凛子の霊異記【焼け跡の燃え滓 或いは一陽来復(いちようらいふく)】
登場人物紹介
結城 凛子
陰のある性格。クールで人付き合いは良くない。愛想が悪い。心を許した相手には非常に友好的になる。
強い霊感を持つ。霊を見つめることにより霊の生前に同調でき「重なる」ことができる。霊に無念の原因を探り、それにより問題の解決に寄与できる。
夏休みに入る頃には気温はすっかり上がり、もう外に出たくなくなってしまう。
高校生にとっては貴重な長期休みなのだ、もう少し涼しい時期を休み期間に当てられないものか。凛子は近所のパン屋へバイトに向かいながら、ひとり愚痴った。
つばの広い麦藁の帽子は、梅雨前に商店街で投げ売られていたものを衝動的に買ったものだが、この夏では本当に重宝している。
小洒落た店構えのパン屋へ入り、店頭に出ていた女性へ挨拶すると、凛子はカウンター横の扉を開けバックヤードへ入る。手早く着替えると頭にバンダナキャップをかぶる。
時計を見ると丁度良い時間だ。凛子は売り場に出た。
「お疲れさまでした」
そう言うと、すでに店頭に立っていた女性がほほ笑んで言う。
「いつも早く来てもらってありがとうね」
「いえ」と会釈しながら凛子はいつもの作業にかかる。
各トレイの商品を並べなおし、また、焼きあがった新たなパンを新しいトレイに並べて陳列棚へ出す。
すぐに昼時のピークが押し寄せてきた。レジ打ちも加わってくるとなかなかに忙しい。
気が付くと午後2時を過ぎていた。
出勤した時に「ありがとうね」と言ってくれた店主の妻が一息付けと促してくれる。
彼女こそ休みなく働いているようで恐縮するのだが、一応そのような取り決めにしているようで、凛子はありがたく休憩に入らせてもらった。
夏休みに入ってから凛子はこの店でバイトを始めた。と言っても初めてバイトに入ったのは去年の冬休みの時だ。そして春休みを挟んで高2になった今も、休みごとに凛子はこの店で働いている。
評判の良いパン屋でもあり、パンは美味しい。店主の妻も愛想が良く、店はかなり繁盛していると言えるだろう。
その代わり、忙しいタイミングでは本当に目が回るほど忙しい。
日本人はいつからこんなにパンが好きになったのか、米を食え! とピーク時の客足に翻弄されながら凛子は幾度か心のうちで叫んだ。
だが本当に忙しいのは店主であろう。早朝から夜遅くまで生地をこね、そして焼いている。一日にいったい何個のパンを焼いているんだろうか、いずれ聞いてみようと思っている。
とは言え、米を食えと毒づく凛子がそれでもこの店でのバイトを続ける理由は、終業後に売れ残ったパンを貰えることにあった。独り暮らしの凛子にはこれは大変にありがたい食料だ。少なくとも長期休みの期間は食費が普段と比べ物にならないほど「浮く」。
それだけに貰える売れ残り品がないときはショックである。そのようなときは仕方なく商店街で、見切り品の弁当を求めさ迷い歩くのだ。歩くのは腹が減るうえに、見切り品と言えども金はかかる。やはり無料で持ち帰ることのできる美味しいパンに優るものはないのだ。
凛子にとって、つまりはこの店のバイト代だけでは測ることにできない好待遇が、ここでバイトを続ける理由になっているのだ。
しかし、実は店の側にも凛子を雇うメリットはあった。こう見えて凛子は見栄えが良い。それなりに愛想も良いので隠れたファンも多いのだ。レジ打ちも早く正確であり、そしてなによりよく機転が利くのが大きい。ちょっとしたことで先回りして準備をしていたり、店主や店主の妻が困ったときには、どうしてそれに気づいたのかと思うほど、痒い所に手が届く気遣いが再三みられ、二人を驚かせた。
