第32話 彼の本音
気が付くと、優太が微笑みながら私の頭を撫でている。終わった後でウトウトしてしまっていたようだ。下半身が痺れたようにだるく、心地よい。
「ごめん、ちょっと寝てた」
「全然いいよ。ごめん、疲れさせちゃった?」
「ううん、よかった」
優太は嬉しそうに私のおでこにキスをした。言葉ではなく仕草で気持ちを伝えてくれることに温かい気持ちになる。
「お腹すいてる?お昼なに食べたい?作るよ」
「誕生日の人にご飯を作らせるわけにはいかないよ」
私は笑いながら答えた。
「せっかく来てもらったんだから、おもてなしさせて」
「じゃあ、パスタ食べたい」
「いいよ。得意料理」
ニッコリ笑いながら起き上がると、優太は服を着てキッチンに向かった。私も着替えを済ませると何か手伝えることはないかと、優太の周りをうろついたが、ソファーに座らされてしまった。
優太お手製の夏野菜の冷製パスタとサラダを食べながらサブスクで映画鑑賞をし、他愛ない会話を繰り広げ、夕飯は一緒にお鍋を作って食べることになった。せっかくの誕生日なんだからもっといいものを食べよう、と提案したが、一緒に買い物に行って料理がしたい、と優太が言ったので、スーパーに買い物に出かけた。
買い物袋をぶら下げて荒川の土手を散歩がてら歩き、一緒に夕日を眺めた。近隣の学校の野球部だろうか、威勢のいい声が河川敷に響いている。
「綺麗だなぁ」
夕日の光を受けて縁が金色になった雲がたくさん浮かんでいる。優太が、あのさ、とためらいがちに言った。
「…一緒に写真撮らない?夕日を背景にしてさ」
「夕日を背景にしたら逆光になっちゃうよ?」
「それでもいいよ」
優太はインカメラにすると少しかがんで、私は精一杯背伸びしてカメラに収まる。彼が撮った写真は想像通り逆光になっていたが、十分二人の表情はわかる写真だった。
もうすぐ今日が終わる。夕日をみてこれほど切ない気持ちになることは無かった。私たちは再び手を繋ぎ、家路をゆっくりと歩いた。
家に着くと早速、お鍋の準備に取り掛かる。白菜、ネギ、大根は優太の実家から送られてきたものを使い、その他はお互い好きな物を入れる寄せ鍋にした。優太は鶏肉やシイタケなどのキノコ類を選び、私はちくわぶと餅巾着を選んだ。
「やっぱりその具材はおでんじゃない?」
キッチンに並べられたちくわぶ、餅巾着を目で追いながら優太は言った。私は大根を桂むきしながら、目線を動かすことなく答える。
「まぁ、そうなんだけど、モチモチしてて好きなんだよね」
「というかピーラーがあるよ。桂むき、大変じゃない?」
「いつもこうしているから大丈夫」
「家庭的だね」
「普通だよ」
桂むきを終えた大根をいちょう切りにしていると、隣で優太が小さく笑ったので手を止めて見上げた。
「いや、一緒に料理するとさ、お互いの知らなかった一面が知れるから楽しいな、と思って」
「そうだね」
優太は一人暮らし歴が長いだけあって料理上手だ。彼は旬の食材を使うことを好み、かなり凝り性でもある。お昼に作ってくれたサラダにかけるドレッシングは、なんと手作りであった。
具材を一通り鍋に入れて後は煮込むだけになった。優太はキッチンの隅に置いてある段ボールの中から茄子を取り出すと、煮びたしでもいい?と聞いてくる。私はもちろん、と答えた。
「野菜、たくさんあるね」
私は段ボールに入っている野菜を覗き込んだ。
「実家からしょっちゅう送られてくるんだよね」
「へぇ。実家って農家なの?」
「いや、普通のサラリーマン。庭で家庭菜園をやっているだけだよ」
茄子に細かく切れ目を入れながら優太は答えた。私は彼の手元を見て感心した。均等に切れ目が入っている。
「包丁さばき、上手いね」
彼は嬉しそうに笑いながらフライパンに茄子を並べる。
ローテーブルに鍋用の卓上コンロ、茄子の煮びたし、取り皿にコップとお箸を並べるとかなり手狭になってしまった。お互いビールを開けて乾杯をする。
「お誕生日おめでとう」
「ありがとう」
鍋は昆布から出汁を取っただけあって優しい味がした。自分で作る鍋より美味しく感じる。一番好きなちくわぶばかりを器によそっていると、優太が爆笑した。
「ちくわぶばっかり拾って食べるじゃん。子どもみたい」
「だってこれが好きなんだもん」
私はばつが悪くなってキノコや白菜もよそった。
