第27話 会長からの独立のお誘い
早くも転職活動に疲労を感じ始めたころ、藤本店長から仕事終わりに会長と飲みに行かないかと誘われた。これは珍しいお誘いだ。
二十時前に仕事を終えると、他の店舗の店長に挨拶をして連れだって会社を出る。煌々とした街並みの中、藤本店長の後について行くと、いかにも高級そうな佇まいの店の前で立ち止まった。店名を確認して店に入っていく藤本店長の後を、やや気後れを感じながらついていく。
八人掛けのL字カウンターに、お座敷には四人掛けのテーブルが二卓ある。カウンター席ではホステスと思われる女性が、年配の方と帰り支度を整えていた。
これから同伴かな、と見ていると、鶯色の着物を着た従業員がお座敷の席へ案内してくれた。このような上品な雰囲気のあるお店は慣れていないので、少し緊張してしまう。
靴を脱いでお座敷へ上がると、会長が右手を挙げて挨拶した。
「お疲れ様。先に飲ませてもらっているよ」
パリッとした白いシャツに鼠色のベスト、光沢のある柔らかい黄色のネクタイを締めている。会長には何度かあったことがあるが、毎回おしゃれな人だな、と思う。
「お疲れ様です!」
藤本店長が舎弟よろしく体育会系のノリで挨拶をする。体に和風のアートを施している藤本店長が勢いよく頭を下げながら挨拶をしていると、会長ってそっち系の人なのかな、と思ってしまう。
私も、お疲れ様です、と言い席に着く。テーブルの下は掘り炬燵になっているが、会長の手前、失礼にならないよう正座する。
「仕事終わりに呼び出して悪いね。飲み物、好きなものを頼んで」
会長からメニュー表を受け取る。細い流麗な文字で記載されている飲み物は、表記が上品すぎて私が知っている飲み物とは別の飲み物のように見える。
「自分はビールを頂きます」
「私はレモンサワーでお願いします」
会長が頷くと、すぐに先ほど座席を案内してくれた女性がオーダーを取りに来た。会長が飲み物を注文し、お寿司を適当に持って来て、と言う。注文の仕方がこなれすぎていてかっこいい。
着物の女性が優雅な手つきで注文した飲み物を置いていく。なんと、グラスを置くために敷かれたコースターは寄木細工だ。
「じゃ、お疲れ様」
乾杯、と言いながら会長が掲げるグラスの底あたりに、自分のグラスを軽く当てる。喉を鳴らしながらビールを飲み、上手いっすねぇ!と満面の笑みで藤本店長が言った。
「藤本から聞いているよ。優秀なんだってね」
会長の誉め言葉に、それはキャストとして?それとも事務スタッフとして?どっちだ?と思ったが、口に出さずに曖昧に笑う。
「あぁ、わかりにくかったね。キャストとしてお客様から非常に高い評価を頂いていると聞いているし、事務スタッフとして非常に優秀で助かっている、と聞いているよ」
心の内を読まれ、顔に出ていたことを恥ずかしく思う。しかし、会長からの褒め言葉は嬉しい。笑顔で「ありがとうございます」と返した。それに対して会長は鷹揚に頷くと、思いがけないことを言った。
「今日来てもらったのは、年明けに新店舗を立ち上げるんだが、よかったら一緒に仕事をしないか、と誘いたくってね」
「はい?」
みっともなく口をポカンと開けてしまった。
「あの、それは新しい店舗でキャストとして働かないか、ってことでしょうか」
新店舗はまずキャストの確保をしなければならない。姉妹店がある場合なら、ある程度キャストが集まるまで他の店舗に在籍しているキャストをヘルプとして使った方がお客様を呼び込みやすい。
「いや、そうではなく、良かったら莉奈さんに新店舗の店長をやってもらいたいと考えているんだが、どうかな」
さわやかに笑いながら会長は言った。え、なんだって?
