」
「あるよ」
相沢の目が硬くなった。
「お前が、昔から一番弱いところで人を利用するからだ」
玲司の中で、何かが切れた。
相沢のスマートフォンを奪おうと手を伸ばす。
相沢は身をかわした。
狭い機材庫の中で、二人の肩がぶつかった。積み上げられていたタオル箱が崩れ、床に白い布が散った。
「返せ」
「返さない」
玲司は相沢の腕をつかんだ。
相沢は振りほどき、玲司の髪に手を伸ばした。
「触るな!」
玲司の声が跳ねた。
だが遅かった。
黒に近い栗色のウィッグが、留め具ごと外れた。
髪の下に隠していた短い地毛があらわになる。
玲司は反射的に顔を伏せた。
相沢も息をのんだ。
次の瞬間、玲司は相沢の髪をつかんだ。
低い位置で束ねられていた黒髪が、手の中でほどける。整ったウィッグが床に落ち、下から短い髪が現れた。
二人は、散らばったタオルの上で向かい合った。
どちらも、もう女の顔ではなかった。
汗で眉の輪郭がにじみ、頬の化粧が薄く崩れている。
玲司は呼吸を荒くした。
「お前も終わりだ」
「そうだな」
相沢は答えた。
「でも、お前が先に終わる」
玲司はもう一度、スマートフォンへ手を伸ばした。
そのとき、身体を支えていたコルセットの留め具がずれた。泳いだあとに無理な動きをしたせいで、固定が緩んでいた。
上着の内側で支えていた補正具が外れ、折り畳んだタオルが何枚も床に落ちた。
露出はない。ただ、玲司が作り上げていた外見の仕組みだけが、白いタオルとなって足元に散らばった。
機材庫の空気が、急に冷えたように思えた。
相沢は笑わなかった。
「それを片づけろ」
「うるさい」
「ここに来る前から、俺は分かってた。だけど、見せしめにするためじゃない」
「だったら何のためだ」
「自分で認めさせるためだよ」
玲司は床のタオルを拾おうとした。しかし指先が震えて、うまくつかめない。
相沢は少し離れた場所から、静かに言った。
「玲司。ここまで来たなら、もう賞金の話じゃない」
その言葉に、玲司は顔を上げた。
「何が言いたい」
「自分で選べ。証拠を消して、もっと深く沈むか。全部話して、失うものを失うか」
玲司は答えなかった。
扉の外から、足音が近づいてきた。
## 5・5 剥がれた輪郭
扉の外の足音はまだ遠かった。
玲司と相沢は、散らばったタオルを挟んで立っている。相沢の片手にはスマートフォン。もう片方の手には、さっき玲司の頭から外れたウィッグがあった。
「返せ」
玲司が言った。
「返したら、またかぶるのか」
「関係ない」
「ある」
相沢はウィッグを床に置いた。
「今のお前は、逃げるためにそれを使ってる」
玲司は近づき、相沢の肩を押した。
相沢の背中が棚にぶつかる。落ちかけた紙箱を相沢が片手で支える。その隙に、玲司はスマートフォンを奪おうとした。
だが相沢は手首をつかんだ。
力比べになった。
「放せ」
「放さない」
「俺の人生に口を出すな」
「お前が他人の人生を使ってここにいるからだ」
玲司は振りほどこうとして、相沢の顔に手を伸ばした。指先が頬に当たり、汗で崩れかけていた化粧の輪郭をこすった。
相沢は眉をひそめた。
「やめろ」
「お前だって偽物だろ」
「だから、逃げないって言ってる」
相沢は近くに落ちていた濡れタオルを拾った。競技後に使う、ごく普通の白いタオルだった。
玲司が後ずさる。
「何する気だ」
「確認するだけだ」
「触るな」
相沢は玲司の腕を押さえた。強引ではあったが、ねじ伏せるような乱暴さではない。玲司が逃げようとして顔を背けたため、タオルが頬をなぞり、整えていた化粧の一部が拭き取られた。
輪郭を作っていた線が消える。
鏡がなくても分かる。篠原澪の顔が、少しずつ消えていく。
「やめろ!」
玲司はタオルを払い落とした。
相沢の手にも、化粧の色が残った。
「もう十分だ」
相沢は低く言った。
「お前も俺も、これ以上はごまかせない」