そのような稀有な人材だ。長期休みのたびに来てくれるなら、逃がしてなるものか。好待遇の裏にはそのような思惑もあるのだ。それゆえ少し余った生地があれば小さくともパンとして焼いておく。商品にはできそうにないが個人的に家で食べる分には十分だろう。そういうパンを持ち帰らせることもある。独り暮らしであることは聞いているので、できるだけ手ぶらで帰らせることが無いよう、店主も店主の妻も、実は気を遣っているのだった。
一週間ずらしたお盆休みで3日の休みがもらえた。店も閉めるらしい。さて、それではどうしようか。3日間、家に籠っているのも良いが、この暑さである。冷房代も馬鹿にはならない。ならば図書館にでも出かけるか。勉強になるし宿題も片付くだろう。とはいえ、宿題は概ね終わらせてある。凛子の高校はそもそもあまり宿題は出ないのだ。自主的に勉強し、夏休み明けの試験で休み中の学業を測る、という方針のようだ。ただ凛子はサボっていても成績は良い。そう考えると、頭も顔も、ついでにスタイルも良いのだから完ぺきではないかと思われるのだが、彼女の周りに引き寄せられる同年代の連中は、軒並みその残念な生態に理想を打ち砕かれる。
圧倒的に愛想が悪いのだ。パン屋でのそれは「超」の字が付くほどの特別バージョンの姿なのだ。
その愛想の悪さは付き合いの悪さにも表れており、事実、凛子には友人と呼べるほどのクラスメイトは居ない。孤高を気取っているわけではないのだが人が寄り付かない。正確には寄り付いてきたとしても定着しないのだ。
もうひとつ。
彼女に付いて回る、ある噂が彼女へ近づこうとする者たちをその都度躊躇させる。「呪われたオカルト女」という噂でありレッテルだった。
貰った3日間の休みは有効に使いたい。何より夏休みは冬や春と比較してはるかに長く、日々の凛子の特別スマイルも限界を迎えていたのだ。
リフレッシュが必要だ。凛子は独りでなにか美味しいものを食べに行こうと決めた。
幸いに貯金はある。一泊旅行くらいは問題ないだろう。時期的にも休み明けにはバイト代が入る。
唐突に凛子はお好み焼きが食べたくなった。理由はない。それは「もんじゃ」ではなく、「お好み焼き」だ。できればチェーン店ではない知る人ぞ知る店が良い。
で、休みの初日、朝、凛子は大阪へ向かう新幹線に乗っていた。
広島も候補にしたのだが、いかんせん遠く予算オーバーになる。それに大阪であればたこ焼きというものも楽しめるだろう。本場であれば東京で食べるようなチェーン店の高いたこ焼きではないものが食べられるとネットでは書かれていた。いくつかの、いわゆる粉物の有名店の名前と住所をメモして、凛子は旅立ったのだった。
昼をまわってどれくらい経ったのか、途方に暮れた凛子の姿がグリコの看板の下にあった。
宿は天王寺という場所あたりに取った。比較的安く泊まれるエリアらしい。ただいわゆる「日雇い労働者の街」も近く、若い女性は気を付けるべき、とも書いてあった。そのためできるだけ駅に近いホテルを取り、荷物だけを預けて凛子はいそいそと食事に出かけたのだ。ホテルについては、高級な宿ではないにしろ、駅近くと言うことで少し高い金額を必要としてしまった。そのため食事は安く済ませたい。「喰い倒れ」と豪語するのだ、安く美味しいものを食べさせてくれるに違いない、凛子の中で大阪の街への期待値はぐんぐん上がって行った。
しかし、現実はそれほど甘くはなく、大阪もどうかすると東京と変わらない値段の店がほとんどだった。
「ミナミ」と呼ばれる難波駅周辺が正真正銘の「本場」であると勝手に決めて飛び込んだのだが、メモしてきた店は、何れも美味しそうではあるが値札を見ると皆一様に思っていたより高い。
なんだよ、ネットの紹介は嘘ばっかりじゃねえか、と心の中で毒づいていたのだが、加えてダブルパンチとなったのはグリコの看板下で、声をかけてくる男どもだ。
