16. 放牧地
侯爵領二日目、アンネリーゼ達は日の出前に起き、作業着に着替えて庭に出る。
そこには既に作業着姿のコンラートと数名の使用人がアンネリーゼ達が来るのを待っていた。
春とはいえ、帝都より北に位置する侯爵領の朝は冷えるため、皆厚手の上着を羽織っている。
「オイレンブルク卿、おはようございます。待たせてしまったかしら?」
「おはようございます殿下。我々も先程来たところですのでお気になさらず。
長旅でお疲れかと思いましたが、昨夜はよく寝れましたでしょうか?」
「ええ、しっかりと睡眠をとりましたわ!普段から日の出前に騎士団の訓練場の外周を何周も走ったりしていますし、早起きには慣れていますの。
それに、今日は念願の子馬に会えるのですもの!カミラに起こされる前に起きましたわ!」
馬は朝型の動物のため、世話をする人間もそれに合わせて活動する。
アンネリーゼは昨夜開かれた晩餐の席でコンラートに頼み、今日は子馬に会うためこれから放牧地に向かうのだ。
全員が揃い、それぞれ用意されていた馬車に乗り込む。
アンネリーゼはコンラートと同じ馬車で、カミラもアンネリーゼの世話係として同席している。
「それにしても騎士団の訓練場の外周をですか…結構な距離になるのではないですか?」
馬車が走り出し、コンラートは先程の話が気になったらしくアンネリーゼに問い掛ける。
「もう慣れましたわ。魔力が無くなってしまった分体力をつけようと思って陛下にお願いしましたの」
「それは、陛下の困った顔が目に浮かびますな…」
コンラートはアンネリーゼの魔力の件を理解しているため、話を合わせる。
外には御者や馬に騎乗している護衛の騎士達もいるため、気を遣ってくれたようだ。
「説得するのは本当に骨が折れましたわ…。
皇女らしくないと渋られたので、体力を付ければ身体も丈夫になると言ってやっと説得しましたのよ?」
アンネリーゼが冗談めかして言うとコンラートは肩を揺らして笑った。
「陛下は殿下のことを溺愛していらっしゃいますから、心配をなされたのでしょう。
特に両陛下は婚姻してから数年はなかなか子宝に恵まれず、出来れば子は男女どちらも欲しいとわたくしめに何度となく漏らしておいででした。
そんな折お生まれになられたのが殿下でございました…陛下が心配なされるのも致し方ないことです」
「そうかしら?最近は私が会いに行くたびに顔を顰めるのよ…酷いと思わない?」
「アンネリーゼ様が陛下に無茶なお願いばかりされるからですよ…」
アンネリーゼが口を尖らせると、カミラが隣でボソリと呟いた。
「あら、それは心外だわ!貴女はお父様と私のどっちの味方なのかしら?」
「ズルい質問ですね…心情ではアンネリーゼ様、立場上は陛下の味方でしょうか?」
「そっちこそその答えはズルいじゃないの…」
「はっはっは!お二人はまるで姉妹のようですな!」
二人のやりとりを見ていたコンラートが笑い、カミラは恥ずかしそうに俯いた。
「ふふっ…オイレンブルク卿の仰る通り、カミラは私にとって優しい姉のような存在ですわ…まあ、ちょっと頼りないところは妹みたいですけれど。
でも、私の話を信じてくれて、一緒にいてくれると約束してくれた…私にとってとても大切な存在ですわ」
そう言い、アンネリーゼは隣に座っているカミラの手に自身の手を重ねて微笑みカミラを見る。
だが、当のカミラは不服そうに頬を膨らませていた。
「…ちょっと頼りない妹って酷くないですか?」
「ちょっと、せっかく私が良い雰囲気を出したのに台無しにしないでちょうだい…」
コンラートは目の前で繰り広げられている微笑ましいやりとりに目を細め、まだ真偽のほどは定かではないものの、アンネリーゼの心の平穏を願った。
「旦那様、そろそろ到着致します」
「うむ。殿下、そろそろ到着するそうです」
「あら、本当?ごめんなさいね、見苦しいものを見せてしまって…騒がしかったでしょう?」
「いえいえ、お気になさらないでください。息子達も既に手を離れ今は帝都におりますし、わたくしも久しぶりに楽しい時間を過ごさせていただきました」
「ふふっ、なら良かったわ」
アンネリーゼが笑顔で答えると同時に馬車が止まる。
馬車から降りたアンネリーゼが真っ先にしたことは深呼吸だ。カミラもそれに倣い深呼吸をしたが、首を傾げた。
「あれ…そんなに臭くない…?」
「馬糞の臭いのことかしら?そう言えば、馬糞は牛糞に比べて臭くなりにくいと聞いたことがあるわ」
「仰る通りです。馬も牛も草食ではありますが、馬糞は牛糞に比べて水分量が少ないため臭いが少ないのです」
乾燥や発酵の度合いにもよるが、適切な発酵が進んでいる馬糞は「土のような匂い」と例えられる。
堆肥としては土壌改良効果は高いが肥料効果は控えめだ。
逆に牛糞は肥料効果は高いが土壌改良効果が控えめになっているため、目的に合わせて使い分け適切に利用する必要がある。