玲司は息を荒くした。
床にある白いタオルを見た。
自分が隠していたもの。体型を整えるため、外から別人に見せるため、何重にも詰めていたもの。
彼はそれを拾おうとした。
相沢が先に、上着のすき間から緩んでいた一枚を引き抜いた。
玲司の身体が跳ねた。
「返せ」
「返さない。これを使って、また隠すつもりだろ」
「返せって言ってるだろ!」
玲司が掴みかかる。
相沢はタオルを高く掲げるのではなく、床の端にあった透明な保管袋へ入れた。そこには大会運営が備品を分別するために置いていたラベルが付いている。
「証拠にする」
「それは俺のものだ」
「そうだ。お前が使ったものだ」
その一言で、玲司の手が止まった。
相沢は続けた。
「誰かに見せて笑いものにするためじゃない。何があったか、曖昧にしないためだ」
玲司は床に座り込んだ。
怒りが消えたわけではない。
ただ、怒りを支えていた嘘が、もう役に立たなくなった。
相沢も少し離れた場所にしゃがんだ。
「俺も、ここに入った時点で間違ってる」
玲司は笑った。
「急に仲間みたいに言うな」
「仲間じゃない」
相沢ははっきり言った。
「でも、俺はお前を捕まえて終わりにしたくない。お前が、何を選んだかまで残さないと意味がない」
「選んだ?」
「そう。誰かに言われたからじゃなく、お前がやったこととして」
玲司は何も言えなかった。
扉の外の足音が止まった。
次の瞬間、ノックの音がした。
「中に誰かいますか」
夏目の声だった。
相沢は立ち上がった。
玲司は床に残ったウィッグを見た。
拾えば、まだ間に合うような気がした。
だが、もう一度かぶったところで、何が戻るのかも分からなかった。
## 6 失格
機材庫の扉が開いた。
夏目と警備員、そして数名の大会スタッフが立っていた。
夏目の視線は、床に落ちた二つのウィッグ、散らばったタオル、そして化粧の崩れた二人の顔を順番に見た。
誰もすぐには言葉を発しなかった。
玲司は、とうとう逃げ道がなくなったと知った。
夏目は低い声で言った。
「神谷玲司さん。相沢透さん。お二人とも、確認室へ来てください」
相沢はうなずいた。
玲司は動かなかった。
「行けよ」
相沢が言った。
「お前が勝ったつもりか」
「勝ってない。誰も勝ってない」
玲司は歯を食いしばった。
確認室では、決勝進出者たちがまだ待っていた。玲司と相沢が入ると、全員の視線が向く。誰かが息をのむ音がした。
夏目は余計な説明をしなかった。
「本大会は、神谷玲司氏および相沢透氏について、登録資格に虚偽があったため失格とします。さらに、外部からの不正な関与が疑われる件について、警察および関係機関に報告します」
玲司の偽名が消え、本名が読み上げられた。
それだけで、作り上げてきたものが崩れた。
選手の一人が立ち上がった。
「私たちは、どうなるんですか」
夏目は答えた。
「大会は中止しません。残った選手で、決勝を行います。ただし、映像配信は一時停止します。皆さんの努力が、今回の不正で否定されることはありません」
その言葉を聞いたとき、玲司は初めて、自分がどれほど多くの人間の競技を汚したかを理解した。
三百万円だけを見ていた。
だが、その賞金の向こうには、毎朝水に入り、負けても練習を続けてきた人たちがいた。
彼はそこから、奪おうとしていた。
確認のあと、玲司はスタッフの案内で別室に移された。
相沢も同じ部屋にいた。
しばらく、二人は何も話さなかった。
机の上には、玲司のウィッグと、相沢のウィッグが置かれていた。どちらも乾ききらず、水滴が床に落ちていた。
「お前、いつから気づいてた」
玲司が聞いた。
「登録名を見たとき」
「それだけで?」
「篠原澪って名前、昔お前が作った架空の選手名だろ。クラブのデータ整理のときに見た」
玲司は目を閉じた。
そんな小さなところから、すべてが崩れていた。
「俺のバッグを荒らしたのは誰だ」