私たちはお互いの家族について話しながら食事をした。私には三人の兄がおり、みんながそれぞれ我が道を行くタイプだ。父親が高校の教師、母親が看護師、長男がパティシエ、次男が介護職、三男が消防士。兄たちとは年が離れており、両親からは待望の女の子として、ものすごく可愛がられながら育ってきたと思う。
優太は新潟出身で、田んぼに囲まれた場所で育ったと話してくれた。父親は電気整備士、母親はスーパーのパート、弟は米農家。子どもの頃、ザリガニを育てればロブスターになる、と信じていたことや、家のお風呂でガマガエルやオタマジャクシを育てようとしたエピソードなど、彼の子ども時代の話は田舎の男の子らしいエピソードにあふれていて、私は久々に目に涙がたまるくらい笑い転げた。
楽しくていつもよりお酒が進む。本指名が連れて行ってくれるレストランも素敵だけれども、私はこうやって一緒に鍋をつつきながら、テレビを見て笑いながらお酒を飲む時間の方がずっと好きだ。
バラエティー番組で北海道の観光地が取り上げられているのを見て、私は、あっ、と声をあげた。
「ここ、前に優太が動画で見せてくれた湖じゃない?」
「あぁ、支笏湖ね」
カヤックに乗った芸人がパドルを漕いでいる様子を見ていたが、ふと隣を見ると真顔でテレビを見ている優太に気づいて私はどうしたのだろうか、と訝しんだ。
「追加のお酒、持ってこようか?」
「いや、大丈夫。まだ半分残っているから」
持っている缶を揺らしながら優太が答えた。私は箸を置いてできる限り穏やかで、優しい声が出るように意識して言った。
「どうしたの?何かあった?」
手元の缶に目線を落としたまま黙り込んだ優太に体を向ける。テレビから盛大な笑い声が聞こえ、私は少しだけボリュームを下げた。
「…この前、彼女と北海道旅行に行った時にさ」
「うん」
「その、いつも別々で寝るんだけど、泊まったところが旅館で、寝間着が浴衣だったんだけど」
「うん」
「朝起きた時に、隣のベッドで寝ていた彼女の浴衣が結構はだけていて、太ももとか、その、下着とかが見えていたんだよね」
「うん」
「それで、俺、何とも思わなかったんだよね。なんとも思わないことに気づいてびっくりした」
「…うん」
「でも、恋人の、そういう姿を見ても何とも思わないってどうなんだろうな、って。彼女に対して、触れたいって思わなくなった時点で恋人関係って成立していると言えるのかな、って思ったら、よくわからなくなったというか…」
「うん」
「ゆずは…、彼女はそういう性的なものがない恋人関係を望んでいるから、きっとこれが正解なんだろうけど、俺にとって正解って言えるのかな、性的に何も感じなければ友人関係と何が違うんだろう、って思ってさ」
「うん…」
「ゆずの希望通りの彼氏になりたくて、ずっと努力してきたけど、やっぱり俺は好きな人から男として見られたいし、好きな人がいたら抱きたいと思う。でも、だからといって、じゃあゆずと別れるのか、といったらそれも、どうなんだろうなって…」
「うん」
「何が正解なのかわかんないや」
優太の本音に私は心を揺さぶられた。好きな人に触れず、好きな人が望むポジションを維持する、それは口で言うほど簡単なことではない。好きな人のためにこのような自分でありたい、という願望と、でも本当はこんな自分でいたい、という欲望の狭間でい続けることは苦しい。でも、どっちを取ったら正解なのかわからないから悩み、辛い気持ちになる。私は、優太の気持ちを完全に理解することはできない。しかし、少しでも彼の心に寄り添って、その辛さを分かち合いたい。
「…私、バイだってこの前言ったと思うけど、それを自覚したのは大学に上がってからなんだ。それまでは好きになる人って女の子ばっかりで、自分のことをレズだって思ってた」
私が話し出すと彼は顔を上げてこちらを見てきた。目にうっすらと涙の膜が張っている。
「大学に入ってから、好きな男の人ができたの?」
「うん、大学で初めての彼氏ができた。五年も続いたんだよ」
「…長いね」
私は、そうね、と呟いてビールを一口飲み、口の中を湿らした。
「当時は多様性って言葉は社会的に普及してなかったから、カミングアウトすることも怖くってさ。私、その好きだった女の子と一番仲良かったんだよ。小学生の時も中学生の時も、高校生の時も、学校が変わるたびに好きな人も変わったけど、ずっと一緒にいたんだよね。だから、大学に入って女の子を好きになるのと同じくらい男の子を好きになれた時、私も普通の恋愛ができると思ってホッとして泣いたよ」
その時のことを思い出して懐かしさに口元が緩む。そんな私を見て優太も少し微笑んだ。