一応、せっかくなので名所は抑えておこうと、空腹を抱えて歩いてはきたが、何度断っても、次から次へとチャラそうな男が寄ってくる。ついには外国人まで寄って来るので、とうとう凛子は逃げ出してしまった。そして空腹を抱えて当てもなく歩く。
まずい、このままではストレス解消どころか、空腹で行き倒れになる。背に腹は代えられないので思わずオレンジの看板が目立つ丼のチェーン店へ入ろうかと思ってしまった。
しかし、辛うじて凛子の妙なプライドが、本人曰く食へのこだわりが、それを押し留め、凛子はさらに歩いた。そして気が付くと、いつの間にか大阪駅の近くまで来ていることに愕然とする。頭の中で地図をイメージし、ここからここまで歩いたのか、真夏の昼間に、お腹を空かせて。よろよろと古風な寺の横にあった小さな公園に入り、木陰のベンチで生温くなったペットボトルのお茶を飲んだ。蝉が喧しく鳴いており暑さを増幅させる。
「失敗した」
凛子は後悔して呟いた。こうなったら今日はどこかで適当に済ませて、明日の朝にでも、天王寺でも大阪駅でもどこでも良いから、少しマシに見えるものを食べよう。一食くらいなら少々高くても大丈夫だ。
どっと疲れを覚えながら、疲労困憊の体で凛子は立ち上がろうとし、ふと隣のベンチを見た。
古い着物を着た女が座っており、凛子と目が合った。
しまった、油断していた
後悔したが遅く、凛子の目の前が暗転し、気が付くと凛子は雑巾がけをしていた。
これは... あのベンチに腰かけていた女の体だろう。ここはどこだ?
慣れているとはいえ、流石に不意を突かれれば予備知識もなく、また、対処する構えもとることができなかった。しばらくは成り行きに任せるしかない。
女は広い屋敷を雑巾がけや箒で掃いたり忙しそうに働く。
いつの時代だ、ずいぶんと古い。 そう思いながらも徐々に見当がついてくる。
女中、いや、下女ということか。そして時代は明治と思われる。場所は言葉遣いから大阪のままだろう。
下女は、商家などで、主に住み込みで働く従業員、と言えば適切なのかどうか、家事全般を担う労働者だ。この体の主は、と言えば歳は15、6と言ったところか。この時代ならこの年齢での労働は普通だっただろう。
...凛子が彼女に同化したまま幾日かが過ぎた。
これは、少し長い。この少女は何を無念として残したのか。凛子には見定めることができなかった。
それにしても。と、感心する。
良く働く娘だ。
実際、「とよ」と呼ばれる彼女は良く働いた。朝から晩まで掃除洗濯飯炊きまで。付き合いながら凛子は自分も家事スキルが上達しているような気になってしまう。
時折、とよの生活が早送りになるようになった。眠っているときはもちろん、単調な日々では早送りになるのだ。
凛子が同化して初めての給金が貰えた。とよはどうするのだろうか、と、わずかを貯めるため行李の中の缶へ入れる。残りはすべて実家へ送金するようだ。家人に許しを得て郵便局まで急ぎ足で向かい為替で送るのが、都度のことのようだった。
しかしそれもやがては早送りの中に埋もれていく。とよは何を見せたいのだろうか? 凛子は訝しく思った。
これまで何度か経験した、霊との同化、または協調は、おそらく無意識なのだろうが、無念に対する最も強烈な体験を見せつけてくるものだった。そして時に、その体験に伴う複雑な感情が溢れかえってくることもあった。
しかし、これほど穏やかで平穏な毎日を繰り返し見せてくるのは何故だろう?
いくら考えても日々の生活の中で答えは見いだせなかった。
こつこつと僅かずつでも貯めたお金が、なにか良い着物でも買えそうなくらいにまで貯まった。とよの嬉しさがひしひしと伝わってくる。行李の中の缶に入れた金を見ながら凛子もうれしく感じていた。
だが...