「たぶん、賭けの連中だ。お前が逃げないように、脅す材料を作ったんだと思う」
「……俺は、ただ泳げればいいと思った」
「泳ぐだけなら、偽名なんかいらない」
相沢の声は厳しかった。
「お前は、自分の力を信じるより、近道を選んだ」
玲司は反論できなかった。
## 7 決勝の音
別室の小さな窓から、会場の一部が見えた。
しばらくして、スタートの電子音が響いた。
決勝が始まったのだ。
玲司は椅子に座ったまま、その音を聞いた。
水を切る音。観客の拍手。アナウンス。
それは、玲司が本来なら立っていたはずの場所から遠ざかっていく音だった。
「見ないのか」
相沢が聞いた。
「見られるわけないだろ」
「見ろよ」
「何で」
「自分が壊しかけたものを」
玲司は窓の方を見た。
レースは終盤だった。選手たちが最後の自由形に入っている。誰も、誰かの名前を奪っていない。自分の名前で泳いでいる。
その事実が、玲司には眩しかった。
優勝したのは、準決勝で玲司の後ろを泳いでいた選手だった。表彰式の音は聞こえない。ただ、観客の拍手だけが遠くまで続いた。
玲司は笑いそうになった。
自分がいなくても大会は進む。
世界は、彼の嘘がなくても回る。
それが恐ろしく、少しだけ救いだった。
## 8 白いタオル
大会から二週間後、玲司は警察への事情説明を終え、弁護士と面談した帰りに、以前働いていた市民プールの前に立っていた。
不正参加そのものだけでなく、外部の賭けに関する捜査も続いている。玲司は自分が知っていることを話した。知人の名前も、連絡先も、書類を受け取った場所も。
全部話しても、失ったものは戻らない。
仕事も、信用も、時間も。
それでも、黙るよりはましだと思った。
入口のガラス越しに、小学生たちが練習しているのが見えた。コーチの合図で、一斉に水へ飛び込む。水しぶきが上がり、すぐにレーンが静かになる。
玲司は、あの大会の機材庫を思い出した。
床に散らばった白いタオル。
あれは、外見を作るための道具だった。人を騙すために使ったものだった。
だが同時に、彼がどれほど不安だったかを示すものでもあった。
自分のままでは勝てない。
自分のままでは、誰にも見てもらえない。
そんな馬鹿げた考えを、布の下に隠していた。
「神谷」
後ろから呼ばれた。
振り返ると、相沢が立っていた。
今日は普通の服を着ている。髪も短いままで、化粧もしていない。
「何してる」
「見てただけ」
「入らないのか」
「入れないよ」
玲司は苦笑した。
「今はまだ」
相沢は黙った。
しばらくして、鞄から小さな封筒を出した。
「大会実行委員会から。正式な処分通知」
玲司は受け取らなかった。
「お前が渡すのかよ」
「俺にも届いた。俺も出場停止だ。大会の偽装参加に関わったから」
「お前は止めようとしたのに」
「やり方を間違えた。だから責任はある」
相沢は封筒を玲司の手に押しつけた。
「二人とも、同じだよ。違う理由で始めたとしても、ルールを破った」
玲司は封筒を見た。
白い紙の中に、失格と処分の文字が並んでいるだろう。
それでも、今度は目をそらさなかった。
「なあ」
玲司が言った。
「何」
「もう一回、泳げるかな」
相沢はすぐには答えなかった。
「競技者としては、しばらく無理だろうな」
「そうだよな」
「でも、水に入ることまで、誰も止めない」
玲司は市民プールの入口を見た。
中から、子どもたちの笑い声が聞こえた。
賞金も、偽名も、鏡の中の女も、もうない。
残ったのは、自分の名前と、これから引き受けなければならない責任だけだった。
それで十分とは、まだ思えない。
だが、少なくとも嘘ではなかった。
玲司は封筒を鞄にしまい、プールの受付へ向かって歩き出した。
白いタオルを一枚だけ、手に持って。
## 終章 名前の重さ
一か月後、大会の調査報告が公表された。