「女の子同士のじゃれあいってあるじゃん。相手の体触ったり手をつないだり、腕組んだりさ。私も周りの子たちと同じように友達同士でじゃれあっていたけど、好きな人にだけは触れないように気をつけていたよ」
「…どうして?」
「自分の気持ちをコントロールする自信がなかったから。あれが好きな子といる時の男子の気持ちなんだろうな、って今では思うよ」
「その気持ちは、ちょっとわかる」
お互い苦笑しあう。少しだけ空気が和らぐ。
「でも、好きな子の近くにいたいから、ずっと自分の気持ちを我慢してた。本当は恋愛対象として見られたいけど、相手は私を友達として見ていたし、好きな子の気持ちに応えて、友情関係を続けることが私なりの愛情表現だ、って思ってた。そうやって、ずっと自分に言い聞かせていたけど、その頃は本当にしんどかった」
優太は黙ってうなずいた。
「今はバイで良かったなって思う。おかげで好きな人に触れられない人の気持ちが、少しはわかると思う。…触れてもいい関係性ならなおさら辛いよね」
「…」
優太は静かに涙を流し始めた。相手の顔を見ていなければ気づかないくらい。静かに流れている涙を見て、疲れを感じるほどずっと、自分に言い聞かせて耐えていたんだろうな、と思う。
私は缶ビールを置くと、膝立ちになって彼を抱きしめた。
「好きな人に男として必要とされないことも、触れられないことも辛いよね。でも、ゆずさんもきっと辛い思いをしてきたんじゃないかと思う。私はノンセクシャルのことは詳しくわからないけど、どっちが悪いとかじゃないと思う」
優太の頭をなでながら私は続けた。
「でも心の折り合いがつかない時って、しんどくて辛いよね」
声を上げて泣いている優太の頭を黙って抱きしめ続けた。私にしがみつくように抱きついている彼の腕の力が、苦しいほど強い。
しばらくして落ち着いた優太が体を離した時には、私の胸元は彼の涙ですっかり濡れていた。ごめん、と呟く彼の顔は泣いた後特有の腫れぼったい目をしていて、少しだけスッキリしているように見えた。箱ティッシュを渡すと優太は思いっきり鼻をかみ、ふぅ、と息をついた。
「お水持ってくるね」
私はそう言うとキッチンに向かい、戸棚からコップを出して水を注いだ。リビングに戻り優太に渡すと半分ほど飲んで、やっと一息ついたようだ。
「ごめん、ありがとう」
きまり悪そうに俯く彼の手を握って私は答えた。
「謝らないで。話してくれてありがとう」
その言葉に優太は少しだけ微笑むと、「スッキリした」と言った。
そして、あっという間に20時になり貸し切りの時間が終わった。
「駅まで送るよ」
帰り支度を整えた私を抱きしめながら優太が言った。
「ありがとう」
「あの、よかったら、遅れたけど俺からの誕生日プレゼント」
そう言いながら優太はソファーの下から紙袋を取り出した。驚きながらそれを受け取り中身を見る。
「実用的なものが良いかな、と思ってトレーニングウェアとプロテイン。ソイとホエイがミックスされているから腹持ちがいいよ」
「嬉しい!ありがとう。袋、開けてもいい?」
彼が頷くのを見て、私はラッピングを外した。黒の上下にワンポイントだけ刺繍がされているシンプルなウェアだ。そしてプロテインのメーカーを見て、思わず笑ってしまった。
「このシリーズ、私も飲んでる!美味しいよね」
「まじ?表参道で買ってる?」
「買ってる」
もしかしたら、お店ですれ違っていたかもしれないね、とお互い笑い合った。
「今日はほんとうにありがとう」
「こちらこそ誕生日を一緒に過ごさせてくれてありがとう」
あっという間に終わってしまって惜しい。そう思いながら彼を見上げると、小さく目が揺れている。
「…もし良かったら、一杯だけ飲みに行かない?」
迷いながら言う彼に私は一瞬迷った。しかし、私も、もう少し一緒にいたい。
「ふふ、しょうがないなぁ。ここからは時間外労働です」
私はキメ顔でとある漫画のキャラクターのモノマネをした。それを見た優太は漫画のタイトルを口にすると、私はニヤリと笑ってピンポーンと答えた。
駅に向かう途中にあったバーに入りカクテルを注文する。優太とは予約時間が終わった後、ランチや買い物に行くことは多かったが、こうして予約時間外にお酒を飲むのは初めてだ。