半鐘が遠くで鳴っている。今朝がた東の方で起こった火事は消える気配が全くなく、折からの強風に煽られ瞬く間に西の方へ広がっているそうだ。堂島にあるこの家も危ないかもしれない。家人に指示されたとよは主人たちと荷づくりに精を出していた。自分の行李の中に己の衣類を詰め込む。そして若い衆と一緒になって大八車へ纏めた荷物を積み込んだ。その時、東の空を見ると黒煙が迫っている。
これはまずいぞ! 誰かが叫んでいる。これ以上はいけない。
商家の皆は大八車を押し始めた。とよも自分の行李を車に乗せて一生懸命に押す。
しかし車が込み合い、一向に進まない。あちらこちらで怒声が聞こえる。やがて火の粉が舞い始めた。凛子は嫌な予感に包まれる。とよ、あんたまさかこの火事で...
その時主人の号令で車を放棄することが決まった。皆、最小のものだけ持って走り出す。とよも行李から金の入った缶だけを抱え逃げ出そうとしたが缶は足元に落ちてしまい金は散らばった。慌てて拾い上げたが残りの金を拾い集められる状況ではなかった。とよは諦めて残った金を缶と共にしっかりと抱え込んだ。とよの行李と散らばった金は人の波に埋もれてすぐに見えなくなってしまった。
火の手が見えた。火が迫ってくる。とよは逃げることに必死になった。やがて主人たちともはぐれてしまう。火の粉が熱く、むせるような煙の臭いが、強風に乗ってとよを包んだ。
そしてまた早送りになった。
次の場面に移った。焼け跡の外れ、かろうじて難を逃れた曽根崎の新たな商家で、とよはまた働いていた。以前の商家からは暇を出された。幸いに缶の中にあった金は減ったとはいえまだある。また頑張れば良い。とよは前を向いていた。凛子はそんなとよが愛おしくなっていた。
しかし、一通の手紙がとよのもとへ届く。とよの父親が倒れたという知らせだった。とよは新たな奉公先を辞して兵庫にある実家へ戻った。幸いに父は無事であったがしばらくは世話が必要だろう。とよは母と共に父の世話をした。やがて、父の具合が落ち着いた頃、とよはまた大阪へ出た。新たな奉公先を見つけることができたのだ。ただ実家と大阪の間を通う旅費や、実家での父への世話でとよの貯金は底をついていた。缶の中には銭が少ししか残っていない、底の見えるようになった缶に、とよはどうしようもない悲しみを覚えた。とよは沈みがちになった。
それでも新しい奉公先のおかみさんに認められ、とよはおかみさんの世話を任されるようになった。おかみさんの行く先々に付いて回ることが増える。
おかみさんは着道楽だった。美しい着物をいくつも持っており、とよはその管理や洗濯、つくろいなどを任されるようになっていた。ただ、凛子はとよの異変に気が付き怯えを感じていた。
その日、おかみさんは主人と共に出かけて行った。とよは特別に休みを貰えた。普段の働きに対するボーナスのようなものだろう。だが、とよは主人たちには見せない陰鬱な面持ちでおかみさんの箪笥を見つめていた。
――駄目だ、とよ、それは駄目だ
凛子は必死に叫んだがとよには届かない。とよは箪笥を開け美しい着物の一つを手に取ってしまった。
おかみさんの着物を纏い、とよは舞い上がった。美しい着物で私も美しくなった。このまま町を歩きたい。町を歩いておかみさんのように人から振り向かれたい。強い思いがとよを包んだ。
とよは町に出て夢中でどこともなく歩いた。ただただ楽しかった。
しかしやがて夢は覚める。日も暮れ、今はいつ頃だろうか、気が付くとミナミにほど近い場所にいた。ここでとよは青ざめた。何と言うことをしてしまったのだろう、おかみさんの着物を盗んでしまった。奉公先の「主人の着物」を盗んでしまった。とよは絶望した。今更帰ることはできない、謝っても許してはもらえないだろう。