耳では言葉をキャッチしているが、頭では理解が追いつかない。
言葉を失ったタイミングでお寿司が運ばれてきた。青磁色の食器に小ぶりなお寿司が芸術品のように鎮座している。普段なら無邪気に喜んで食べるが、さすがにそんな気持ちで手を付けられなかった。
「今すぐの返事じゃなくていいよ。でも、良かったら考えてみてくれないかな」
「あ、はい…」
私の曖昧な返事に会長はさわやかスマイルを返し、お寿司を食べるように勧めてくれる。私は頂きます、と手を合わせてマグロのお寿司を口に入れた。戸惑った状態でも、とても美味しいお寿司だ。平常心で食べたらもっと美味しく感じるだろう。
「検討する際の条件として、聞いてもらいたいんだけど」
会長が空になったコップに手酌でビールを注ごうとしていたので、私と藤本店長は慌てて注ごうとしたが、会長は手で制した。
「店長の雇用形態は今と同じで業務委託になる。月収は最低保証金額が五十万円。そこから売上に応じたインセンティブを付けている。頑張れば頑張っただけ、稼げる仕組みになっているよ。ただ、休みは会社員のように取ることはできない。取れても週一くらいだと思ってもらいたい。いかに本指名を獲得できる女性を確保し続けるかで、お店の売上げは大きく左右される。そのためにはキャストから信頼される人に店長を任せたい。お店に不満が少しでもあったら、女性はすぐに他所へ移ってしまうからね」
私は箸を置いて会長の話に耳を傾けた。藤本店長が隣で、うんうん、と頷いている。
「渋谷店は断トツで売上げが高い上に、キャストの在籍年数も長い。でもね、昔は渋谷店の売り上げはグループの中でも下から数えた方が早かったんだ」
「え、そうなんですか?」
「藤本が店長になってから渋谷店は売上上位になったんだよ。藤本が来てからもう八年経つかな」
会長が店長の方に顔を向けた。藤本店長が嬉しそうに頷く。
「はい、おかげざまで」
「川崎店の店長が退職するにあたって後任を探している時に、知り合いが藤本を紹介してくれてスカウトしたんだ」
「お声をかけてくださって本当にありがたいです」
深々と頭を下げて感謝の意を述べている店長を見て、会長を慕っているんだな、と思った。尊敬できる上司の元で働けることは職業関係なく幸せなことだろう。
「それで、川崎店の店長の元で研修させていたら、当時の渋谷店の店長が急に飛んじゃってね。仕方なく藤本を渋谷店の店長に配属させることにしたんだよ」
あれにはまいった、と懐かしむように笑う会長に藤本店長は眉間にしわを寄せた。
「あれは不忠義者でしたね」
不忠義者なんて言葉、日常会話で使う人、初めて見た。
「元々、藤本はピンサロで副店長をやっていたんだよ」
「あ、はい。存じております」
「そんなに硬くならないでいいよ。育ちが良いんだね。足を崩して良いんだよ」
私は会釈すると正座を崩した。足首を少し動かしながら痺れを取ろうと試みる。
「藤本をスカウトする前に彼の仕事ぶりを見に行ったんだけど、あの演出は凄いね。ライブみたいだった。ピンサロって使ったことないからびっくりしたよ」
「ありがとうございます」
「従業員から慕われていたし、客あしらいも上手い。引っこ抜いてきて正解だった。今の渋谷店の売上がこれだけ上がったのは、藤本がキャストが長く在籍できる店作りをしてくれたおかげだよ」
確かに。頷ける話だった。事務スタッフをやっていて気付いたことだが、多くのキャストが藤本店長に信頼を寄せている。それは、藤本店長に任せれば必ず稼げる、変な客を取らせない、トラブルが生じればキッチリ対応してくれる、安心して働けると在籍したくなる。今まで在籍したお店と比較すると安心感が全く違う。
「その藤本が莉奈さんをベタ褒めしていたんだよ。藤本は身内に対してはけっこうシビアだからね。その藤本がここまで褒めるなんて、どんな人物なんだろうと思って事前に藤本や他の店舗スタッフから話を聞かせてもらったんだ」
私は嬉しさと驚きのまなざしで藤本店長を見た。こんな風に評価してもらえているとは思ってもいなかった。
「急いで決断を出す必要はないから、よかったら前向きに検討してもらえるかな」
「はい、わかりました」
純粋に嬉しい提案だ。しかし、喜んでその提案を受け入れるにはためらいがある。業務委託で一人で店舗運営をするということは、実質休みはほとんど取れない。私がいる渋谷店も含め、姉妹店も年末年始以外は年中無休。どの店もかなり多忙であり、残業が多い。それは大きな懸念点だ。
「川崎店の店長は元々キャストだったから、気になることがあったら彼女に聞くといいよ。彼女はキャストとしてもベテランだからね」
「真田さんですよね。わかりました」
川崎店の真田店長は姉御肌タイプなので、キャストの面倒見がいい。キャスト時代はずっと本指名ランキング1位をキープしていただけに、五十歳になった今でも常連のお客様から指名を受けている。