複数の登録不備と、外部の違法賭博グループによる接触が確認された。玲司が受け取った書類も、その一部だった。大会実行委員会は管理の不十分さを認め、参加選手への説明会を開いた。
玲司は出席しなかった。
出席する資格がないと思った。
けれど、安西真紀から一通だけ短いメッセージが届いた。
――決勝で優勝しました。あなたのことは許せません。でも、もう二度と誰かの努力を踏みにじらないでください。
玲司は画面を閉じず、その文を何度も読んだ。
許されてはいない。
それでも、言葉を向けられた。
それだけが、今の彼には重かった。
相沢は大会関係者への協力を続けたあと、以前とは別のスイミングクラブで事務の仕事を始めた。二人が会うことはほとんどなかった。
ただ、ある朝、玲司が市民プールの一般利用レーンで泳いでいると、隣のレーンに相沢が入ってきた。
互いに何も言わず、同じ方向へ泳いだ。
壁に触れ、折り返す。
水の中では、名前も、過去も、言い訳も、すぐには消えない。
だが、少なくともそこで使うべきものは、借り物ではなかった。
玲司は息を吸い、もう一度だけ前へ腕を伸ばした。
## 余白
受付で一般利用の申込書を書こうとすると、玲司の手が止まった。
氏名欄。
そこには、篠原澪ではなく、神谷玲司と書く。
当たり前のことなのに、ペン先が少し震えた。
受付係は名前を見て、何も言わなかった。ただ利用券を渡し、「ロッカーは奥です」と案内した。
誰も責めない。
誰も褒めない。
それが、玲司にはありがたかった。
更衣室の鏡の前に立つ。そこには短い髪の男がいる。競技用の服も、飾りも、借りた名前もない。自分の体を自分のものとして扱うことさえ、玲司には久しぶりだった。
ロッカーの隅に置いた鞄の中には、あの日の処分通知が入っている。捨てようと思ったこともあったが、まだ捨てられなかった。
忘れるためではなく、忘れないために持っている。
玲司はシャワーを浴び、プールへ向かった。
水は冷たかった。
最初の一歩で、呼吸が少し乱れる。
それでも、腕を伸ばす。
隣のレーンでは、小学生がビート板を使って練習していた。何度も失敗し、何度も壁につかまり、それでもコーチの声にうなずいている。
「焦らなくていい。水をつかんで」
その声を聞いて、玲司は思った。
自分はずっと、何かをつかんだふりをしていた。
賞金。勝利。別の名前。うまく作った外見。
だが、どれも水のように、手のひらから逃げていった。
泳ぎ始めると、少しずつ身体が前に進んだ。
白線は、前にしかない。
過去へ戻る線はない。
玲司は壁に触れ、息を吐いた。
次の折り返しでは、今までより少しだけ、まっすぐに進める気がした。
プールを出ると、夕方の光が駐車場の水たまりに映っていた。
玲司のスマートフォンが鳴った。
表示された番号は、あの大会の前に何度も連絡を寄こした相手のものだった。
以前なら、すぐに出ていた。出なければ何をされるか分からないと思っていたからだ。
しかし玲司は、画面を見たまま立ち止まり、電話を取らなかった。
代わりに、事前に調べていた法律相談窓口の番号を押した。
事情をすべて説明するには時間がかかる。自分のしたことが消えるわけでもない。相手が簡単に手を引くとも限らない。
それでも、今度は一人で都合のいい道を選ばないと決めた。
呼び出し音が三回鳴ったあと、担当者が出た。
「はい。ご相談を承ります」
玲司は一度、空を見た。
そして、自分の名前を名乗った。
名乗った瞬間、何かが終わるのではなく、ようやく始まるのだと思った。
嘘を重ねた時間は消えない。失格の記録も、人を傷つけた事実も残る。
けれど、これから先に何を積み上げるかまで、過去に決めさせる必要はない。
玲司は電話を耳に当てたまま、ゆっくり歩き出した。
水面の向こうにあった白線は、もう見えない。
それでも、自分の足で進むべき道だけは、少しずつ見え始めていた。