半泣きになりながら、とよは、とぼとぼと歩いたのだが、足は自然と奉公先に向かう。奉公先はあの火事では焼けなかった。火事のなかった場所だ。とよは奉公先のある淀屋橋の近くをうろうろと、そしてとぼとぼと歩きまわった。もう、深夜になっている。町の空気は冷ややかにとよを責めるように包み込んで来る。
川のたもと、橋の中ほどでとよは歩みを止めた。絶望がとよを包んでいる。
「おっとう、おっかあ。わし帰れんようになった」
あの火事がなければ、あの火事さえなければ、わたしはなにも悪いことはしていなかった。一生懸命に働いて、実家を助けて、お金も貯めて。奇麗な着物を買おうと思ったりもしたのに。それなのにあの火事でなにもかもおかしくなった。
とよの中を様々などす黒い感情が溢れた。しかし、それは唐突に静まる。
盗んだのはわたしだ。おかみさんは派手好きだけれど、それでも私に良くしてくださった。わたしは幸せなはずだった。また一からやり直せば良いだけのはずだった。でもわたしは「盗んだ」。
とよを再び絶望が襲う。そして欄干から身を乗り出した。
――駄目だ! とよ、駄目だ! これがとよの無念だったのか、頑張ってきたことが報われなかった、あともう少しでささやかな夢がかなうかもしれなかった、その一歩手前で理不尽さに奪われた。
そのやり場のない怒りが、理不尽さへ、そして弱いとよ自身へも向けられていた。
ああ... 凛子は目を瞑った。
「何をしておるのだ!」
突然頭の上で誰何され、同時に抱き抱えられた。
金属音が響いている。眼を向けるとそこにはサーベルを下げた巡査がとよを抱きしめながら見つめていた...
警ら中の巡査に連れられて、警察署でとよは泣きながらすべてを話した。巡査は辛抱強くとよの話を聞くと、すぐにとよの奉公先へ向かって行った。
とよは部屋でずっと泣いていた。
驚いたことに奉公先のおかみさんは、とよを許してくれた。普通であれば「盗み」として厳罰が下されるにもかかわらずだ。しかも暇を出すのではなく、そのまま自分の身の回りの世話を、引き続き任せようとしてくれたのだ。
警察から話を聞いた新聞社の記者は、あの大火事という理不尽さに翻弄された少女の過ちに同情した。少女のことは小さな記事になった。
それで何が変わると言うのでもなかったが、凛子が見るとよは幸せだった。最後の早送りが終わった時、とよは夫と共に赤子を抱いていたのだ。
凛子は安堵の涙を流した。
そして世界が暗転する。
気が付くと公園のベンチに座っていた。無音の世界が広がる。しかしそう凛子が感じた直後に蝉の声がわっと覆いかぶさってきた。この場所に来た時にも鳴いていただろうか。ずいぶん昔の記憶を掘り返すようで思い出せなかった。
何十年も過ごしたはずなのに、現実の世界はそれほどの時間が経ってはいないようで、凛子は眩暈を覚えた。
そしてゆっくりと隣のベンチを見る。最初に目が合ったとき、しまった、と思った時の印象では、どこか無表情に思えたのだが、今、見るその表情からは、むしろ懐かしさに震える。
「とよ...」
とよは微笑むとゆっくりと公園の向こうを指さした。どこにでもあるようなマンションが並ぶ普通の住宅街だが... 改めてとよへ向き直ると、とよの姿はもうなかった。
とよに指さされた住宅街の方へ歩いてみた。と、一件の戸が開き、そこから暖簾を抱えた女の人が出てくる。かけ終わった暖簾を見て、そこが「豊味」という名のお好み焼き屋であることに凛子は気づいた。ふらふらとそちらへ向かう。そうだ、現実の肉体は朝から何も食べていなかったのだ。
「あの、もう入っても良いでしょうか」そう尋ねる凛子にその女性は少し驚きながらも微笑み、凛子をいざなった。