店長でありながら、現役の風俗嬢。川崎店に在籍しているキャストから、指名をされ続ける秘訣について、真田さんはよく質問をされている。ちなみに私が初めて真田店長と話した時は四十歳くらいかと思った。この業界にいると、美魔女と呼ばれる中年層が多いことに目を見開いてしまう。
会長が追加で日本酒を頼み、お猪口が人数分きた。私は会長にお酌をしながらふとした疑問を口にした。
「あの、会長はどうして風俗店をやろうと思ったんですか?」
「そりゃあ、儲かるからだよ」
右の口角を上げてニヤッと笑った。
「元々、風俗店の店長をやっていたんですか?」
「いや、僕はエンジニアだよ」
意外すぎる答えである。
「今でも必要があればエンジニアの仕事はするよ。ちなみに店で使用しているシステムは俺が作った」
「えっ!すごいですね」
「ホームページがなかった時代はね、電話で客とお店がやり取りしていたんだ。でも、ホームページが世の中に出始めた時に、これを風俗店に導入したら流行るんじゃないかと思って、風俗店をやっていた友人に提案したのがきっかけ」
「昔はどうやってお店の電話番号を、知ることができたんですか?」
「色々だよ。新聞や雑誌の広告、電話ボックスにチラシを貼ったりね。電話ボックスは知っているよね?」
「はい。緑色のやつですよね。使ったことはありませんが」
まじか、とつぶやきながら会長は笑った。
「若い人と話していると、俺らがおじさんだと痛感するね」
藤本店長に同意を求めながら笑っている。会長はまだまだ若いですよ、と会長の空いたお猪口にお酌をしながら藤本店長が言った。
「それで人づてにお店のホームページの作成や、システムの構築を頼まれるようになって依頼をこなしているうちに、風俗業界に興味をもって自分でやってみようかなと思ってさ。知り合いの店で働かせてもらって独立したんだ」
なんとも変わった経歴に興味が湧いて私は前のめりで話を聞いた。
「僕は風俗店を利用したことが無いから、最初はキャストが言っていることが全く理解できなくってさ。本番って意味も何のことか分かってなくて、キャストによく怒られたよ」
「え、会長は風俗を利用しないんですか?」
「僕には妻がいるからね」
複数の風俗店を経営しているトップなのに、メンタルがイケメンすぎる。世の中の男共に聞かせてやりたい。
「お店の売上が安定するまでは、エンジニアの仕事がメインだったかな。今では色んな人のおかげでここまで大きくなった。藤本のような優秀な人材がいてくれるおかげだよ」
会長は優しいまなざしを藤本店長に向けて言った。店長は感極まったように両手を両ひざに置いて頭を下げた。
風俗業界なのに事務所の雰囲気が一般企業と変わりがないのは、この人が創業者だからなのだろう。この業界に来るまでは、風俗業界にいる人は一般企業で働けない、何かしらの事情を抱えている人が集まるところ、という偏見を持っていた。しかし、扱うものが性産業なだけであって、それ以外は他の企業と大差ない。
その後、会長と藤本店長の行きつけのクラブに足を運んだ。私が事務スタッフとして働き始めた頃に、藤本店長たちと遊びに来たお店である。
席に着くと、以前、隣に座ってくれた髪の毛が綺麗な女性が来た。あら、と言いながら、お久しぶりですね、と会釈してくれる。
「えっ!私のこと覚えているんですか?」
ここに来たのは一年半くらい前だ。一回しか来てない私を覚えているとしたら、記憶力がとんでもなく優れている。
「もちろん覚えています。随分と素人っぽいお方だな、と思ったので」
素直に喜べず微妙な顔をしていると彼女は、褒めていますよ、と口元に手を当てて微笑んだ。細い指先に赤いマグネットネイルがよく似合う。手際よく水割りを作り、勧めてくれたので会釈して一口飲む。
「ふふ、すごいですね。一年以上も風俗にいるのに、全くそんな感じがしないです。その普通っぽい感じがお客様ウケ、いいんでしょうね」
私は初めてここに来た時に、風俗嬢に見えないことが武器になる、と言われたことを思い出した。あの時は何のことかわからなかったが、確かに私の普通っぽさ、風俗嬢には見えない雰囲気はお客様から評価されている。お客様からしたら、普通の女性と不倫の疑似体験ができる、そのギャップに価値を感じてお金を払うんだろう。
「店長はキャストの服装について指導しますから、そのおかげかと」
「仮にシンプルな服装をしたところで、その人の雰囲気は隠しがたいと思います。例えばいかにもキャバ嬢といった方が無地のシャツを着ていたとしても、なんとなく水商売かな、って予測しちゃいません?」
たしかに、と私は笑ってしまった。風俗嬢には見えないように振る舞うことを意識していたことは正解だったな、と改めて思う。
会長がシャンパンを開けてくれたので、全員で乾杯した。
「お姉さんはこの業界長いんですか?」
「そうですね。八年目になります」