コンラート自らの案内で小高い丘を進んでいき頂上に着くと、眼下にアンネリーゼの背丈よりも高い牧柵に囲われたいくつもの放牧地が見えてきた。
その背後には広大な森林と薄らと雪の冠を被った山脈が聳え立っている。
それぞれの放牧地には多くの馬が放されており、数頭で固まって行動している馬、逆に一頭だけ離れてのんびりと過ごす馬、元気に駆け回っている馬、草を食んでいる馬と一重に馬と言っても個々で性格が違い、皆思い思いに過ごしているようだ。
馬達の姿と背後に広がる雄大な自然との風景は、まるで絵画から抜け出してきたような美しさだ。
「綺麗…」
「これは…壮観だわ…」
アンネリーゼより背が高く、気遣うように手を引き歩いていたカミラがその風景に先に気づいて立ち止まり、感嘆を漏らす。アンネリーゼもカミラと同様に息を飲んだ。
二人が目の前の景色に魅入っていると、コンラートが満足気に頷いた。
「これが当家自慢の放牧地と馬達です…。
わたくしも公務を終え戻った際は、頻繁にここを訪れております」
「オイレンブルク卿が羨ましいわ…こんな素敵な光景を頻繁に見れるのですもの。
どうしましょう…私、ここに住みたくなってきましたわ」
「はっはっは!それは非常に光栄ではございますが、わたくしが両陛下の恨みを買ってしまいます」
「あら、それは困るわね。なら、数年に一度でも良いから寄らせていただくわ」
「是非いつでもお気軽にお越しくださいませ。
では、早速馬達のもとに参りましょう」
「よろしくお願いしますわ!楽しみね、カミラ!」
「はい!」
「カミラ嬢、はしゃぎ過ぎて転ばないようにな…」
それまで護衛のため発言を控えていたガーランドがカミラに注意し、指を指す。
「手だよ…今は殿下の手を引いてるんだし、転んだら殿下を巻き込むから気を付けてくれよ?」
「おぉ…そうですね…」
「大丈夫よ?その時は私がカミラを支えるわ!」
「いや、それは無理があるでしょう…」
ガーランドは呆れていたが、楽しそうに笑っているアンネリーゼに苦笑し、傍を離れて護衛に戻る。
丘を下ってコンラートが放牧地の牧柵に近づくと、一頭の栗毛の馬がそれに気付いてゆっくりと歩いて来る。
アンネリーゼはコンラートの隣に立ってその馬を見ていたが、馬が近づくにつれどんどん首を上げていき、目の前まで来た時には空を見上げているのか馬を見上げているのか自分でも分からなくなっていた。
コンラートはその馬の額を優しく撫で、アンネリーゼにどうぞと言って場所を譲る。
馬は理解しているのか、牧柵の上からアンネリーゼに向かって頭を下げた。
「殿下、こちらは騎士達が乗る軍馬になります。
昔はまだ小型だったのですが、長い年月をかけて厳選して交配を繰り返し、今のサイズまで大型化するに至りました。
大型化に伴い筋肉量が増え、脚も太くなり速度は控えめにはなりましたが、鎧を着込んだ騎士が騎乗しても問題なく、長距離の移動も可能になりました」
「…間近で見ると本当に大きいわよね。昔の種は小型だったと言っていたけれど、どのくらいだったのかしら?」
アンネリーゼは馬の額を撫でながら、説明をするコンラートに問い掛けた。
撫でられている馬は余程人馴れしているのか、アンネリーゼに向けて頭を下げたまま、今にも眠ってしまいそうな表情で気持ち良さそうに目を細めている。
「そうですね...体高が150cm程でしょうか」
「へっ...?そ、そんなに小さかったの?」
コンラートの言葉を聞き、アンネリーゼは馬の額を撫でていた手を止め、目の前の馬をもう一度じっくりと観察した。
馬の体高は、き高という背中側の首の付け根あたりで測る。
目の前の馬の体高は170cm程はあるため、少なくとも一回りは大型化したということだ。
生物の進化や成長は一朝一夕では成し得ないものだ...アンネリーゼは、ここまでの結果が出るまでに関わってきた者達がどれ程の時間と労力を費やしてきたのかを思うと、頭の下がる思いになった。
「本当に見事なものですね…。この地を守り続けてきた歴代のオイレンブルク侯爵家の方々と、馬の生産・育成を担って来られた方々のおかげで、今の私達の生活は支えられています。両親に代わり本当に感謝致しますわ...」
「勿体なきお言葉でございます...殿下のそのお言葉に、父祖やこれまで関わって来た者達も皆、天の国で喜んでいることと思います」
「ええ、そうだったら私も嬉しいわ」
コンラートはアンネリーゼの言葉を噛み締めるように頷き、頭を下げた。
「はい。では、次に参りましょう...次は帝室へ献上させていただいている馬の放牧地になります」
「もしかして、私に贈っていただける予定だった子も見られるのかしら?」
「はい、是非ご覧になられてください」
ーーあぁ、やっとあの子に会えるのね...。
アンネリーゼは胸が高鳴るのを感じつつ、逸る気持ちを抑えながら案内するコンラートの後に続いた。