「美味しい」熱いお好み焼きを口で吹き冷ましながら、凛子は夢中で食べた。
たこ焼き用の鉄板も見える。凛子はたこ焼きもお願いした。
後ろで扉が開き、賑やかそうな老人が入ってきた。
「おっ、珍しい。お客さんやないか?」
しかしその声は咎めるような口調ではなく、むしろ嬉しそうな語感であったので、凛子は老人を見て会釈した。老人は気を良くしたようだ。
「とよちゃん、この姉ちゃんにたこ焼き焼いたって」
「たこ焼きはもう注文されてますよ」と笑う女性は、今確かに「とよちゃん」と呼ばれていた。そう言えば微笑んだ表情にどこか面影があるような気がする。しかし、まさか。
固まる凛子の横で、「かまへんやろ、二つくらい食べれるわ。あかんかったら持って帰ったらええ」老人は上機嫌でしゃべる。そして冷蔵庫を勝手に開けてコップとビールを出すとそれを注いで飲み始めた。
地元の常連だ。生の大阪のおっちゃんだ。
感動している凛子に「いくつや?」と聞く「えらいべっきんさんや」と言いながら。
高校生であることを聞くと少し残念そうに持ち上げかけたビール瓶を下げる。
「どっからどう見ても高校生じゃないですか」
とよちゃんが呆れたように笑う。
釣られて凛子も笑い、東京から美味しいものを食べに来たこと、でも思っていたより高く、なんとなく敷居の高いお店ばかりだったこと、などを話すと老人が大笑いして、それはそうだ、最近は観光客相手ばかりになっている、地元の人間が行く店はもっと別な所にあるもんだ、と言うことを大阪弁で喋ってまた笑った。
「とよちゃんの店はええで。安いしうまい」という老人に、おかみさんは「おかげで赤字ですよ」といなしながら、ふと凛子の顔をまじまじと眺め、
「どこかで会ったかしら」と、尋ねた。
凛子は、ずっとこの場所でお店をしていらっしゃるのですか? そう尋ね、肯定の言葉を聞いてから、「それでは違いますね。いえ、東京のお好み焼き屋さんかも、と思ったんですが」と言い繕った。
とよが、長い時間を共につき合わさせた詫びに、あるいは埋め合わせに、この店を教え、自分の何代か後に生まれた子供が作る、美味しいものを食べさせてくれたんだろうと思った。
しかし、あの、公園のとよは何だったのだろうか。無念から迷っている、という類では決してなかった。
あえて考えるならば、あれはとよの幸福の残滓であり、たとえ今は辛くとも、いつかは幸福になれるということを子孫に伝えたいという「念」だったのかもしれない。
それがたまたま凛子と同調し「重なり」、思わぬ時間を共有したことで、少しだけイレギュラーに、凛子にも幸せをおすそ分けしてくれたのかもしれない。
そう、幸せのおすそ分けは、お好み焼きだけではなかった。
結局、その夜の食事は、皆、老人が持ってくれたのだ。流石にそれは申し訳ないと恐縮する凛子に対し、とよちゃんも「甘えなさい」と言ってくれ、「一期一会よ。こんどまたどこかであなたが誰かに親切にすれば良いわ」と、付け加えてくれた。
凛子は感謝の言葉を述べた。
東京へ戻ってから凛子は、その店あてに礼状を書いた。割り箸の箸袋に住所が書いてあったので持ち帰ってきていたのだ。
礼状の返事は、気にしないで良いこと、あの老人にはわたしから伝えておくから、と言うことが書かれており、最後に、なぜか書きたくなったけれどなぜかしら、と言葉を付け加えながら「一陽来復」という言葉が添えられていた。
調べてみると「陰が極まって陽に転じるように、悪い状態が終わって良い状態になること」という意味だった。
ああ、とよからの伝言だ。凛子もまたこの言葉を心に留めようと、そう思った。
参考資料
明治43年5月12日付大阪毎日新聞「虚栄のために盗み」
大火救護誌:大阪市