私も優太もお互い普段は人に言わないような気持ちを話した後だっただけに、開放的な気分だった。お互いの恋愛話を包み隠さず話し、私は普段のあけすけな性格をさらけ出した。そして、彼から旦那のことについて聞かれなくてホッとした。旦那のことについて聞かれたら答えられるよう、細かい設定は決めているけれど、できれば嘘をつきたくなかった。
一杯だけ飲むつもりが結局四杯も飲んでしまい、私はふわふわした足取りを自覚しながら、駅まで見送ってもらった。
「何線?」
「千代田線」
「最寄り駅どこ?」
「西日暮里」
「えっ!隣の隣じゃん」
お酒の影響でつい口が滑った。優太は嬉しそうに手を握りながら、千代田線の改札口まで見送ってくれる。
「今週の土曜日、予約してもいい?」
「ごめん、今週は法事で実家に帰る」
「そっか。埼玉だよね。埼玉のどこらへん?」
「秩父」
「秩父かぁ。あまりんの苺が有名だよね」
「え、よく知っているね?」
驚きのあまり笑ってしまった。あまりんの苺は確かに名産品だが、認知度が高いイメージではない。
「食品会社勤めだから」
得意げにどや顔で言った優太は、寂しそうな顔をした。
「じゃあ、しばらく会えないね。」
「来週の土日なら大丈夫」
「わかった。また予約する。俺、再来週に彼女と箱根旅行に行っちゃうから、長めの時間で予約してもいい?できたらまた家に来て欲しい」
「いいよ」
お互いしっかりハグすると、私は手を振ってホームに向かった。
ちょうど来た電車に乗り、西日暮里駅で降りると階段を上り、酔いを醒ますために舎人ライナーの高架沿いの大通りを歩く。家に向かいながら今日の一日を振り返った。
私は自分がバイだからこそ得られた経験から、優太に寄り添えるよう最大限心を砕いた。ノンセクシャルの知り合いはいないから、あくまでもネットやSNSで知り得た情報しか私の引き出しにはない。それでも、好きな人に触れることができない辛さはよくわかる。
優太は私が聞かない限り、ゆずさんの話をしない。それでも彼の話しぶりから、ゆずさんのことを大事に扱っていることは、想像に難くない。この三ヶ月間、毎週会い続けているが彼は優しく、丁寧に気を遣い、誠実であろうとする心根の持ち主だと思う。そして、無意識に自己犠牲の精神を良しとしてしまう節がある。
恐らく優太が求める特別な関係と、ゆずさんが求める特別な関係は条件が合致していないのではないか。たぶん、優太みたいに性欲があり男性扱いされることを望んでいるタイプは、最も特別視している女性から男性として求められないことは、かなり辛いはず。
私は好きになった人には、自分を特別視して欲しいと思う。その特別視というのは、無二の親友という人生で最も長く続く関係性ではなく、本能的で衝動的な、激しい想いで私を見て欲しい。
しかし、自分のことをレズだと思い込んでいた学生時代は、そういった自分の欲を封じ込めることが正しいと考えていた。好きになった子が求める友人関係を築くことが相手にとって最も最善で、そして、それが同性愛者の私なりの愛情表現であると信じていた。
しかし、それでは自分の本音の部分は、いつまでたっても満たされることは無い。だからといって、自分を満たしてくれる人に安易に走ることは、好きな人を裏切るような気持ちになり、違う相手に走ったところで結局のところは代替品でしかない。
大学に上がって初めて男性を好きになり、その人と恋人関係になった時、私はずっと望んでいた形で初めて求められ、特別視され、ずっと埋まらなかった部分を溢れんばかりに満たし、私はやっと自分のことが好きになれた。
初めて人を愛し愛されたことで、私はありのままの自分をようやく受け入れることができた。だからこうして大人になった今、自分のジェンダーを堂々と主張できる人間に成長した。
今では好きな人からは女として、もっと率直な言い方をすれば特別なメスとして求められたい、という欲望を至極自然なこととして受け止めている。仮に好きな人から特別扱いをされたとしても、そこに性的関係が生じなければ、私にとっては友人関係の域を出ることはなく、恋人としての関係は成立しない。
優太の心情を思うと切なくなる。もっと自分本位に生きてもいいのに、と言いたくなるが、本人はノンセクシャルのゆずさんにとって良き彼氏でありたい、と努力をし続けているのだ。しかし、それではいつまでたっても、本音の部分は満たされないのではないか。
もっと自分の欲が満たされるよう、自分の欲望に素直に生きられたら楽なのにな、と彼に思いを馳せるが、それが上手くできない気持ちもよくわかる。だからこそ、少しでも彼の心に寄り添い支えになりたいと思う。