「前は別の業界で?」
「えぇ、前は医療事務の仕事をしていました」
「意外ですね」
「よく言われます」
「どうしてこの仕事に?」
お姉さんはシャンパングラスを揺らしながら、少し考えたあと教えてくれた。
「最初はお小遣い稼ぎですね。給与が低かったので、もう少し遊ぶお金が欲しくて、友人と一緒に働いたのがきっかけです」
シャンパンを一口飲むお姉さんにつられて、私も飲む。
「自分でも言うのもなんですが、私、記憶力は良いんです。特に人の顔を覚えるのが得意で。一度会って話したことがある人は、基本的に忘れません。その人の顔を見れば以前なにを話していたか、だいたい思い出せます。」
「すごいですね。ギフテッドというやつですか」
「そこまで凄いものではないです。目で見た映像を覚えるのは得意ですが、文字だけの情報を覚えることはすごく苦手なので」
医療事務時代は業務ルールを覚えるのが大変でした、とお姉さんは微笑んだ。
「この仕事だと私の記憶力は武器になる、と気づいてからやる気が出ました。なので、思い切ってホステスに転職したんです」
「そうだったんですね」
自分の武器を生かして仕事ができる、それはとてもやりがいがあることだろう。
「知夏さんはどうしてそのお仕事に?」
本名を呼ばれて私は思わず吹き出した。
「え、私、本名を言っていましたっけ?」
「えぇ、以前お越しいただいた際に、お名前を伺ったら本名を教えてくださいました。そういうところも素人っぽくていい方だな、と思ったので印象に残っているんです」
当時はこの業界に入って日が浅いとはいえ、素人感満載で恥ずかしい。
「ちなみに私の名前にも、夏、が入っているんですよ」
「私、前に来た時にお名前って伺っていましたか?」
「えぇ」
申し訳ないがまったく思い出せない。とりあえず多そうな名前を挙げてみた。
「なつみさん?」
「ブー」
お姉さんはかわいらしく唇を尖らせて、指でばってんを作った。
「なつきさん?」
「ブー」
「こなつさん?」
「ピンポーン!小さい夏、と書いて小夏です」
よくできました、と指で丸を作ってニコッと笑った。
「本名ですか?」
「源氏名です」
「あ、ですよね」
水商売の女性が本名を教えることはそうそうない。当たり前のことを聞いてしまって恥ずかしい。私は苦笑いしながら先ほどの質問に答えた。
「この仕事をするきっかけは、投資詐欺に遭って借金を作っちゃったんで。でも、もう完済したので今年一杯で辞める予定です」
「それは…」
小夏さんは一瞬、驚きの表情を浮かべると優しい笑みを浮かべた。
「大変な経験でしたね。でも、その苦労は絶対役に立ちますよ」
「そうですかね…」
「若い時に大変な思いをされている方は、その後の人生において幸福度が高いと思います」
「どうしてですか?」
「これはお客様の話を聞いた上での私の価値観ですが、若い頃に苦労をされた方は対応能力が高いと思います。それは問題解決能力だったり、強靭な精神力だったり、多面的な視野で物事を見る能力であったり。問題に振り回されず、しっかりと手綱を握ることができる印象です。いずれにしろ、ご自身にとって困難な出来事を乗り越えた経験は、その人の自尊心を高める役割を果たしてくれるのではないでしょうか。自分には価値がある、と自分を信じ切れることは、とても幸せなことだと思いますので」
その言葉は私にとって、嬉しいエールだ。
「ただ、なにかしらの困難に対して、自分は悲劇の主人公だ、と自身の不幸に酔いしれるタイプの方はその限りではない、と思います。とにかく愚痴が多いですから。そして、私の嫌いなタイプです」
これは悪口になってしまうので内緒ですよ、と小夏さんは囁いた。
「残念なことに記憶力が良すぎるので、そういった方のお話をいつまでも覚えてしまうんです」
まぁ、ちゃんと相手はしますが、と笑いながら冗談めかして小夏さんは言った。思わぬ人間臭い一面に私は親近感を覚えた。
「どうして知夏さんがいつまでも素人っぽい雰囲気でいられるのか、なんとなくわかりました」
小夏さんの笑みに私は微笑んだ。
「小夏さんはずっとこのお仕事をしていくんですか?」
「そうですね。できればずっと続けていきたいですが、若さが武器になる仕事ですから。やはり 現役でやれるのはどんなに頑張っても四十歳までかなと思っています。」
「小夏さんの能力があれば独立もできるのでは?」
「それは買いかぶりすぎです。私は人を使うのは苦手なんです。個人プレーが性に合っているんですよ。まあ、その時になったら考えようかと思います。将来、どんな価値観になっているか、今の時点じゃわからないですしね」
その鷹揚な態度に、自分自身への信頼や自信が垣間見えて、強い人だなと思う。自分ならなんとかできる、そういった得難い資質を持ち合わせていることに、この人も若いころに何かしら困難なことがあったのかしら、と思いを馳せた。




